エレミヤ書2章1節~19節
1節:次のような主のことばが私にあった。
2節:「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。
・「主のことばがあった」・・・エレミヤへの命令
・エルサレムの人々に、かつてのイスラエルが忠実な信仰者であったことを知らせよ!
・神は良き婚約者という存在であったことを覚えている。
・「覚えている」・・語源は「(へ)zecher」で、特に良い記憶を指す。
①イスラエルの献身さ②彼らの神に対する愛③荒野での従順さ
・この記憶は、荒野の放浪期間・・出エジプトからシナイ山までのこと。(仔牛の礼拝事件前まで)出エジ12章~19章
3節:イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。──主のことば──
・イスラエルは神聖であり、初穂である。
・「初穂」・・神のもの。レビ23:15~17、申16:9~12など参照。神に属すものに触れることは有罪で、災難が及ぶ。
・初穂である神の民を襲うことは、わざわいを受けることになる。
・一方、イスラエルの民にも神の民の存在を示す役割があったことを忘れてはならない。
4節:ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。
・イスラエルの全部族(12部族)すべてがこれから語る内容の対象である。
5節:主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。
・神の挑戦的痛烈批判の質問が二つ。
①神に何の不正を見つけたのか…なにも不正はない!
②なぜ不貞の働きをするのか。(自らの意思で、何の利益も生まない者に従う思い)
6節:彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」
・荒野での神との関係は、100%神に信頼しなければ生存できない場所。
・その時の民の心を持っているなら、「あの時の恵み豊かな神よ、お助け下さい!」というだろうに!
・神の思い→「そんな、質問さえ心に浮かばない民よ!情けないではないか!」
荒野放浪時の人口:100万人~200万人(民11:21・・・兵役男子60万人)
・小麦1日500g/日とすると、100万人一日当たりの量は500t。
・水1日500ml/日とすると、100万人一日当たりの量は500t。
神はこの人民の食糧を40年間支え続けられた。
7節:わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。
・荒野放浪後に与えた地→カナンの地・・・肥沃で豊かな土地
・入植当時は良かったが、結局その地を偶像で汚した。
神は特にこの地を愛しておられた。しかし異邦人によってこの地が汚され、神の直接支配は無かった。イスラエルの民が入ることで偶像支配が無くなり、神の摂理が働き始める。
しかし、イスラエルの民が偶像礼拝を始めて、結局「神の約束の土地」を汚すということになる。
8節:祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。
・背教はイスラエルの民全体の問題と指摘される神。
・祭司(偽祭司)、上層支配者たち(指導部)、預言者(バアルのことばによる偽預言者)
➡神の道を教える人、民を導く人、神の声を届ける人。
・一般の民は、これら上層部たちの誤った指導に従って歩むことになる。→背教へ
9節:それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。──主のことば──また、あなたがたの子孫と争う。
・争う!→告訴する、裁判にかける!という神の宣言。
・当時の人々とその子孫に対して法的手続きを進めるという意味。→『裁判』
・神の裁きは、イスラエルの指導部と支配下の一般庶民、更にその子孫(3~4代)に及ぶ。(出エジ34:7参照)
10節:キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。
11節:かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。
・キティムの島々→地中海のキプロス島を中心とする地中海沿岸の諸民族。(聖書地図2など参照)
キティムはヤワンの子の一人で、ヤワンはヤフェテ(ノアの息子)の子の一人である。
・ケダル→黒い天幕で生活する遊牧民。パレスチナからメソポタミヤに広がる砂漠を拠点。
ケダルはイシュマエルの次男。「黒い」、「浅黒い」の意味。軍事に優れ、繁栄した。
キティムとケダルは、当時の対極の存在→これらの異邦人を対象にあげて、イスラエルの背教を指摘する。
・他の民族はたやすく自分たちの神を他の偶像と換えることは無い!
