エレミヤ書29章15節~20節
15節:あなたがたは、『主はバビロンで、私たちのために預言者を起こされた』と言っていた。
・「あなたがた・・言っていた」は、「かつてからあなたがたは・・言っていた」。
・「バビロンで、私たちに預言者を起こされた。」→嘘を語る偽預言者を信じた。
・偽預言者たちは、「王族や神殿の残存はバビロン捕囚が短期間で終わることを意味する」という偽りの預言をし、人々に希望を与えた。
確かに、バビロンには正しい預言者(ダニエル、エゼキエル)はいたが、人々は、バビロンの偽預言者は神が立てたと主張した。
神は偽預言者を遣わしていない!→ユダに残る民の罪が示される
16節:まことに、主はこう言われる。ダビデの王座に着いている王と、この都に住んでいるすべての人々と、捕囚としてあなたがたとともに出て行かなかったあなたがたの同胞について、
・ユダに残っているゼデキヤ王や捕囚を免れて残った民への宣告。
17節:万軍の主はこう言われる。『見よ。わたしは彼らの中に剣と飢饉と疫病を送り、彼らを悪くて食べられない腐ったいちじくのようにする。
・エレミヤ24:1~10で示された「腐ったイチジク」のようにする、という宣言。
※BC597年以降に成就、方法は、剣、飢饉、疫病による。捕囚、神殿破壊。
18節:わたしは剣と飢饉と疫病で彼らを追い、彼らを地のすべての王国にとっておののきのもととし、わたしが彼らを追い散らした先のすべての国々で、のろいと恐怖のもと、嘲りとそしりの的とする。
・この裁きが世界中のすべての人々にとって恐怖、また嘲りとそしりの的となる。
・バビロン捕囚の悲劇のみならず、AD70年の神殿崩壊と世界離散を指す。
・この世界離散は、さらなる世の恐怖とそしりの的となった。
19節:彼らがわたしのことばを聞かなかったからだ──主のことば──。わたしは彼らに、わたしのしもべである預言者たちを早くからたびたび遣わしたのに、あなたがたは聞かなかったのだ──主のことば。』
・裁きが長期にわたる理由が示される。
※神が遣わした真の預言者の声を聴かずに拒否したのがその理由。
真の預言者とは、① 律法に忠実かどうか。②預言が言葉の通りに成就するかどうか。
20節:私がエルサレムからバビロンへ送ったすべての捕囚の民よ、主のことばを聞け。
・捕囚地の民は、ユダに残された民よりも良い生活を送っている。
※だからと言って、ユダの地の民と同じ過ちを犯してはならない!と警告している。
※その失敗は、偽預言者に聞き従ったことである。
「主のことばを聞け」この指示が、厳命であることを知る必要がある。なぜなら、近い未来は決して明るくはないから。
♦捕囚の民とエレミヤ24:5~6の考察
<捕囚先での生活様式の模索>
■エレミヤ24:5~7の良いイチジクとは→「捕囚先で幸せにしようと目をかける」の意。
■捕囚された民は、捕囚先で幸いに生活できる保証が与えられた。
・生活様式は29:4~7で示されている。→4つの行動規範。
※行動規範は示されたが、神の民としての生活様式を模索する民。
※彼らの捕囚地での生活には制限があった。
①神殿をなくした民には、犠牲制度の実施が不可能だった。
②祭司、レビの奉仕が機能しない→神殿が存在しないので。
③神の民としての存在を維持する必要性があった。
信仰をどう守るか?それが問題だった!
神のことば、律法を読み、教え、学ぶことが信仰の中心になっていった。
♦捕囚民の礼拝
<捕囚先での礼拝と特徴>
■捕囚先での礼拝形態
・会堂(シナゴーグ)で、律法の朗読、教えがあり、「ことば」中心の礼拝となった。 会堂はバビロン捕囚中に出来た。
■捕囚先での礼拝の特徴
①教師の台頭・・律法解釈の教え。解釈者が権威的となる。
②細則の議論、設定・・安息日や食物規定など。律法を守ることの防御柵づくり。
③口伝による継承・・律法順守の為の補助規定の誕生。
F博士談:神殿を失った民の善意の工夫として、動機は良かったが・・、ここから人間的、宗教的な保護主義が始まるきっかけになったともいえる。
その後、神殿再建の時を迎え、エズラ、ネヘミヤは「モーセの律法」への原点回帰、聖書中心主義を推進する。それまでなかった犠牲を捧げる礼拝が回復した。
♦第二神殿建設後の礼拝の考察
<神殿再建後の変化>
■神殿再建後の礼拝→バビロンから来たユダヤ人の影響は大きかった
①エルサレムの律法学者は、バビロン出身が多い。→学び、教えが中心。
②律法研究・・細則の設定へ。「ラビ」の存在感が増して行く。
③律法解釈を重んじる。・・解釈の系譜を重んじる。
④信仰は神の教えの分析が中心となって行く。→行いが重視、優先となる。
※バビロン捕囚時に培われた「善意の工夫」が口伝解釈偏重主義へと変化。
※「律法の囲い(防御柵作り)」の思想が制度化されて口伝律法へ。
※エズラによる原点回帰はまだ良かったが、BC3~1世紀にはパリサイ派が台頭し、「神のことば」よりも「人の伝統」(口伝律法)が優先される状態。
イエスの時代には、口伝律法が最高権威となり、メシア拒否という結果になる。
♦捕囚が及ぼした影響の考察
<まとめ>
■神への信仰を守るはずの口伝律法が、形式主義的、ラビ的ユダヤ教へ。
・エズラ時代に、原点回帰を目指して犠牲制度が回復はしたが、根本的な霊的側面は神から離れはじめ、イエスが来臨した頃は口伝律法最盛期となる。
■人間の心の弱さ
・「人は信仰を守るためと言いながら、神のことばに注目せず、いつの間にか”規定の守り方“を重視するようになる」・・心に刻まれる律法の必要性。
・信仰は、“制度、慣習、解釈”に規定されるものではなく、その根底にある神を信じることである。
エレミヤ書では、心に刻まれるべき、“新しい契約”が次章から示されてゆく。改めてバビロン捕囚の意味を感じ取っておく必要を感じる。
『聖書的温故知新』
・『温故知新』の意味は、過去のことを研究し、そこから新しい知識や気づきを得ること。私たちは過去の出来事が記載されている聖書を学んでいる。まさに温故知新の精神である。
・しかし、聖書は単なる過去の事象だけではなく、神のみこころが預言としてはっきりと明記されている。これは明らかに、私たちが未来に向けて得なければならない教訓と希望の提示である。
・過去を見て、さらに未来を見て私たちがあるべき本来の姿を見出し、希望をもって歩め!と神は教えてくださっている。これほどに人間を正しく導く書物が、ほかにあるだろうか?
・神はこの時代に、この1冊を残されて、私たちに理解を求めている。問題はこれを正しく理解して、神のみこころを学び、聖書に従って歩むこと。これからも共に歩んで行きましょう!
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人が全ての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」テモテ 第2
3:16~17