ダニエル書9章1節~23節
9章の背景
ダレイオス王の元年はBC539年。前回の幻を見てから約10年が経過。バビロン帝国からメド・ペルシア帝国の時代に転換。異邦人の時の進展をダニエルは体験した。確かに、あの幻のようになった!
1節:メディア族のクセルクセスの子ダレイオスが、カルデア人の国の王となったその元年、
2節:すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
3節:そこで私は、顔を神である主に向けて断食をし、粗布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求めた。
キュロスが帝国の大王であり、ダレイオスが王となっていた。ダレイオスはバビロン州を任された。
BC539年、バビロンからメド・ペルシアへと支配が変わった激動の年。不思議な文字事件があった年。
文書とは:エレミヤ、それ以外の預言者たちの文書をさす→文書は複数形で表現されている。ダニエルは預言書を研究していた。
エレミヤ(涙の預言者、悲しみの預言者)→BC627~BC583・・と同時代の預言者は
・同時代の前半期→イザヤ、ホセア、ミカ
・同時代の後半期→エゼキエル、ダニエル
荒廃の期間の満ちる年数70年→エレミヤ25:11~12、29:10、イザヤ44:28
第1回目の捕囚 BC605(ダニエルが連れて来られたとき)➡現在はBC539(67年目に突入)
断食、粗布、灰かぶり(悔い改めのスタンダード)→なぜダニエルは悔い改めているのか?
見せられた幻は、非常に厳しいもの。悔い改めてすぐにでもメシア的王国の完成を主に願い求めた。
4節:私は、私の神、主に祈り、告白した。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守って恵みを下さる方。
5節:私たちは罪ある者で不義をなし、悪を行って逆らい、あなたの命令と定めから外れました。
6節:私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが、御名によって私たちの王たち、首長たち、先祖たち、民衆すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。
7節:主よ。義はあなたにありますが、顔をおおう恥は私たちにあります。今日あるとおり、それはユダの人々、エルサレムの住民にあり、また、近くであれ遠くであれ、あなたが追い散らされた先のあらゆる国々にいる、すべてのイスラエルにあります。彼らがあなたの信頼を裏切ったためです。
悔い改めの祈りと告白。初めに裏切りの罪について。
神を愛し、神の命令を守る者には契約に則って恵みを下さるお方。(現在も同じ)
現在はどのような命令に従うか?キリストの律法に従うこと。⇔常に変わらぬ神と人間との関係
常に問題があるのは人間側。“命令と定め”から外れた歩みをしてしまう。
神は更に助けの手を差し伸ばされる。預言者を遣わして導いたが、民族全員が従わない。
神は完全であり、民が恥に覆われていた。ユダ、エルサレムの住人、離散の人々、つまりイスラエルの民全体。
イスラエルの民は神に信頼すると言いながら、信頼を裏切った民である。
神の民としての誉れを周囲に示すことなど不可能!捕囚は自業自得の結果
神を愛する→神に100%信頼する表現と同じ意味。
決して感情的にということではなく、自分の全人格をかけて愛する。
8節:主よ。顔をおおう恥は私たちにあり、私たちの王たち、首長たち、および先祖たちにあります。私たちはあなたに対して罪を犯してきました。
9節:あわれみと赦しは、私たちの神、主にあります。まことに、私たちは神に逆らいました。
10節:私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、しもべである預言者たちによって神が私たちに下さったみおしえにも、従って歩むことをしませんでした。
11節:イスラエルはみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そのため、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいの誓いが、私たちの上に降りかかりました。私たちが神の前に罪ある者であったからです。
12節:神は、大きなわざわいを私たちにもたらすことで、かつて私たちと、私たちを治めた指導者たちに対して告げられたみことばを成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。
13節:このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているとおりに、私たちの上に下りました。しかし私たちは、不義から立ち返って、あなたの真理によってさとくなれるように、自分たちの神、主に願うこともありませんでした。
14節:主はそのわざわいを下そうと待ち構えていて、それを私たちの上にもたらされました。私たちの神、主のなさったみわざはすべて正しく、私たちが御声に聞き従わなかったからです。
メシア的王国の時が満ちる前に、徹底した悔い改めをしようとするダニエル。
罪の告白。
神は“あわれみと赦し”の神。その神に逆らうイスラエルの民。
神の言葉に従わず、派遣された預言者のみおしえにも聞き従わなかった。
これは、律法に従わなかったことを意味している。
律法に従わない者へののろいが民に降りかかった。申29:13~28
→バビロン捕囚となって成就した。これまでになかった裁きである。
そんな裁きが下っても、その不義を反省し、神の真理に従って神に願うことさえしない民。
こうして捕囚の中にあって、すべて神は正しく、原因は全て民にある。
15節:しかし今、私たちの神、主よ。ご自分の民を力強い御手をもってエジプトの地から導き出し、今日あるとおりに名を成された神よ。私たちは罪を犯して、悪を行いました。
16節:主よ。あなたのすべての義のわざにしたがって、どうか御怒りと憤りを、あなたの都エルサレムから、あなたの聖なる山から去らせてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの咎のゆえに、エルサレムとあなたの民が、私たちの周囲のすべての者にとってそしりの的となっているからです。
17節:私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いを聞き入れ、主ご自身のために、あなたの荒れ果てた聖所に御顔の光を照り輝かせてください。
18節:私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている都をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
19節:主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、心に留めて事を行ってください。私の神よ、あなたご自身のために、遅らせないでください。あなたの都と民には、あなたの名がつけられているのですから。」
完全なる悔い改めの姿勢を示すダニエル。それはイスラエルの民を代表する祈りである。
自分の罪を完全に認め、神に絶対の信頼を示す。
決して、自分たちが悔い改めたから、怒りを鎮め、神の栄光を輝かせてくださいというのではない。
あなたの大いなるあわれみによって、周囲のそしりの的から栄光へと回復させてくださいと祈る。
悔い改めて、それを正しい行為と思ってしまうのは間違いである。赦しは神のあわれみによる。
すべてはあなたの栄光のため。残念だが、私たちはあなたの名を高めることが出来なかった!
