ヨシヤ王が死に、息子エホヤキムが王となった年。この王は悪王で、その治世のはじめに語られた預言と事件。1:18の「エレミヤの要塞化」が証明される箇所でもあります。
1節:ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。
・エホヤキム王の治世の初め→ヘブル語の「治世の初め」は、1年間を指す専門用語。
※時代背景はBC608年・・BC609年からBC608年にかけてという事。
2節:主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。
・指示→「神殿の中庭で説教せよ」
・対象→祭り(3大祭りのいずれか)に集うユダのすべての人々
・注意→預言のことばを一つも省かず正確に伝えよ。(手心を加えるな)
※神のことばは正確。伝える者が正確を期すべき。聖書は誤りなき神のことばだから。
3節:彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。
・説教の目的・・民の神への立ち返り、悔い改めの機会の付与。
※「もし立ち返るなら、マナセ王の時の定まった裁きを遅らせよう」。→回避は不可
4節:彼らに言え。『主はこう言われる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
5節:あなたがたに早くからたびたび遣わしてきた、わたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら──実際、あなたがたは聞き従わなかった──
6節:わたしはこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とする。』」
7節:祭司と預言者と民全体は、エレミヤがこのことばを主の宮で語るのを聞いた。
・神に従わず、律法を守らず、更に神が遣わした預言者のことばも聞かない状態。
・神はこの神殿をシロのように滅ぼし、ののしりの的とする。この預言と同じ預言が7章12~14節にある。7章の時代背景はBC598年で、これの10年後のことである。
・祭司、預言者、すべての人がエレミヤの説教を聞いた。
シロ(聖書地図4のE・5)エフライムの地の都市で、エルサレム建設前の宗教、政治の中心地。
・約束の地に入って、初めて「会見の天幕」が設けられ、その後神殿が建てられた地。
・ペリシテが侵略し、陣営に契約の箱を持って行ったが奪われ、町も神殿も壊滅。(Ⅰサム4:3~22)
・その後、人は住んだものの老朽化した。(エレ41:5)
8節:主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。
9節:なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。
・祭司、預言者たちはエレミヤを捕まえ、裁判を待たずに評決→死刑。
・シロのように滅ぶと言った。これは律法違反と断じた。※申18:20の違反。エレミヤを偽預言者とみなした。
・エレミヤの罪を告発し、その行為の真意を問いただす祭司、預言者たち。
・そこに人々も集まって来た。
※エレミヤが神殿を軽視していると判断。
※神殿は彼らの目に力強く映っていた。
10節:これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。
・「首長たち」・・ヘブル語で政治的指導者。ここでは法的担当者と考えられる。
・「新しい門」・・ウジヤ時代(約1世紀前)に建てられた門(エレ36:10)。
※第1神殿のため門の位置については詳細は不明。
※門は裁判所として用いられた。創23:10~16、ルツ4:1~12など
※彼らが座に着いて、裁判の準備は整った。
11節:祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」
・祭司、預言者たち→法的担当者(首長たち)と集った民衆にエレミヤを告発。
・罪名:偽預言を語り、神殿と都を辱めた罪。死刑に相当!
