14節:「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
・14節~18節で、エレミヤの個人的な3つの嘆願を主に祈る。
・1番目の嘆願:「エレミヤの癒しと救いの嘆願」
・「唯一神だけが頼れる存在」と告白。「私の賛美」‥唯一の称える対象。
15節:ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』
・神に反する者たちの、エレミヤに対する声
・「神のことばはいつ成就するのか?」・・嘲笑している。
※エレミヤの預言活動開始から30年後に大規模捕囚(BC597年)が起こり、41年後に神殿破壊&捕囚(BC586年)が起こる。
16節:しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。
・エレミヤは、自分が預言者として正しいということを、3点挙げて説明する。
①預言者という働きを拒否しなかった。
②「癒されない日」・・大規模破壊(捕囚、壊滅的破壊)を望む気持ちはない。
③神のことばを忠実に預言してきた。神こそがそれをご存知です。
※これほど預言者として忠実ですから、どうぞ救い、癒してください、と語っている。
17節:私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。
・2番目の嘆願:「安全、守りの嘆願」
・恐ろしい目に合わせないでください。神は自分の「避け所」と告白。
18節:私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえることのないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。」
・ 3番目の嘆願:「敵(偽預言者たち)への報復の嘆願」
・「私を迫害・・」第1文:エレミヤを責めるのは預言者、祭司たち。
※今は彼らがエレミヤを責めているが、これが逆転し、彼らが恥を見る様に。
・「彼らがうろたえ、・・」第2文:預言が成就して、暢気な彼らがうろたえる様に。
・「彼らの上に・・」第3文:彼らに災いを与え、罪に応じた倍の裁きを与えてください。
☆エレミヤへの迫害は相当厳しくなっていた。命の危険があるほどと想像。
※11章21~23節の暗殺計画は翌年の出来事。

☆迫害する者たちに罪悪感はなく、むしろ正義を振りかざしていたと想像される。
裁きの主権は神にある。その思いを前提として、敵への災いを祈っている。
19節:主は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、
・神はエレミヤに、メッセージを語る場所を指定する。
・場所は王たちが、そして民の全てが出入りする門→エルサレムの全ての門。
※エルサレムの全ての門
●歴代の王たちが、エルサレムに入った門
●一般の民も利用するすべての門
メッセージを語る対象は、王から一般の民、全員。
20節:彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、主のことばを聞け。
21節:主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。
・メッセージの対象は王も含めたエルサレムの全住民。彼らに指示が示される。
・安息日規定に従うようにとの指示。私見・・とくに商売を優先する規定違反であろう
・「あなたがた自身」→(へ)nephesh・・「魂」の意味。ほかに「命」、「心」など。
※ (ユダヤ人)魂を保ち、守れ((へ)samar)!・・モーセの律法を思い起こせ!
・モーセの律法によれば、安息日に荷物は運ばない。働かない。出エジ20:8~10
22節:また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。
・更に安息日の徹底を促す。安息日の聖別の指示。先祖に命じた戒め通りに!
・家から荷物を出さない・・仕事をしないという事の徹底。
23節:しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
・彼ら(前節の先祖たち)はこの命令を聞かず、この戒めを受けることは無かった。
・世に流され、律法を守る思いは全くなかった。
※律法離れ、神離れの堕落ぶりは、目を覆うほどに深刻。
24節:もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い──主のことば──安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、
・「もし、・・安息日を守り、仕事をしないなら・・」‥これは神の期待。
※この時代の全員(王から一般人)に語っている。
・「この安息日の規定だけでも守るなら、」と。
※「民が律法に、つまり神に立ち返る気持ちがあるなら・・」と語られる神。
これは、特定の祝福があるということ。イザヤ58:13~14。
※民に、神に立ち返る悔い改めの兆しが見えれば、という神のあわれみ!
25節:ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。
(26節まで、安息日遵守に対する特定の祝福が示される)
・ダビデの王座の継続・・南ユダの存続。
・すべての門が王や首長、一般人を守る。町が堅固になり守られることを示す。
・都市エルサレムは、長い間(17:4、olamに同じ)人が住む地となる。
26節:ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。
・周辺諸国は、エルサレムにいけにえを携えて、主の宮に来る。
・神殿が礼拝の中心となり、神が崇められる。
※あくまでも限定的な祝福であるが、かつてない内容。
27節:しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」
・しかし、神のことばに逆らい、安息日を汚し、荷物をもって門を出入りするなら・・
・消えない炎により、門をはじめ宮殿もろとも破壊する。
※安息日遵守の重要性が浮き彫り。守れば祝福、反すれば破壊。(捕囚)
※大捕囚前の民への、神の大きな譲歩。気付きの促し。しかし、気付かぬ民。
※エレミヤの嘆願を聞くわけではないが、結局のところエレミヤの嘆願通りになる。
捕囚期間中、安息日は規則正しく守られたとされるが、ネヘミヤ記(13:15~、BC445~)で、守られていないことが記されている。中間時代は守られたが・・。
『安息日とイエス様』
・安息日の遵守の必要性が示された。安息日を守るようにと厳命されましたが、イエス様は、「安息日は人間のために設けられた・・マルコ2:27」と説明されました。肉体的、霊的安息の必要性。
・新約時代は、人々が神への真の信仰によって生きることを、神が期待されます。決して規則、規定によるものではありません。規則規定があれば、罰則があり、これらに縛られる人生となります。
・イエス様はこれらの縛りから私たちを解放してくださり、更に未来の栄光の人生を約束し、聖霊を与えられました。イエス様はこう言われます。「人の子は安息日の主です。」 ルカ6:5。
・今、私たちはイエス様という安息をめざしています。この時代の肉の束縛から解放されて、真の安息、千年王国、新天新地という栄光の人生を歩んでいるのです。
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。」ヘブル4:9~11