あなたの名を冠する都(エルサレム)と民(イスラエル)の回復をもって、あなたの御名、あなたの栄光を示してください!
神の栄光をたたえるのが神の民の究極の任務であることを、ダニエルは正確に認識していた。
自己中心か?神中心か?
・悔い改めをすれば、赦される。だが、その時の心の姿勢が重要。
・神の期待は、徹底した謙虚さが実現しているかどうかである。
20節:私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、
21節:すなわち、私がまだ祈りの中で語っていたとき、私が初めに幻の中で見たあの人ガブリエルが、すばやく飛んで来て私に近づいた。それは夕方のささげ物を献げるころであった。
22節:彼は私に悟らせようとしてこう告げた。「ダニエルよ。私は今、悟りによってあなたを賢明にさせようとして出て来た。
23節:あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが出されたので、私はそれを伝えに来た。あなたが特別に愛されている者だからだ。そのみことばを聞き分けて、その幻を理解せよ。
ダニエルが祈っているとき・・・夕方の祈り(午後3時)本来なら神殿でささげ物を捧げる時間。
ダニエルの祈り→悔い改めは自分と民族の両方のもの。
その最中に、ガブリエルが素早く現れ、ダニエルに近づいてきた。
ダニエルの誤解を解き、賢明にするためにやってきたガブリエル。彼は、みことばを携えてきた。
ガブリエルは彼の悔い改めを聞いていた。すると、神がみことばを出され、彼はすぐに出てきた。
ダニエルの人生の歩みは、手本とすべきもの。彼は神に特別に愛されている。(とても重要な箇所)
示された幻をよく理解するために、新たなみことば(説明)を持ってきたガブリエル。
ダニエルの姿勢は評価されている。しかし、誤解は訂正されなければならない。
誤解:幻の理解が不十分だったダニエル。70年が経てばメシア的王国の建て上げが起こると信じていた。
悔い改めの姿勢 更に神に愛される人になるために
ダニエルは、エレミヤたちの預言書から、神の裁きである捕囚期間が70年であることに気付き、幻を見た影響もあり、慌ててイスラエルの民の状況を顧みた。
捕囚された後、彼らの多くはいつ捕囚から解放されるかについて希望を持たずに、ただ嘆き、解放を訴えていたのではなかろうか。
ただ嘆く、とは捕囚された者たちと異なり、新しい世代になると、希望を持つこともなく、ただ捕囚からの解放ばかりを神に訴え、反省のない勝手な祈りの人々が大半ではなかったか。
民族としての祈りとは、どんな世代になっても、民族としていつもその罪を身に負って、神に接する姿勢が大事と思われる。そんなダニエルの姿勢を神は愛された。
私たちも心の底から悔い改めて、今は義なる者とされているが、決して義ではないことを知るなら、心の底から悔い改めたことを忘れず、義とされていることを大いに喜んで歩むべきではないか。
そうして益々神に愛される人を目指しましょう!
神の栄光をたたえる!
救われたとき、私は、人間が救われることが全てに優り、最優先事項と思っていました。
そう考えていたと分かったのは、神が歴史を展開する目的が、神ご自身の栄光を成就するためと知ったときからです。
「えっ!」と心の中に響くほどの驚きでした。その時、人間主義とか自己中心とかの意味がはっきりと自覚できました。これが、神の一番嫌われる人間の性質であることに気付かされました。
人は舞台の上では主役に見えても、結局はその背後で舞台を運営する監督が全てを指揮します。
神はこのような愚かな人間を救いに導き、悪を裁き、真の平安な神の王国という作品を完成させます。
その作品の完成には、それを完成させようとする私たちの真の信仰が必要不可欠です。
神の栄光の成就は、間違いなく私たち人間を、栄光の幸いの中に導き入れてくださるもの。
だからこそ、100%の信頼と喜びをもって、神の栄光をたたえる真の信仰者として人生を全うしましょう。