ハバクク書は、南ユダの預言者ハバククによって書かれた。時期は、バビロン捕囚以前である。その頃のユダヤの民は、アッシリアに朝貢し、神に頼るのではなく、強国に頼るようになっていた。神を礼拝していたが、それは表面的なものであった。
メッセージ一覧
ハバクク1章1節~4節
ハバクク1章5節~11節
ハバクク1章12節~17節
ハバクク2章1節~4節
神の応答です。
ハバククは、自分の訴えに対して神が何を語られるか真剣に聞こうとしている。神はハバククに幻をお見せになり、それを板の上に書き記せと言われた。この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げている。
神は「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」と言われる。人には遅れているように見えても、神の計画は確実に進められていて、神の時が来たら必ず成就することを覚えたい。
「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
「義人は信仰によって生きる。」は、新約聖書で3度引用されています。
①ローマ1:17 ②ガラテヤ3:11 ③へブル10:37~38(これらは神学的に重要な書簡です)
ハバクク2章5節~20節
5節~20節の間に、5回「わざわいだ」という言葉が出て来る。この「わざわいだ」には、感嘆詞「ホーイ」が付き、「あぁー」というような言葉で、避けられない神の裁きを宣告するときに使われる。「今は良くても、最終的には・・」というニュアンス。
5節~8節:第一のわざわい(あざけり)。【貪欲の罪】カルデア人は、酒飲み、貪欲で諸国を飲み込んで満足することはない。しかし、世界を制した帝国にもかかわらず90年程の短命で終わる。バビロンは、メディア・ペルシャに滅ぼされる。
9節~11節:第二のわざわい(あざけり)。【高慢、傲慢の罪】不正な利得を私利私欲のために使い、高いところに宮殿を建てた。実際にバベルの塔のように高い建物をたて、空中庭園が有名だった。
12節~14節:第三のわざわい(あざけり)。【歴史は神の主権】流血と不正で築き上げられた諸国の民は、結局は苦しみ疲れ果てる。最終的には、水が海を覆うごとく、地は主の栄光で満たされる。
15節~17節:第四のわざわい(あざけり)。【恥と暴虐の罪】毒の酒で友を裸にして裏切る行為は、恥ずべきもの。神の盃(裁き)でその恥は知らされる。レバノンの自然も動物も破壊し、人々の血を流した行為が糾弾される。
18節~20節:第五のわざわい(あざけり)。【偶像礼拝の罪】物言わぬ偽りの神々を造ったところで、何の役に立つだろうか。全地よ。主の御前に静まれ。
初めハバククはユダのことについて神に裁きを求めていたが、神の応答は全地に向かっている。
ハバクク3章1節~16節
1節:ハバククの祈り。シグヨノテ(あるメロディー)の調べにのせて。
2節:ハバククは【主】の裁きについての預言が与えられ恐れている。大患難時代の到来を理解し、短期間の間に【主】の計画が成就し、大患難時代において【主】のあわれみがあるようにと祈っている。
3節~6節:メシア再臨の場所は、ボツラ(ペトラ)~テマンの町~パランの荒野~ケデロンの谷~エルサレムとなる。主の臨在、シャカイナグローリー、神の力、威厳が描写されている。
7節:クシャン(イラン系民族)、ミディアン(アラビヤ)はわなないていた。クシャン王朝はB.C.6世紀頃ペルシャによって滅んでいる。
8節~10節:メシアの再臨にともなって、さまざまな異変が起こる。
11節:宇宙で異変が起こる。
12節:ハルマゲドンの状況描写。
13節~14節:メシアが来て、悪しき者の頭(反キリスト)を打ち砕き、背教の実態をあらわにして、誓いを果たされる。
15節:メシアはイスラエルを攻める背教の異邦人を徹底的に踏みつける。
16節:ハバククは最終的な救いに至るまでの凄惨さを知り、立っていられないほどに打ちひしがれた。しかし、神の愛と忍耐の深さに気付き、心を静めて神のみこころを待つ姿勢を示す。
ハバクク3章17節~19節
17節:いちじく、ぶどう、オリーブはイスラエルの代表的な食物であり、イスラエルそのものの疲弊を表す。加えて、羊、牛もいなくなり、経済的に大困窮状態となる。ハバククは、相当の死者を想定する終末の状況を見ている。
18節:しかし、ハバククをはじめとする残れる者はそんな状況にあっても神を喜び楽しむ。なぜなら、救いは自分たちの力で実現できるものではく、救い主である神と私たちの信仰によって成るものだからである!
