ヨエル2章18節~32節
18節:主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。
神はイスラエルの民(ご自分の民)とともに、エルサレム(ご自分の地)も愛する。
ゼカリヤ 1:14~17、8:2~6 にも「ねたむほどに・・愛する」とある。
「ねたむ」とは、出エジ34:14、エゼ39:25にもあるように、非常に強い愛を表すこだわりの表現。
18節は並列法で書かれていることから、「ねたむ」と「深くあわれむ」の言葉は違えど、神は両者を同等に愛し、執着していることがわかる。それ故、エルサレムが常に存続し、併せてイスラエルの民も常にどんな状況になろうと残れる民となる。
この節は、エルサレムとイスラエルの民に対する神の根本姿勢を示している。。
19節:主は民に答えられた。「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油をあなたがたに送る。あなたがたはそれで満ち足りる。わたしは二度とあなたがたを、国々の間でそしりの的としない。
あわれみ深く、怒るのに遅い慈しみの神、主は、民の17節の祈りを聞いて、答えられた。
諸国のそしりから回復させ、穀物、葡萄酒、油・・つまり産業を回復させる。
20節:わたしは、北から来るものをあなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやる。その前衛を東の海に、その後衛を西の海に。その悪臭は立ち上り、その腐った臭いは立ちこめる。主が大いなることを行ったからだ。」
北から来るもの・・北からのイスラエルを攻める軍勢をハルマゲドンの戦いで主が打たれる。ネゲブの砂漠に追いやり、その前衛部隊を東の海(死海)で滅ぼし、後衛部隊は西の海(地中海)で滅ぼす。異邦人への最後の戦いである。
「主が大いなることを行った」とは、大患難時代の、最終の裁きを行ったということ。
21節:地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。主が大いなることを行われたからだ。
22節:野の獣たちよ、恐れるな。荒野の牧草が萌え出で、木が実を実らせ、いちじくとぶどうの木が豊かに実る。
23節:シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。
24節:打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。
この大患難時代の最後の裁きが行われたなら、もう恐れることはない。楽しみ喜べ!
野の獣よ、牧草が回復し食料が満ち溢れるから。
イスラエルの民よ、神の民よ。楽しめ、喜べ。!
新改訳2017「主は、義のわざとして、初めの雨を与え」、第3版「主はあなたがたを義とするために、初めの雨をたまわり」、新共同「主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる」・・物理的な雨とともに、聖霊の傾注がなされる・・物質的にも、また、霊的にも回復するという状況を表現していると判断できる!
⁂「初めの雨」は「義の教師」と解釈すべき。「義の教師」とは、イエス様。
25節:「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、嚙みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。
これまでの異邦人による大襲来に対して償う。単に賠償するという意味ではない!
償う・・原語は「シャーラム」で、「回復する、完成する、報いる、償う」という意味がある。
神は、裁かれてきたイスラエルの民を、ここに完全な神の民として回復、完成させる!
26節:あなたがたは食べて満ち足り、あんたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。
27節:あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。
イスラエルの民は、永遠に恥を見ることが無くなる。それは、主が、人間にとってとても不思議なことをなさるから、・・・
イスラエルの民はすべてに充足して、主をたたえるようになる。
常にイスラエルの真ん中で主が民と共存し、もう偶像は存在しない。
28節:その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
29節:その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。
30節:わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。
31節:主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
32節:しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。主が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主が呼び出す者がいる。」
「その後」・・大患難の裁きとイスラエルの民の悔い改めが終わった時、という意味。
ここに示される内容は、聖霊の傾注と大患難時代のイスラエルの残れる者の救いである。
「すべての人」とは、32節の主の御名を呼び求めるイスラエルの民ということである。
「霊が注がれる」・・使徒2章17節~18節でペテロがこの個所を引用して聖霊降臨を説明している。ペテロは、ヨエル書による聖霊の傾注と同じ現象が、今ここに起きていることを表現した。決して、この時が大患難の最後の時ということではない。ましてや、イスラエルから取り去られ教会に注がれた、という意味では、決してない。
なぜなら、
ペテロは、あえて使徒2章19節~21節まで語っている。この預言の真意がここに含まれているからである。
19節:また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。20節:主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。21節:しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」
つまり、ヨエル書がいう大患難後の聖霊傾注の時には・・天と地にふしぎが現れ、血と火と立ち上る煙があり、太陽は闇に、月は血に変わるという現象が起こらなければならないということである。