エレミヤ書2章20節~3章5節
偶像礼拝の熱心さを、①くびきのない牛(20節)、②雑種のブドウ(21節)、③身に沁みついた汚れ(22節)、④さかりのついた動物(23~24節)を挙げて、指摘する。
20節:実に、遠い昔にあなたは自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いて、「私は仕えない」と言った。まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。
(①くびきのない牛)
・くびきは牛や家畜に掛けられる。仕事をするという意味。
・エジプトで奴隷から解放されたが、偶像を追いかけて、神と律法(かせ)を拒否したイスラエルの姿。
・高い所に祭壇を設けて偶像を拝む。遊女、娼婦そのもの。妻となったイスラエルが偶像との霊的淫行へ。
・ホセア4:16では、子羊をモチーフにして、同様の内容を語っている。
21節:わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。
(②雑種のブドウ)
・純種な良きぶどうとして植え、荒野という教育期間を経て育てたのに、何故、悪い雑種になったのか?
・純種の良いぶどう→(へ)sorek は「選り抜かれた」の意味。
・ソレク渓谷のブドウが有名。ペリシテのエクロンを通るソレク(ソレイク)川流域。(デリラの出身地)
・ホセア10:1~に似たような預言。悪いブドウの話は、申命記32:32~33。
22節:たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。──神である主のことば──
(③消えない汚れ)
・イスラエルの汚れは、どんな石鹸で洗っても落ちない。(重曹→鉱物性アルカリ、灰汁→植物性アルカリ)
・イスラエルの不義は、根付いて消え去らない。
23節:どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。
24節:また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。
25節:裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。
(④さかりのついた動物)
・バアルの神々を礼拝した不義を認めようとしないイスラエルに対して、ヒノムの谷を思い出せと指摘。
・人身を犠牲とした象徴的場所。Ⅱ列23:10
・イスラエルの姿は、さかりのついたラクダ。その欲望的行動は無秩序極まりない。
・欲情にあえぐ野ろばにも似る。雄を求めて道を駆け回る姿。
→イスラエルも同様に、欲求不満で制御不能状態となる。人間の本性。
・靴が裂けるほど追いまわし、のどが渇くほどに求め続けてはいけないと言っても、
→イスラエルは、「無理です。他国の男・・偶像が好きなのです。」と言う。
26節:盗人が、見つかったときに恥を見るように、イスラエルの家も恥を見る。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも。
・泥棒が捕まって恥を見る様に、イスラエル全体は、王、王子、祭司、預言者はじめ、全員恥を見る。
・偶像礼拝の何と空しく愚かであるかを知るから。
27節:彼らは木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。実に、彼らはわたしに背を向け、顔を向けない。それなのに、わざわいのときには「立って、私たちを救ってください」と言う。
28節:では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか。
・石や木を崇めて、父と呼び、本物の神を無視する。しかし、わざわいが来れば神に助けを求める。
・それは、まったくの自己都合。自分の立場を忘れて、神を好き勝手に扱う愚か者と、神の目には映る。
あの石や木はどうしたのか?それらに救ってもらえばよいのではないか?町の数ほどに、たくさんあるじゃないか!
マナセ王の時代、偶像が町の通りの数ほどに設置された。(Ⅱ列21章1~16、Ⅱ歴33章1~20参照)
神の目には、姦淫の何物でもない!
29節:なぜ、あなたがたはわたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしに背いてきた。──主のことば──
・なぜ、あなたがたはわたしと争うことをするのか。どうして私に背くことをするのか?(お門違いだ!)
・律法を守らず、その目的を達成できなかったことも指摘している。
30節:わたしはあなたがたの子らを打ったが、無駄だった。彼らはその懲らしめを受け入れなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。
・あなたがたの子ら・・イスラエルが神と婚姻関係を結んだ後生まれた子供たち、つまり偶像礼拝をして来たすべてのイスラエル人をさす。
・懲戒を与えたが、気付かなかった。更に預言者を送ったが、彼らを殺してしまった。(例:エレ26:20~)
・預言を蔑ろにすることは、最終的に神の裁きが下されることを意味する。
31節:あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。
・今の世代の民よ!(ヨシヤ王の時代の人々を指している)あなたがたにとって神は荒野であり、暗黒の地であったと思っているのか?
・神は荒野にあって、更には暗黒にあって民を導く存在である。
・なぜ民はそのことを忘れて、「私たちはさまよう道を歩みます。神のところには戻りません。」と、応答するのか?!改革の難しさが伝わってくる。
32節:おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。
・女性は、未婚、既婚を示す飾りを肌身離さない。
・これは、神の民が律法を肌身離さずにいることを期待するもの。
・イスラエルは、長きに渡りその期待を裏切ってきた。(詩106:13参照)
33節:あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。そのようにして、あなたは悪い女にさえ、巧みに自分の方法を教えたのだ。
・イスラエルは妻でありながら、巧みに他の神々を恋人にしていた。
・本物の神に仕えるふりをして、異邦の神を崇める姿。
・異邦の神を崇める異邦人の手本となるような勢いであったと想像する。
34節:あなたの裾に見つかるのは、咎なき貧しい人たちの、いのちの血。彼らが押し入るのを、あなたが見たわけでもないのに。しかも、これらすべてのことにもかかわらず、
・その遊女ぶりは、殺人者になるほどである。
・マナセ王時代→Ⅱ列21:16 ・・無益な大量殺人、Ⅱ列23:10・・人身御供(子供)
・強盗を目撃したというわけでもないのに、その命を奪う。
・人の命も大事だが、偶像に従う姿勢を神は完全に嫌われている。→悪とされ、裁かれる対象となる。
35節:あなたは言う。「私は潔白だ。確かに、御怒りは私から去った」と。あなたが「私は罪を犯してはいない」と言うので、今、わたしはあなたをさばく。
36節:あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリアによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。
・神の目に悪を行いながらも、無実を主張する。そんな姿勢だから、神は裁かれる!