19節:神こそが私の力と宣言するハバクク。人の力ではなく、神の力が救いである。神は私たちの足を雌鹿のようにし、高い所を歩ませる。高い所とは、祝福と安全な場所のことである。
最終的な勝利は、神によってのみもたらされることを悟り、皆と共有するために謳った。
ハバクク書と新約聖書の関係
ハバクク書2章4節は、新約聖書の3箇所で引用されている。
それを、書かれた順に見てみる。
ガラテヤ3:10~11 AC48年頃
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
「救いは、律法ではなく、信仰による」
ローマ1:16~17 AC57年頃
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
「信仰に始まり、信仰に進む」
へブル10:35~39 AC65~69年頃
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
「忍耐を持って前進し、約束のものを手に入れる信仰」
ゼパニヤ1章1節
ゼパニヤ1章2節~13節
2節~3節:全地に下る裁き【主のことば】
2節:わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。
「わたしは地の面からすべてのものを一掃する」(新共同訳)
ほうきによって地の面が掃き清められるというイメージ。大患難時代の裁き。
3節:わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。悪者どもをつまずかせ、人 を大地の面から断ち切る。
*一掃される順番は、人、獣、空の鳥、海の魚の順であり、天地創造時の順番が逆になっている。普遍的裁きを示す。
*悪者どもは、偶像を崇拝する者、サタン、反キリストであり、神に反する者たちである。
主の日の目的は、地上から悪を断ち切ることである。
4節:裁きは、ユダ、エルサレムのすべての住民に向けられる。エルサレムは神の都であり、指導者たちの背信は見逃すことができない。
①バアルの残りの者(ヨシヤ王の宗教改革後もバアル礼拝者が残っていた)
②偶像に仕える祭司
5節:③天の万象を拝む者ども(申命記4章19節で天体の礼拝を禁じている)
④主に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者ども『二心の者ども』
6節:⑤主に従うことをやめた者ども、主を尋ねず求めない者ども
先ず、神の民の宗教的な罪を指摘している。これらの者(①~⑤)はすべて断ち切られる!
7節:【ゼパニヤの言葉】神である主の前で口をつぐめ!主の日は近い。(バビロン捕囚とともに大患難時代が重ね合わされている)最終的な処罰がなされる。悪人を処罰し、罪人たちが聖別される時が来る。(主の日とは大患難時代である)
8節:獣とは、ここでは、ユダの裏切り者であるとともに、バビロンであり、大患難時代の大バビロンを指すとも考えられる。王家の者、指導者、外国と親しくする者たちを裁く!一掃する!
9節:神殿の敷居を飛び越え、暴虐と欺きで神殿を犯す者ども(偶像礼拝をする指導者)を裁く!一掃する!
10節~11節:その日には―主のことば―
新共同訳では、「その日が来れば、と主は言われる」と訳されていて具体的でわかりやすい。
魚の門は、マナセ王が築いた城壁にある。魚市場がある商人の地区。
第二区は、下町。
もろもろの丘は、エルサレム市内の小高い丘。
マクテシュ区は、ダビデの町の西側地区で庶民が住んでいる。
その日が来れば、神の裁きにより商人たちは商売が出来なくなり、滅ぼされる。富に心奪われ、富で問題解決ができると考えている者たちへの裁きか?
