マラキ2章1節~17節
1節:「祭司たちよ、今、この命令があなたがたに下される。
2節:もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら ―万軍の主は言われる― わたしは、あなたがたの中にこののろいを送り、あなたがたの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたがこれを心に留めないからだ。
祭司たちへの命令、すなわち『裁き』である。
気付きの促しに応答せず、神の栄光を称えること(祭司としてのあるべき姿)を忘れている。
本来の祝福は、『のろい』となる。否、もう『のろい』となっている。
神を忘れ、自らの使命を忘れ、目的意識をすり替えてしまった
決定事項である。もう祝福になる事はない。(心の偶像礼拝の預言と言える)
3節:見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともに投げ捨てられる。
祭司たちの子孫への責め。彼らと、彼らが執り行う祭りに対して糞をまき散らす。
家畜(いけにえ)の汚物(糞)は、律法によれば、宿営の外で焼かれて、捨てられる。(出29:14)
糞と同様、祭司も彼らの祭りも、宿営の外で焼かれて捨てられる→無意味なものとなる。
4節:このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。 ―万軍の主は言われる―
自分たちが、神に不遜な状態に気付いたら、過去、レビとの契約順守のために、祭司に対して与えた命令と、気づくことになる。(本来の祭司とその役割とは何か!)
*レビとの契約
出エジ32:23~29 ⇒26節:レビ族の中から真の礼拝者が選ばれたという事件。
民数8:5~19 ⇒レビ人の立場と役割について
民数18:16~29 ⇒レビ人の働きと収入について
申33:8~11 ⇒ (モーセのことば) 神との契約、任務について
5節:わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。
レビと神との契約の原則は『いのちと平安』である。つまり、民が真のいのちと平安に至る道。その道(律法)を彼に与え、彼はそれを恐れ(畏れ)と共に受け取り、主に信頼し感謝した。レビ(族)は真摯に、神の働きに精進した
私たちも、時流に流されず、神を恐れ、神に信頼する者の務めを実践する!それは、愛の実践!
6節:彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公平さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。
レビ(族)は、『正義と公正』という真理を貫き、不正を行わず、また人々に神の道を示した。神とともに歩み、多くの人々を不義から、悔い改めて真理へと導いた。
7節:祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ。
そうした行動は、祭司に受け継がれ、祭司はレビの言い伝えを守り、また人々も彼らに従って、神のみおしえを正しく守って歩んだ。
まさに祭司とは、『万軍の主の使い』だからだ!
今、神は私たちを祭司としてくださっている(万人祭司)
改めて、祭司としての役割と実効性について、見つめなおそう!
救われた者として、神の子として、神を証して歩む姿を、神は喜ばれる!
8節:しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。 ―万軍の主は言われる―
こうして続いてきた祭司の務めを、お前たちは蔑ろにしてその道から大きく外れた。
更に、多くの民に間違いを教え、彼らをつまずかせた。
その結果、神の民の存在価値は忘れ去られ、かつてのレビが心に抱いた神への恐れ (畏れ)は消え失せてしまった。
如何にリーダーの役割が重要であるかを指摘している神
9節:わたしもまた、あなたがたを、すべての民に蔑まれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守らず、えこひいきをしながら教えたからだ。」
彼らの不正は神の教えによらず、自分たちの判断(えこひいき)の教え。世的な支配。
まさに口伝律法がその象徴である。タルムードを見ると、良いことが書かれているが、目線は人間的である。⇒神から民の目を引き離す!
民が神にした(契約を損なった)ように、神は、彼らがすべての民に蔑まれ、軽んじられる者とすると決定した。歴史を見ると、相当に厳しい仕打ちとなっている。ここに、気付きの促しがあることを見逃してはならない。
10節:私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。
11節:ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。
私たちは、唯一の創造主なる神を崇める民ではないか?
