エレミヤ書17章1節~13節

1節:「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。

・本来、神の民の心に刻まれるのは律法、神の教えでなければならない。
・しかし、この時代、彼らの心の板、そして祭壇の角には彼らの罪が刻まれている。
・鉄の筆、ダイヤモンドの先端で彫られている。内も外も偶像に侵されている。
 ※英語訳:鉄製のペン、鉄製の道具;火打石の先端、ダイヤモンドの先端
 ※罪とは偶像礼拝を中心とする神への反抗、または無視の姿勢。


2節:彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。

・彼らの子どもたちまでもが、アシェラ像という偶像を覚えるほどになっている。
・偶像が受け継がれている状態。→神よりも偶像が優先されている。

3節:野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。

・「わたしの山よ」とは、エルサレムというより、シオン山(神殿の丘)を指す。
・民の罪の裁きとして、この土地と共に、財宝、宝がすべて敵の戦利品となる。

4節:あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」

・「手放さなければならない」・・(へ)shamat→落とす、休むを意味する。
●捕囚原因の一つに、安息年の違反がある。Ⅱ歴36:20~21
●7年に一度、1年間の安息を土地に与える定め。これが490年間守られず。
●490年÷7年=70年分の安息期間が必要→捕囚期間が70年間という事。
●ユダヤの民は土地の占有権と共に財産の剥奪、そして敵の奴隷となる。
・490年の起点は、士師記の後半からサウル王の頃と言われています。
・「とこしえまで」・・(へ)olamは、永遠というより、「長い期間」という意味。

5節:主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。

・神のことば。人に信頼することの愚かさ。
・(いずれ塵に帰る)人間((ヘ)adam)に信頼を置く人((ヘ)geber)は呪われる。[gever…人、男、勇士
 ※「腕」・・(ヘ)zeroah→腕、力を意味する。英語訳ではstrength(力、強さ)。
・「肉なる者を自分の腕とし」→「人を自分の力、頼りとし」・・人頼みは神離れ

6節:そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。

・「荒れ地の灌木」・・成長が阻害された低木。神に反するイスラエルの民。
・幸いは低木の上を通り過ぎる。木の根が神のいのちの水に届かず、成長できない地に生き続けることとなる。

7節:主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。

・「その人は主を頼みとする」の中の「頼み」→自信、希望の意味。
・その人は、「主に信頼する者には祝福がある」という事を確信している。

8節:その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。

・詩編1篇3節が引用されている。
・「根を延ばし」(ヘ)shalach・・広がる、伸ばす、突き出す、という活発な動きの意。
・積極的に根を延ばし地下水を得て青々と成長する。
神に信頼する人は、このように豊かに成長する!

9節:人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

・エレミヤの質問。または神がエレミヤの疑問を代弁。
・「ねじ曲がっている」・・(へ)akov・・詐欺の、ずるいの意。
・「癒しがたい」・・(へ)anash・・深刻な病、不治の病
 ※人の心は欺瞞に満ち、深刻な病の状態なのに、それを誰も悟ることが出来ない。

10節:わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」

・わたし、神は人の心が探れる。人の思い、動機、心の奥を知る神。
・そのわたしが、彼らの心を見て、生き方を見て、その実を確認する。
・その実に従って、神はその人に相応しい報い、すなわち裁きをする。
神はいつも人の内面を観察しておられることを忘れてはならない

11節:しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得る者がいる。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる。

・鷓鴣(しゃこ)と呼ばれるキジ科の鳥。(へ)qore・・(英)partridge キジ科。
・ヤマウズラ(鷓鴣鳥)とも呼ばれる。Ⅰサム26:20、二カ所。
・神が示す公正(福祉的内容、隣人愛)を怠って、富を優先する者。
神の民として持たなければならないものを捨て、愚かにも偶像の価値観を抱いて富を求めて生きる者への警告!
・愚かなヤマウズラは、自分のものではない卵(偶像)を抱えている。
フルクテンバーム博士によれば、ヤマウズラは別の鳥の卵を抱卵する性質があり、雛は成長してその親鳥から離れて行くとのこと。
・その富はたちまちその人から去り、最終的には愚か者であることに気付く。
神を見失った人の心は、富が失せてはじめて自分の愚かさに気付く。

12節:私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。

・「神の栄光の王座は、創造の前から高き所にある」と語るエレミヤ。
 ※人が存在する前から、神は存在されていた。改めて神の絶大なる存在を意識するエレミヤに、以前(15:18)のような懐疑的思いが入る余地はない。

13節:「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」

・前半はエレミヤのことば。
・イスラエルがそんな神という希望を捨てることは危険である。→恥となる。
・後半は神のみことば。 「地に」→「地上に」「塵に」という意味。
・神から離れる者は皆、地に残されることになる。(地に名が記される)
 ※栄光の場所(メシア的王国)に行くことはできない。
・いのちの水→永遠のいのち(救いの源)である神を捨てたからである。    

 

『真の平和』
・17章5節で神は、「いずれ塵に帰る人間に信頼を置く者は呪われる」と戒められました。人が築こうとする平和の陰には利権が隠れ、個人の欲が蔓延り、結局のところ、平和など夢物語。
・人が平和を築こうとすると、その前に争い(戦争)ありきとなり、平和のためには戦いが必要、犠牲が必要という論です。となれば、平和を守るのも戦いとならざるを得ません。
・神が構築される平和には何の影もありません。神の栄光が真の平和、平安を生みます。人が平和と称して欲望を貪る世界で、神はこの平和実現に向けて歴史を展開しています。
・こうした神のご計画を知る神の子である私たちは、世の欲望や争いに振り回されず神を見上げる姿勢を保ち、神の道を見失わず、常に正しい一歩を踏み出して行きましょう。
「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」コロサイ3章2~3節

2025年05月22日