12節:その時が来たら、ぶどう酒のかすの上によどんでいるような、心の生ぬるい者をくまなくエルサレムから捜しだして罰する。
13節:その結果、彼らの財産は略奪され、家は荒れ果て、家を建ててもそこに住めず、労働しても実入りがない。
ゼパニヤ1章14節~18節
14節~16節はゼパニヤのことば
14節:7節でも言っているように、「主の日、主の大いなる日は近い」と言う。一気に起こる神の裁きが近い!近い!と教えている。その日は、戦いの勇者でさえも悲痛な苦しみの声を上げるほどなのだと。
15節~16節:神の怒りの日、それは苦難と苦悩、荒廃と滅亡、闇と暗黒、雲と暗闇の日。角笛と、ときの声が上がる日で、世界諸国も権威も襲われる。敵が攻め、襲撃があり、そうして 神 の裁きが下る。
17節~18節は神のことば
17節:罪人の最後の裁きは徹底的である。人々は目の見えない人のように歩き、彼らの血はちりのように、はらわたは、糞のようにまき散らされる。[こういう惨状を見せられる預言者の辛さと重責は如何ばかりか!]
18節:主のねたみの火に、偶像や富は何の役にも立たない。大患難時代とは、主が全土と人類を焼き尽くし、滅ぼし尽くすことだ!
〔新共同訳 1:18 金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に。地上はくまなく主の情熱の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を地上に住むすべての者に臨ませられる。〕
ゼパニヤ2章1節~15節
1節~7節はゼパニヤのことば。ただし、5節Cは神のことば。
1節~3節:1章17節~18節を受けて語られている。「恥知らずの民」は、一般的には異邦人だが、ここではユダヤ人のこと。不信仰な状態での回復の預言が語られる。3節は、残れる信仰者の救いが示されている。「柔和」の重要性を認識!(ゼパニヤ9:9、マタイ5:5、21:5)
4節~15節は、周辺諸国に下る裁き
[裁かれるとされる周辺諸国]
4節~7節:ユダの西に位置するペリシテの地。各地に王が存在していた。いわゆる都市連合国家である。クレタ人はペリシテ人のこと。5節bでペリシテのカナンの滅びを宣言している。実際に歴史上ペリシテ人はいなくなり、アシュケロンは1948年以降、イスラエルの領土となっている。
8節~9節は神のことば。
8節:ユダの東に位置するモアブとアンモンの裁き。彼らは、ロトと二人の娘との間の忌まわしい子の子孫。
神の民をそしり、領土の所有に関して高慢になった。反ユダヤ主義の罪。
9節:「わたしは生きている。」と神は言われる。彼らは、ソドムやゴモラのように罰せられ、領土は荒れ、ついにはイスラエルの残れる者がその地を受け継ぐ。
10節~11節はゼパニヤのことば。
10節:彼らの高慢が原因だ。神を無視し、主の民をそしり、高ぶった。
11節:神の裁きにより、彼らに恐れが下る。その時偶像は何の助けにもならないことが分かり改心する。すべての異国の民も主を礼拝する。
12節は神のことば。
12:クシュはユダの南に位置する。クシュ人とはエチオピア人のこと。この時代はエジプトよりもエチオピアの存在が大きかった。紀元前671年にアッシリアがエジプトに侵攻した時、クシュはエジプトから撤退し、後退し始める。
13節~15節は神のことば。
13節:アッシリアはユダの北に位置する。主はアッシリアとニネべを砂漠にされる。
14節~15節:完全なるアッシリアの裁きにいたり、神に反する者たちの裁きは完結する。特にアッシリアは奢りの極みであったが、丸裸となる。神と神の民をあざける者は、後にあざけられることになる。
ゼパニヤ3章1節~13節
1節~5節はゼパニヤのことば。
1節:わざわいだ。反逆と汚れに満ちた暴虐の都。それは・・・
2節~4節:
つまりは、神のいないユダヤ教。彼らは、おごる者、高慢な者である。
5節:そんな中にあって、主は常に公正を示されるが、不正な者は恥を知らず、ますます不正を続ける。
6節~13節は神のことば。
6節~7節:1~5節の状態にあるイスラエルに主が与えることば。諸国を打ったから、お前たちはこうあれと諭す。四隅の塔とは、四方の主要国で、異邦人諸国である。
主は言われた。ただわたしを恐れ、戒めを受け入れよ。⦅戒めを受け入れる者がいる。⦆だから、どんなにエルサレムを罰しても、戻るところが無くなることはないのだ。ただし、諸国は悪事を繰り返し、イスラエルを翻弄する。
8節~10節:「それゆえ、わたしを待て。」と主は言われる。ハルマゲドンの戦いの日を待て。諸国を裁くから。ハルマゲドンの戦いが終わる(メシア的王国になる)と、ことばが統一され、諸国の民も主に仕え崇めるようになる。そして、クシュの川の向こう「地の果て」(ディアスポラ)のユダヤ人が帰って来る。羊の異邦人の助けにより、離散の民は贈り物を携えて来る。(贈り物とは真の信仰かもしれない)