・いとも簡単に偶像に走るのは何故なのか?北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたのを見ただろうに!
・間もなくあなたがたもエジプトに頼り、そして裏切られ、恥を見ることになる。
うぬぼれの強い人間は、自分は大丈夫と高を括ってしまうのではないか?
気付きの促しに敏感に素直に応答する生活スタイルが必要!
37節:そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。
・「そこから」・・エジプトを指す。
・バビロン捕囚直前に、エジプトに亡命する者たちがいた。(特に上層階級者ではないか)
・安住の地に留まる(申12章)という神の命令に背くことになる。→神を無視した行為が当たり前となっていた。
・結局、バビロンはエジプトまで進軍し、それらのユダヤ人はバビロンによって連れ出される結果となる。神の裁きである。
3章
1節:もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。──主のことば──
・神は、離婚、再婚に関する確認をされている。・・申24:1~4
律法では、離婚された女が別の男と結婚し、その後何らかの理由で離婚、または死別した時、この女と最初に離婚した男は、この女と復縁できない。➡土地を汚す罪となる
イスラエルは偶像礼拝で離婚され、その後も多くの偶像を慕って淫行に走った。そんな女が復縁するのは律法違反ではないか?ところが・・・
・「淫行を行って」・・(ヘ)zanah・・「娼婦のように振舞う」の意味。結婚したという事ではないことに注目!
・イスラエルは娼婦のように振舞ったが、それらの愛人と結婚はしなかったゆえに、神との再婚は可能。
・ホセア3:1~5でもホセアとゴメルの再婚は可能。(ゴメルを買い取ってから、再婚するならOK)
あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。→あなたは、多くの愛人と淫行を行ったが、わたしのところに帰って来なさい。と訳した方が良いのではないか。(Yet, return to Me, NKJV)
普通の人なら、捨てられても仕方がない立場の女(イスラエル)である。そんなイスラエルを赦し、また妻として迎えるという愛を、神はここで示されている。
人間には及びもつかない、通常では考えられないほどの、神の深い愛である。
2節:目を上げて裸の丘を見よ。あなたが共寝しなかったところがどこにあるか。荒野のアラビア人がするように、あなたは道端で相手を待って座り込み、淫行と悪行によって、この地を汚した。
・「裸の丘」・・山に祭壇を築くがゆえに、緑が削られる状態。
・「荒野のアラビア人」・・道端で声をかけて商売する姿。娼婦の振る舞いのイスラエルの罪は土地を汚す。
3節:それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。
・土地のけがれ・・雨が降らず、祝福が遠ざかる。
・額に遊女である印まで示す(誰が見ても遊女だとすぐわかる)ほどであるにもかかわらず、自らの恥(罪)を認めようとはしない。
4節:今でもあなたは、わたしにこう呼びかけているではないか。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。
5節:いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのですか」と。なんと、あなたはこう言っていながら、あらん限りの悪を行っている。』」
・偶像を追いかけている今でも、あなたはわたしに、「あなたの恋人だった」と言って助けを求める。
・いつまで怒っておられるのですか? 永久に恨みを持ち続けるのですか? そう言いながら、悪事を行っているイスラエル。娼婦のような振る舞いとしか言いようがない。
回帰不能点は既に越えてしまったが、一時の神の赦しは可能である。確かにヨシヤ王の回帰運動は神に裁きの猶予を与えたと思われる。とは言え、人々の内面は改善の兆しも見えないというのが実情であったと考えられる。
神の栄光のために
・3章1節は、誤解しやすい箇所です。
・イスラエルの娼婦のごとき行動は、裁かれて当然。再婚などあり得ない!と考えがちです。実際、「いのちのことば社」発行の聖書注解をみると、そのような解説です。
・しかし、フルクテンバーム博士の解釈(中川先生も同様)に触れて考えると、神の絶大なる愛の深さがクローズアップされます。絶対に契約を守られる神!
・新約時代において、聖霊の内住を与えて私たちの人生を新たにしてくださったその御業は、2度と失われることがありません。こうした形で、私たちに神の愛が示されています。
・完全なる救いを与えられた私たちは、救われた者として聖霊の内住を心から喜び、その確信を得て、神の栄光のためにこれからも皆と共に、日々歩んで行きましょう。
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」 エペソ1章14節