それなのに何故、神の教えを守らず互いを裏切る支配関係を作り出し、また、神と先祖の約束(契約)を汚すようなことをするのか?(アブラハム契約)
ユダの裏切り→神に対する裏切り→律法の不順守
律法の軽視による汚れた行為。聖所を汚す行為。
それに加えて、異国の神を信じる異邦人の娘との結婚(エズ9:1~6、ネヘ13:21~27)
⇒律法違反:出34:15~16、申7:3
偶像礼拝はしないが、異邦の神の価値観が民の心に染み込んで来る
12節:このようなことをする者を、どうか主がヤコブの天幕から一人残らず断ち切ってくださるように。たとえその者が万軍の主にささげ物を献げても。
ヤコブの天幕から→これはイスラエルの共同体から排除されるべき!ということ。
その対象は、汚れたささげものを捧げる民とそして祭司の両方と考える。
日常、神の民として振る舞っていても、心の中の意識、そして動機が問題!
【参考】ネヘミヤ記13:28~31
大祭司エリアシブの子ヨイアダ(ヨヤダ)のひとりの子がホロン人サンバラテ(サマリアの総督)の娘を嫁に取っていたため追放した。
大祭司の親族が、雑婚という律法違反を犯してしまうほどに、人々の心の中で、神の存在は軽薄化していた。
13節:あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と悲鳴と嘆きで、主の祭壇をおおっている。主が、もうささげ物を顧みず、あなたがたの手からそれを喜んで受け取られないからだ。
更に汚れた悪をお前たちは行っている。
お前たちがいくら祈っても、ささげものをしても主は喜んで受けとらない。
それ故、お前たちは涙を流し、悲鳴の如き祈りをささげ、嘆いているのに。
14節:「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。
それは、主が証人となって成立した結婚を破棄して妻を裏切り、離婚しているからだ。
神が定めた伴侶であり、契約の妻であるのに、それを無視した。
伴侶とは、助け手である。(創世記2:20~24)
神は伴侶を人生の助け手として、また子孫の継続のためとしている。
神のみおしえには、意味があるのだが、それをはき違えてしまうのが人間である
新約聖書(マタイ19:3~9)で妻の離縁についてパリサイ人がイエス様に質問し、離婚は神の御心ではないことを示されたが、当時の人々には都合が悪い話である。
15節:神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
結婚とは、男女が一体となること。肉的な一体感のほかに、霊的な一体感を重視しなければならない。その目的は、神の民の子孫を繋ぎ、神の民の繁栄へ。
しかし、世的な判断が、雑婚、離婚という汚れとなり、神の御心から乖離して行く。
若い時の妻を裏切ってはいけない。それは神の御心に反する行為である。(箴5:18)
自分の霊に注意せよ。(新共同:気をつけるがよい)自分が神の民であることを自覚せよ!
16節:「妻を憎んで離婚するなら、 ―イスラエルの神、主は言われる― 暴虐がその者の衣をおおう。 ―万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。
「妻を憎んで離婚するなら、暴虐がその者の衣をおおう。」⇒新共同「離婚する人は、不法でその上着を覆っている・・」 離婚することは、神への暴虐、不法である。
結婚をどう考えるかは今でも重要な事!
妻を裏切ることは、神の御心を悲しませる裏切り行為。裏切ってはならない事なのだ!
17節:あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。
この個所は、2章16節までの汚れた行動の結果を示している。
『あなたがたは』→祭司たちであり、その言葉に振り回されるイスラエルの民をも含む。
民の悪行を奨励し続けることで、民は異邦人化し、神は疲れと似たような失望を味わう。
しかし、祭司たちも、民も、そのことに気付くどころか、「どのようにして、私たちは神を疲れさせたのですか?私たちは主の目にかなっています!!」と言う。
イスラエルの民はいつの間にか、イスラエルの民は確実に救われるという意識になっていた。
『選民意識』は、内面を聖くするのではなく、外面(体裁)を整えることを意識していた。
そんな意識が ⇒「悪を行っても主は私たちイスラエル人を救われる。主は喜ばれる。」「さばきの神はどこにいるのか→私たちが裁かれることはない」と思わせた。
私たちは異邦人と違い選ばれた民なのだから! ⇒律法を守れば、私たちは救われる(出エジプト19:5~6)⇒モーセの律法から口伝律法へ!