*「諸国の民の唇を変えて清くする。」の唇(サーファー)は、創世記11章1節のことば(サーファー)と同じである。清くするは、くつがえすとも訳せる。よって、ことばが統一されるとなる。
11節:この大患難の終盤で、イスラエルのこれまでの罪は赦される。それは、おごる者、高慢な者が取り除かれ、聖別、新生が完了。
12節:へりくだった、貧しい者を残す(マタイ5章3節)。彼らは、キリストを信じる者である。
13節:不正が存在しないメシア的王国(千年王国)が始まる。キリストに導かれた羊、聖徒たちが地に住み、もう敵となるものは存在しなくなる。裁きは終わり、祝福の時となる。
ゼパニヤ3章14節~20節
14節~17節はゼパニヤのことば。
14節:勝利を共に喜ぶシーン! 娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ。心の底から喜び叫べ。
15節:罪(サタンの支配)は取り除かれ、メシア的王国(イエス様が王となる御国)が完成する。
16節~17節:主は言われる。エルサレムよ、恐れるな。あなたの神、わたしこそが救いの神だ。わたしの愛によってあなたにさらに安らぎを与え、あなたを喜び歌う!!
18節~20節は神のことば。
18節:例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたから離れていた。そしりがシオンへの重荷であった。
【新共同訳:わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。】
彼らとは、最終的にイエスを信じ受け入れたイスラエルの人々のことである。大患難時代の後半は第3神殿では例祭を行えなくなる。彼らのそしりは神を信じている者たちの重荷、重い恥となっていた。しかし、最終的にはイエスを信じ、神によって集められる。
19節:苦しめたすべての敵が罰せられ、消え去る。足を引きずる(苦しい信仰の道を歩んだ)者、離散した者を集める。恥が栄誉となり、名が変えられる。
20節:神の最後のことば。
主に信頼するすべての民が集められ、人間に与えられている本来の姿に回復され、祝福が与えられる。特にイスラエルの民は、栄誉ある名が与えられる。
主は言われ、約束された!
私たちは栄光のからだを持って、イスラエルの回復を目撃する。壮絶な裁きの末、イスラエルの栄誉の回復と、千年王国の始まりを見て、私たちは一斉に心から歓喜の声を上げる。「主よ感謝します。ハレルヤ!」
ナホム1章1節~2節
1節:著者はナホム。エルコシュ人だが、エルコシュが何処にあったかは不明。カペナウム辺りかもと言われている・・・
ナホムの意味は、「慰めに満ちた」「慰め」である。
南ユダの預言者で、活動時期はマナセ王の時代。
内容は、アッシリアのニネべに対する厳しい裁きである。
ナホムは神から幻を見せられ、それを記録した。つまり、記録出来るほど鮮明な幻⦅神によるバーチャルリアリティー?⦆であったと思われる。
アッシリアに関して
アッシリヤの起源はBC2000年頃とされるが、徐々に拡大し大帝国を築いた。BC722年には北イスラエルを滅ぼし、地中海沿岸からエジプトにまで勢力を伸ばした。
途中、自国統一と外敵防衛に取り組んだが、再び勢力拡大に移り、エジプトにまで及んだ。(BC663年頃がピーク)
ニネベは、BC612年にバビロン・メディアに攻略され、その後急速に減衰し、3年後には完全に歴史から姿を消す
ヨナ書について
ヨナの名の意味は「鳩」。Ⅱ列14:25に登場し、ヤロブアムに領土の回復を預言している。北イスラエル(ゼブルン族)の預言者。
ヨナは、神から、ニネべに裁きがあることを伝えるように命じられるが、イスラエルを思う彼は、アッシリアが悔い改めてしまうことを恐れ、その命令に背き、船でヤッファから西方へと逃避する。しかし神はその御業で、大魚を用いてヨナを悔い改めに導いた。
ヨナは、ニネべに行き、神の裁きを告げると、12万人以上の民と、図らずも王までが悔い改めた。それを見たヨナは怒り、神に死を願う。神はトウゴマ、虫、東風(熱風)を用いて、神の思いを悟らせようとされた。
ヨナは、最終的には悔い改めたと思われる。
歴史的に見ると、ヨナ書はアッシリヤの自国統一や防衛に注力の時期と重なる。ゆえにヤロブアム2世は、北イスラエルの拡大が可能だった。【Ⅱ列14:25】この預言は、ヨナから自国に与えられた。
2節:復讐という言葉が3回も出て来る。神は、ニネべにヨナを通して神の裁きについて事前に告げた。しかし、改心も束ぬ間、アッシリアはさらに暴虐となる。それを踏まえての裁きである。神はチャンスを与え、忍耐された。愛と忍耐の神である!
