ダニエル書1章1節~6節

ダニエル書事前情報

著者:ダニエル

ダニエルの意味は、「神はさばきたもう」、「神はわがさばき主」。
ユダ族出身で、王族の一人。
BC605年に、捕囚民としてバビロンに連行されて来た。
当時は少年であった。他の若者たちと、バビロンの官吏となる訓練受ける。

活動期間

ネブカドネツァル王~ベルシャツァル王~メディアのダレイオス王~ペルシアのキュロス王
捕囚のBC605年~BC536年(キュロス王の第三年)までほぼ捕囚期間中4人の王に仕えた。捕囚から解放まで、政治の中枢に置かれ、活動した。

 

歴史的背景

BC612年:ニネべ(アッシリヤ)の滅亡
BC609年:ネブカドネツァルがバビロン王となる
BC605年:バビロンがアッシリヤ帝国を滅ぼし、エルサレムを攻め、初の捕囚。ダニエル     も含む。ここからエジプトとの覇権争い。エホヤキム王はエジプトのネコ王に     付くが、失敗する。
BC597年:2回目の捕囚。エホヤキム王などの指導者1万人をバビロンへ捕囚。
BC586年:3回目のエルサレム攻撃で陥落。当時の王はゼデキヤ王。(悲惨な王)
BC539年:メド・ペルシア連合軍によりバビロン滅亡。メディア王ダレイオスがバビロン     の王となる。
BC538年:キュロス2世がメディア王家を滅ぼし、バビロンを征服。捕囚民への帰還命令     を発令。

バビロンの王位継承
ネブカドネツァル王→エビル・メロダク王→ナボニドス王→ベルシャツァル王→ダレイオス→キュロス


1章
1節:ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに来て、これを包囲した。
2節:主は、ユダの王エホヤキムと、神の宮の器の一部を彼の手に渡された。彼は、それをシンアルの地にある自分の神の神殿に持ち帰り、その器を自分の神の宝物倉に納めた。

ユダの王エホヤキムの治世の第3年(BC605年)。
バビロンの王ネブカドネツァルに包囲された。
主はバビロンを用いてイスラエルを裁かれたとされている。
神の宮の器の一部、エホヤキム王を、ネブカドネツァル王に渡した。エホヤキム王が実際にバビロンに連行されるのはBC597年で、指導的立場の人間1万人をバビロンに移したとされる。
ネブカドネツァル王は、神の宮の器をシンアルの地にある神の神殿に納めた。
シンアルの地⇒かつて、元祖帝国主義者ニムロデが築いた古代バビロニア帝国の中心地。
彼の神⇒マルドゥク神:シュメール語で「太陽の若き雄牛」の意。武器は「洪水」。
          :この神は両親を持つ神とされ、結局、人間による偶像であること           は明白。

3節:王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエルの人々の中から、王族や貴族を数人選んで連れて来させた。
4節:それは、その身に何の欠陥もなく、容姿が良く、あらゆる知恵に秀で、知識に通じ、洞察力に富み、王の宮廷に仕えるにふさわしく、また、カルデア人の文学とことばを教えるにふさわしい少年たちであった。
5節:王は、王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当てた。三年間、彼らを養育して、その後で王に仕えさせることにした。
6節:彼らのうちには、ユダ族のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。

宦官の長アシュペナズ・・政府高官であり、去勢された人。しかし実際に去勢されていたかは不明。
ネブカドネツァル王はアシュペナズに、王や貴族出身の有能な少年を、カルデアの文化、言語を学ばせるために人選するよう命じた。条件は、体は欠陥がなく、容姿端麗、知識・洞察力に富む者。
捕囚の初期段階であり、王家、貴族からの人選から、彼らは人質としての役割もあったと思われる。
選ばれた者は、王より3年間養育され、その後宮廷に仕えることが決められていた。(宦官候補生)
選ばれた者の中に、ユダ族のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。
イザヤがヒゼキヤ王に語った預言(イザヤ39:5~7)⇒「・・あなた自身の息子たちの中には、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者がいる。」
カルデヤ人のことば⇒アラム語。捕囚の民としての苦難のひとつ。


主は主権をもって捕囚を実行された

捕囚に至るまでのイスラエルの民の過ちは、神の怒りに触れることになった。
偶像礼拝と7年毎の安息規定違反(490年÷7年=70年間。Ⅱ歴36:17~22)
キュロスの帰還命令から逆算すれば、ヨシア王の死からと考えられるが諸説あり。
真の神を軽視し偶像を拝む民は、偶像を拝する国民のもとに70年間送られた。
これは全て、神の主権によってなされたこと。
ユダヤの民として約束が守られていないことが問題である。このことに気付かせるために、神は捕囚を実行させたのである。
捕囚前から、イザヤなどが神の裁きと共に希望を預言していた。つまり神は、決して救いの道を断つことはなさらない!

 

私たちの人生においても常に神は主権をもって導いておられる
私たちの神という言葉そのものに、主権を認める意識が必要ではないでしょうか。
神を知れば知るほど、益々その絶大さに気付き、神の御前に自然に謙虚になる。
神と対話するときは、自分を下げるというのではなく、神を見上げ、目線を上げましょう!
私たちは、神に召された特権者。わたしたちにこんな良いことをされた神をたたえましょう!
神を完全なお方と認めることは、神の絶対的主権を素直に認める人になります。
神の絶対的主権に対して、神のみを見上げて歩む信仰で応答して歩みましょう!

2024年04月04日