ゼカリヤ7章1節~14節
1節:ダレイオス王の第四年、第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。
2節:そのとき、ベテルは主の御顔を求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを遣わして、
3節:万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
ダレイオス王の第四年9月。8つの幻(ダレイオス王の第二年11月)から約2年経過。
ベテルから、質問のためにサル・エツェルとレゲム・メレクとその従者たちをエルサレムの神殿で働く祭司、預言者たち(ハガイ、ゼカリヤ、その他の預言者たち)に遣わした。
『ベテル』はかつての北イスラエルにおける、偶像礼拝の都市であったが、この時点では偶像礼拝はなく、真の神を崇める姿勢になっていたと分かる。(人物名という意見もある)
『サル・エツェルとレゲム・メレク』という名は、バビロンの名であることから、彼らはバビロン生まれのユダヤの新しい世代の人たちである。
その質問は、「今まで続けてきた『第五の月の断食』をして、泣かねばならないでしょうか。」
エルサレム神殿が崩壊したのが第五の月の9日(ティシャ・ベ・アブ)。神の命令による贖罪の日(ヨム・キプール)の断食に次ぐ重要な断食として、民が自ら始めた断食。
【断食について】
贖罪の日(ヨム・キプール)の断食。第7の月の10日。律法にある断食の日。つまり、神の命令による断食はこれのみ。それ以外は民の自主的な行為。
*第10の月の10日(テベットの月の10日)BC588 エルサレム包囲された日
*第4の月の9日(タンムズの月の9日)BC586 エルサレム城壁が破壊された日
*第5の月の9日(アブの月の9日)BC586 神殿崩壊された日
*第7の月の9日(ティシュリの月の9日)BC586 ユダの総督ゲダルヤ暗殺を悼む
すべてが、バビロン捕囚に関する悲しみの表現と、記憶のためと思われる。
捕囚によってどれほど民が猛省したかが伝わって来る。
そんな民を、神は正しく、神の民として導こうと積極的に働きかけられたのである。
4節:すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。
5節:「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、本当にこのわたしのために断食したのか。
6節:あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。
この質問に対して、ゼカリヤに神のみことばがあった。叱責を含む問い。
この国の・・これはイスラエルの民全体に対することばである。
70年・・つまり捕囚以降の第5、第7などの断食の嘆きは、一体誰のためか?
本当にこのわたしのための断食なのか?
捕囚を悲しみ反省した民の自発的思いはあったが、神に対するものではなかった!
単に、自分たちが飲み食いするのと同じ、自己満足感のためだったのである!
断食とは、聖なる会合の日であり、贖罪を喜ぶ日であり、神の民であることを思い起こさせ、また、民に公正の心を持つことを思い起こさせる神の期待がその根底にある。
7節:エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げたことばは、これらのことではなかったのか。」
エルサレムとその周辺、ネゲブ、シェフェラ(低地の意)⇒この表現は、バビロン捕囚前の状態を指している
その時、数々の預言者を派遣し、告げたことは何だったのか?まさに、正義と公正を守れと説いたのに、お前たちはそれを無視した!
まだまだ民は、霊的には「よちよち歩き」の状態。偶像礼拝や世の習慣にどっぷりつかった汚れは、なかなか落ちはしない。
神は反省を促し、気付きを期待しておられることに注目!
8節:それから、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。
9節:万軍の主はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。
10節:やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」
また主のことばがゼカリヤにあった。それは、7節の預言者たちに託した言葉の意味の解説である。
「真実のさばき」、「誠意とあわれみの共有」・・公正の実現を目指しなさい!
やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者、それらの弱い者を虐げてはならない。
人を思わず、自己中心的な考えを持って、悪を行ってはいけない!
神はいつも同じ思いで民を、私たちを導いておられる。旧約の時代は律法をもって、神の民として相応しく歩むための道を示し、更にその根底に、自己中心を捨てた愛を期待しておられた。
11節:ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。
12節:彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。
11~12節は、ゼカリヤのことば。
神は様々な預言者を通して、神の期待するところを示してこられた。
しかし、既に神の民はその心を失い、傲慢になり、みことばを聞こうともしない。
『金剛石』・・ダイヤモンドの如く心の頑な(高慢)な民に、みおしえとみことばが入る余地なし。最後は、厳しい裁きによる気付きの促ししかない。
神は考えられないほどの忍耐で民を導かれたが、民は自分のために人を欺き、蹴落とし、引きずり落とし、自分だけの幸せを追求した。自分の欲望の確立が最優先課題であった。
この最優先順位を神とするのがクリスチャンである!!
13節:「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない――万軍の主は言われる――。
14節:わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」
わたし(神)が、あれほどに忍耐して導いたにもかかわらず、お前たちは無視した。
従って、あなたがたがその裁きの時にわたしを呼び求めても、お前たちがわたしにしたように、お前たちの声を無視する。
遣わした預言者の言葉に、熱心に聞き従う姿勢を求められていることに注目。
目的、目標が一致していれば、神のことばを語る正しい預言者も分かるというもの。
このみことばは、私たちにも当てはまる。神の導きに応答しない者の最後は、取り返しのつかない結果となる。
こうして、神は事前に予表を示し、ついには最終的な裁きをなさる。
私たちの神は愛の神であり、決して突然に、史上最悪の裁きをなさるお方ではない!
この時の裁きは『バビロン捕囚』であり、民族の離散。民は散り、国を荒れ廃らせた。神の民として、相続地を守れなかった
イエス様も、熱心にモーセの律法と口伝律法の違いを解説された。そして、神殿の崩壊、離散となる。