ナホム1章3節~15節
3節:主は怒るのに遅く、力強い方。決して罰せずにおかれることはない。
忍耐強く辛抱される神だが、その忍耐に甘えていてはならない。その偉大な力で必要な裁きは下される。
主は、その道がつむじ風と嵐の中にあり、雲は、御足がかき立てるほこりである。
とあるように、神は天候を支配しておられるお方である。
4節:主は海を叱って干上がらせ、すべての川を涸らされる。バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花もしおれる。
バシャンとはゴラン高原のことで、バシャンもカルメルもレバノンも水の豊かな場所である。主は、それらを干上がらせるのである。
5節:山々は主の前に揺れ動き、もろもろの丘は溶け去る。地は御前でくつがえる。世界とその中に住むすべてのものも。
神の力は地形の変動。世界を巻き込む天変地異。
6節:主の激しい憤りの前に、だれが立てるだろうか。だれが、その燃える怒りに耐えられるだろうか。主の憤りは火のように注がれ、岩々は御前に打ち砕かれる。
主の怒り(力)は燃える火。だれひとり耐えられない怒りの火が注がれ、神の御前には、どんな権威も立つことはできない!
7節:主はいつくしみ深く、苦難の日の砦。ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。ゆえに、神は将来も、主に身を避ける者、主の戒め、教えに従い主に信頼する者をご存知であると言われる。ここに、神の愛、将来の残れる者への救いが示されている。
8節:しかし、押し流す大水でその場所を滅ぼし尽くし、敵どもを闇に追いやられる。
しかし敵に対しては、必ず、滅ぼし尽くし闇に追いやる。神はいつまでも悪を野放しにはしない!
9節:おまえたちは主に対して何を企むのか。主は滅ぼし尽くす方。敵対する者は二度と立ち上がれない。
「おまえたち」とは、ユダヤ人を攻める異邦人全体を指す。最終的には滅ぼし尽くす神に対して何をしようというのか?
10節:彼らは、絡みついた茨。大酒飲みの酔っぱらいのようだ。乾ききった刈り株のように焼き尽くされる。
「彼ら」とは異邦人の中の、アッシリヤ帝国そのものを指す。何層にも絡みつく歴史ある帝国。彼らは酩酊し、自分が何をしているのかわからない。結局、成長しても、刈られ、焼き尽くされてしまう。
11節:おまえたちの中から、主に対して悪を謀り、よこしまなことを企てる者が出た。
「おまえたち」とは、歴代のアッシリヤのことで、ここに暴虐著しい邪悪な者(ベリアル)が出たと言っている。ベリアルは、旧約聖書ではサタンのこと。具体的にはセンナケリブ王(BC705年~BC681年)のことである。
12節~13節:主はこう言われる。「彼らが壮健で、数が多くても、それでも、刈り取られて去って行く。わたしはあなたを苦しめたが、もう苦しめない。今、わたしは彼のくびきを砕いてあなたから外し、あなたのかせを打ち砕く。」
「彼ら」はアッシリヤのセンナケリブの軍隊。「あなた」はユダ。「彼」はセンナケリブ王。南ユダは、アッシリヤに責められ追い詰められていた。しかし、神はアッシリヤを打ち砕かれる。
14節:主はおまえについて命じられる。「もはや子が宿ることなく、おまえの名は絶える。おまえの神々の宮から、わたしは彫像や鋳造を断ち切る。わたしはおまえの墓を造る。おまえが取るに足りない者となったからだ。
「おまえ」とはアッシリヤ。彼らに子孫繁栄はない!これは彼らにとって屈辱的なこと!子孫の繁栄はないと宣告されることは完全な滅びを意味する。