12節:エレミヤは、すべての首長と民に告げた。「主が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。
13節:さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。
・告発されたエレミヤはその法廷で、神の命令に従い預言したことを語る。
※「神が私を遣わされた」→預言者の使命を全うした。
・更に、エレミヤは、この神の試みに国民全員が応じる責任があることを語った。
・神に立ち返り、悔い改めれば、神は裁きを思い留まる用意があるのだから・・。
※エレミヤは、自分の無罪よりも、民が神に立ち返ることが優先と認識。
14節:このとおり、私自身はあなたがたの手の中にあります。私を、あなたがたの目に良いと思うよう、気に入るようにしなさい。
15節:ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に主が私をあなたがたのもとに送り、これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから。」
・私は神の預言者である。好きなように裁けば良い。
・しかし、罪のない血の報いは、国民全員が受けることになることを知れ。
※淡々と語るエレミヤに、偽預言者を思わせる態度は微塵もない。
16節:すると、首長たちと民全体は、祭司たちと預言者たちに言った。「この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、主の名によって、私たちに語ったのだから。」
・裁判官と人々の結論→「無罪!」 神の声を語っただけであると結論づけた。
17節:それで、この地の長老たちの何人かが立って、民全体に言った。
18節:「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の主はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。
・「この地の長老たち」・・預言者たちの巻物を記憶、研究する責任のある神学者。
・その長老たちの何人かが立ち上がって人々に、かつての預言者について語り始める。
※モレシェテ人ミカ・・ミカ書の人物。イザヤと同時代の預言者。
・ミカ3:12 「シオンは耕され、エルサレムは瓦礫の山、・・」→エレミヤに似た預言。
19節:そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」
・当時のヒゼキヤ王も民もミカを殺さず、神を恐れ祈り、それが神に聞かれ守られた。
※Ⅱ列19:1~7、14~19、Ⅱ歴、イザヤ、参照。
・エレミヤを殺すことは、ミカの例に反し、自分たちにひどい災難を招くと警告。
20節:主の御名によって預言している人がもう一人いた。キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの都とこの地に対して、エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた。
・預言者ウリヤ・・シェマヤの子。
・キルヤテ・エアリム出身(エルサレムの西およそ12km)。
・エレミヤと同様の預言を語る人物。良き預言者はエレミヤだけではないことに注目。
21節:エホヤキム王、すべての勇士、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。
・エホヤキム王は彼の説教を聞き、彼の処刑を決定。
・ウリヤは処刑を避けてエジプトに逃避。
※エレミヤは神に自然死を約束されたが、ウリヤはそのような約束は受けていない。
22節:そこで、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わした。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を随行させて、エジプトに送った。
・エホヤキム王の初期(BC609~BC605)はエジプトと繋がりがあった。
※エジプトの協力を得られた可能性大。
・エホヤキム王はアクボルの子エルナタンをエジプトに派遣。
※アクボル→ヨシヤ王の重臣。Ⅱ列22:12~14(女預言者フルダへの派遣メンバー)
※エルナタン→エホヤキムの重臣。エレミヤの最初の巻物を焼こうとするエホヤキム王を止めた一人。(エレ36:25)
23節:彼らはウリヤをエジプトから導き出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、その屍を共同墓地に捨てさせた。
・ウリヤは捕らえられ、王に剣で処刑された。死体は共同墓地へ。
※共同墓地とは、ケデロン渓谷の墓であろう。偶像礼拝の場所。
24節:しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。
・シャファンの子アヒカムに守られ、エレミヤは殺されなかった。
※シャファン→ヨシヤの重臣。Ⅱ列22:12~14(女預言者フルダへの派遣メンバー)
※他のシャファンの息子たちと孫
☆ゲマルヤ(エレ36:10、25)・エレミヤの最初の巻物を焼こうとするエホヤキム王を止めた一人。
☆エルアサ(エレ29:3)・エレミヤに捕囚地の民へのことばを託される。
☆ゲダルヤ(アヒカムの息子、孫)・エルサレム陥落後、エレミヤを世話する人物。
・ユダ陥落後のユダの総督となる人物。
シャファンは霊的に優れた人物で、彼に続く子孫に霊的に優れた人物も存在した。
『愛されている自覚』
・エレミヤは死刑の告発を受けても怯えることなく毅然として、預言者の働きを示し、加えて神の御心をすべての人々に語った。その強さはどこから来るのだろうか。
・神を愛せよとの命令が新約聖書にあるが、これは神は徹底的に愛しているという前提のもとに、愛する行為が求められているということ。この理解がないと、神との関係はとても脆弱になる。
・例えば、上司の息子はどんなに叱られても、決して見捨てられることはしない。しかし、身内ではない者が、いくら信頼しても失敗すれば見捨てられることになるのは仕方がないのが一般常識。
・今私たちは、天の父なる神と親子関係にある。どんなに失敗しても神は私たちを見捨てない。どんな時も、神に愛されていることを忘れないことがエレミヤのような強さの秘訣ではないだろうか。
「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」ヨハネ第一 4:15~16