マラキ3章13節~4章6節

13節:あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。 ―主は言われる― あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。

神は素晴らしい未来を備えているのに、イスラエルの祭司と民のことば(思い)は,常軌を逸している。かつて、神に従うと誓ったあの民はどこへ行ったのだろうか?

民は、当たり前のように「私たちが何を言いましたか?」「そんなこと言ってませんよ!」と言う。

14節:あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。

15節:今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」

お前たちの心の思いはこうだ!「神に仕えても、戒めを守っても、主を恐れても無意味!」むしろ今は、神の民を離れることは幸せであり、裁きもなく、神を試みても何の問題もない。

世の中の価値観に埋もれている状態
近未来⇒エズラやネヘミヤが、立て直しを図りはしたが、結局、マラキ書の預言どおり、民は心の偶像礼拝へ突き進む。
遠未来⇒未来のDKNJの前の状態を示しているとも考えられる。人類は、神を忘れ、全くの人間中心思考で活動することになる。

16節:そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。

そんな愚かな民の中にも残れる者はいる。→残れる者・・・レムナント
主は、主を恐れる者たち、すなわち真の信仰者たちが語り合っているのを聞いた。
常に神を第一優先とする人々のことばを、神は喜ばれる⇒それは、私たちの祈りがきかれているということ
そんな彼らの言動が、記憶の書→記録の書に記される。神のみこころに届いていることを示す。信仰者の行動が記された書。後に主からの報いを受けるときの参考とされる。

私たちも、聖化のプロセスを歩むうえで、記憶の書を意識してはどうだろうか!

17節:「彼らは、わたしのものとなる。―万軍の主は言われる― わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

主のものとなる。→主の宝、主の宝の民、聖なる民、となる。出19:5~6、申26:16~19
この成就は、大患難時代を経てメシア的王国となった時である。

 

18節:あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」

大患難時代において、神の壮絶な裁きを目撃する。それはノアの洪水以来の2度目。
神に仕える者と仕えない者の全地球レベルでの区別が明確になる。DKNJ+HMD

 

4章

1節:「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。 ―万軍の主は言われる― 

『見よ、その日が来る。』→決定されている事態を示している。
かまどのように→イエス様の火の精錬。ここにグレーゾーンはない!
根も枝も→子孫も含めてすべて区分(聖別)される。すべてをご承知の神の裁きは正しい!
この裁きは、ゼカリヤ書をはじめとする預言書に大患難時代、ハルマゲドンの戦いの預言として、既に示されている。


2節:しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

神に信頼し、恐れる真の信仰者である『残れる者』→主を呼び求める民。義認の民。
癒しは霊的、肉的の両方。
そのときの喜びは、長年の苦労(罪)からの解放であり、自由の獲得であり、契約の成就。


3節:あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。 ―万軍の主は言われる。

ここに、真の勝利が確定。民も真の勝利を体感し、神を心の底からたたえる。
悪者どもを踏みつける→イエス様が蛇の頭を打つことと重なる!
彼らは焼かれて地の下で、永遠の苦しみを味わうことになる。

悪を行う者どもは焼き尽くされる。しかし!万軍の主は言われる。お前たちの内の残れる者は大丈夫だ!必ず勝利すると、神のご計画(みこころ)が示されている

4節:あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。

神の勧告が示される。それは、モーセの律法を覚えよ!という内容。
それを思い出させるのは初臨のイエス様。
ホレブ(シナイ山)での契約→申4:10~14、申5:1~10
この契約(モーセの律法)を守られなければ、神のご計画の次のステップに移行できない。
イスラエルの不遜者と異邦人は全て滅ぶことになる。
その回復のために、メシアなるイエス様の来臨がある。

敢えて神は、律法を『わたしのしもべモーセの律法』と言われていることに注目。新たな律法がイエス様によってもたらされる暗示か?

5節:見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

『主の大いなる恐るべき日』→大患難時代
中川先生:預言者エリヤが大患難時代の前に主から遣わされる。

*吉田案

預言者エリヤ→3章1節の使者→表現は単数だが2人を指している
⇒バプテスマのヨハネと契約の使者イエス様
―根拠として―
①3章は1節~24節と考えられる。
②すべて神のみことばである。
③3章1節は、マラキの名にちなみ、混沌の中にあって、希望的未来を示す二人の使者の存在を、1人のエリヤ(偶像礼拝者との戦士、昇天)で示し、それが結論となっている。

3章1節と4章5節の預言は、両者ともに「遣わす」という言葉が使われている。
3章と4章は一つの章と見ると、くれぐれも念を押して申し伝えておく意向が伺える。
『・・彼は、わたしの前に道を備える。』→神殿に来るための道を備える使者。
イザヤ40:3~『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。・・・」』
バプテスマのヨハネは自身を、このイザヤの「荒野で叫ぶ者」と称した。ヨハネ1:21~23(役割重視)
イエス様は、マタイ11:7~14において、マラキ3:1の前半「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。」の箇所を用いて、バプテスマのヨハネをエリヤと断定している。
御使い(ガブリエル)の証言・・ルカ1:13~19→「ヨハネはエリヤの霊と力で、主(イエス)に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、・・」⇒6節の書かれている内容とラップしている!
ヨハネはそのことは自覚していたと思われるが、3:1の契約の使者でないことも自覚し、エリヤではないと言ったと考えられる。契約の使者(ハ・アドン)とは主なるイエス様と知っているから。彼の謙虚な姿勢である。
更に、イエス様はエリヤと呼ばれる人物が「既に来ている」と明言している。
これは、ヨハネと共に、同じ辱めを受けて天に昇るご自分のことをも指しておられたと考えられる。マタイ17:11~12、マルコ9:11~13など
大患難時代の前のエリヤの出現であれば、時代関係も問題ない。
もし、エリヤ自身が来るなら、既に変貌山で、実際に彼が来ている。マタイ17:1~3、など。
更に、そこにはマラキ4:4に敢えて書かれたモーセも同時に出現した。段階的進展と考えれば、DKNJの前と言える。(マラキ書を知る者は、思わず勘違いする光景)
DKNJ直前のエリヤ出現の預言はマラキ書以外に見当たらず、否定はしないが、現在のところエリヤ→二人の使者→ヨハネとイエス様、と考えたい。

6節:彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」

『父』→英語表記は複数形であり、『一般の父達』と解釈。
イエス様が初臨された後、イスラエルの民の中からイエス様の信者がでる。
すると、旧来のユダヤ教の父と子が争う事となる。(キリストの律法と口伝律法)
それは現在でも頑なに続いている悲しい状況。その状態がいつまでも続くことは、イスラエル民族の破滅につながる。契約の使者は、イスラエルの民の心の拠り所となって再臨し、アブラハム契約を成就する。

神は最後に、目の前にいるイスラエルの民は今後更に、神に背を向ける愚かな民となるけれども、イスラエルの民に対する深い愛を表明されている。この預言書以降、約400年間、神の預言は与えられず暗黒へと進んで行く。そんな未来を神は全てご存知で、次のステップを備えておられ、神の愛に気付く者を導かれる。
そして、メシアなるイエス様の来臨による、十字架の御業!

2023年05月25日