・お前たちは、シャカイナ・グローリー(神の栄光)を、無利益なものに変えてしまう愚か者たちだ!
12節:天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。──主のことば──
・『天』が呼ばれているのは、『裁判』において、天が証人だからである。(9節の裁判の流れ)
・天は、神と人との契約の証人→天と地が証人という箇所→申4:26、30:19、32:1など
13節:わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。
・裁かれる2つの罪が明確化される。
①いのちの水の泉を捨てた罪。(17:13にも言及あり)生きるいのちと救いの源となる泉。
②壊れた貯水池の構築。(人は不完全であり、信頼に値しない)
貯水池は貯水と管理の必要がある。また破損したら一大事。
泉に、そのような心配は無用。コンコンと無限に湧き出てくる。
14節:イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。
・14~19節まで、イスラエルは神の妻として表現されている。
・二つの奴隷について
①限られた期間の束縛にある奴隷 (ヘ)eved → 6年を終えて解放(申15:12~18)
②主人の個人的所有にある奴隷 (ヘ)yalid bayit → 奴隷として家に所属。生まれたときから奴隷。
奴隷として偶像に所属してどんどん離れられなくなっている。それはまるで、偶像の獲物ではないか。
15節:若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。
・若獅子→象徴的な意味として、「国家」を表す。
・他国はイスラエルを攻撃し、土地も都市も破壊され滅亡する。(ホセア5:14~15、ヨエル1:6~7)
16節:メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。
・メンフィス・・(ヘ)Naph エジプト→現在のカイロの南の都市
・タフパンヘス・・(ヘ)Techaphneches ナイル川デルタの東支流の都市
メンフィスとタフパンヘスは、バビロン捕囚時の亡命先となった都市
・「頭の頂を剃り上げる」・・「恥を見る」、「不名誉な象徴」の意味。
バビロンとの戦いでエジプトに支援を求めるが、エジプトにその力はない。結局、恥を見ることになる。イザヤ36:6、Ⅱ列18:21
17節:あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。
・神は、この時代にも荒野の時のごとく民を導いていた。それを捨てたのはあなた、イスラエルの民ではないか。
・これこそが、いのちの水の泉を捨てたことの結果である。
18節:今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリアへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。
・いのちの水の泉と貯水池の比較。
・ナイル川(エジプト)とユーフラテス河(アッシリア)により頼むイスラエル。
・ヨシヤ王の時代、独立国として立ち上がろうとしつつ、この両国を行ったり来たりするイスラエルの姿。
・この頃すでに、アッシリアは弱体化傾向。アッシリアの滅亡はBC612年。第一次バビロン捕囚はBC605年。
・エジプト、アッシリアともに壊れた貯水池で、これに頼れば恥を見ると言われる神。
19節:あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。──万軍の神、主のことば。
・悪の結果は、厳しい懲らしめ。・・神の裁き・・バビロン捕囚・・国の滅亡
・神への裏切りは、後に後悔となってブーメランのように自分に返ってくる。・・国の喪失という痛手
全ての原因は、神を恐れず、神を捨てたこと。
いのちの泉と私たち
・エレミヤ書によって、いのちの水の泉の大切さが示されました。
・人は大きな川のようにとうとうと水を蓄えて流れる大河に安心感を覚えてしまいがち。しかし、大きな川がひとたび牙をむけば、その周辺の人々に壊滅的な被害を与える危うさがあります。
・一方、泉は常にきれいな水を与え続けて、枯れることがありません。
・エレミヤ時代に指摘されたいのちの水の泉は、新約時代になって、主を信じる人の心の中に与えられています。聖霊が私たちの泉となって、常に神の愛を教え、示し続けています。
・私たちは、神の純粋な愛の水を毎日飲み続けて、昨日より今日が少しでも純粋であるよう願って、時にはその水を頭から浴びて目を覚ましつつ、歩んで行こうではありませんか!
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
ヨハネ4章14節