15節:見よ。良い知らせを伝える人の足が、平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある。ユダよ、あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者たちは、もう二度とあなたの間を通り過ぎることがない。彼らはみな、絶ち滅ぼされた。
「見よ。良い知らせを伝える人の足が、平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある。」これはイザヤ書52:7からの引用である。イザヤ書52:7~10は、終末の勝利をも暗示している。ハバクク、ゼパニヤの学びの時に、彼らはイザヤ書を知っていると言ったが、その証拠。しかし、この預言書は、終末の預言ではなく、目の前にあるアッシリヤへの裁きに絞られている。
ナホム2章1節~13節
この2章から、ニネベの裁きについての言及である。
徹底的なニネベに対する裁きは、悪を行う者の末路の提示であり、あわれみの後の、神の怒りの厳しさを知る手掛かりとなる。
1節~12節はニネべの裁き、最後の13節が神のみことば(宣告)である。
結局、歴史の主体は常に神である。
1節:追い散らす者が、おまえに向かって上って来る。塁を見守り、道を見張れ。腰を強くし、大いに力を奮い立たせよ。
「追い散らす者」は、バビロン、メディアの合同軍。「おまえ」は、アッシリヤのニネベ。神はバビロン、メディア軍を用いてニネベを叩く!覚悟せよ!
2節:主がヤコブの威光を、イスラエルの威光のように回復されるからだ。まことに、荒らす者が彼らを荒らし、彼らのぶどうの枝を損なう。
新共同訳:「主はヤコブの誇りを回復される。イスラエルの誇りも同じように。」
ここにイスラエルの誇りを回復する!
「彼ら」とはユダヤ人。その「ぶどうの枝」はその子孫。
アッシリヤは北イスラエルを捕囚し、更に南ユダを苦しめる。この危機的状況を見過ごすことなく、神は動かれた!
南ユダを回復するため、ここからは、一気に攻められるアッシリヤが描かれる。
3節:勇士の盾は赤く染まり、兵士は緋色に包まれる。戦車は、それが整えられる日、鋼の火を通され、槍は振り回される。
赤く染まる、緋色、とはバビロン軍のトレードカラー。バビロン軍の戦車や武器は、秀でていたとされる。
戦車には、2頭の馬が繋がれ、3人の兵士が乗った。いよいよ、バビロン軍の攻撃の準備が整った。
4節:戦車は通りを走り狂い、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、稲妻のように走る。
5節:高貴な人は呼び出されるが、途中でつまずき倒れる。人々は町の城壁へ急ぐが、そこに外から柵が設けられる。
戦車による攻撃は、稲妻のように激しく速く、そして焼き尽くす。
「高貴な人」とは、将軍、大将など。彼らは途上でつまずき倒れる。それほど一気に攻め上ってきたので、対応ができない。慌てて城壁を固めようと民が動き、矢の防柵を置く。新共同訳では、「防御車が置かれる」と書かれている。いずれにしても後の祭りということ。無警戒の内に攻められ、逃げ場もない状態が想像できる。
6節:いくつもの川の水門が開かれ、宮殿は消え去る。
新共同訳:「流れに面した門は開かれ、宮殿は揺れ動く。」
ティグリス川の氾濫により、水が城内に入り込み、宮殿は消え失せる。(揺れて崩れてしまう。)
紀元前1世紀の歴史家ディオドロスによると
攻城戦の最中にティグリス川が氾濫してニネヴェ城内に流れ込み、これに乗じたバビロン・メディアの合同軍が外壁を乗り越えて攻め込み、神殿を略奪して宮殿を焼き払った。
(ウィキペディアより)
7節:王妃は捕らえられ、連れ去られる。女奴隷たちは鳩のような声でつぶやき、胸をたたいて悲しむ。
王妃が捕まることは敗北の意味。侍女たちは恐怖に呼吸が乱れ、胸を打って悲しむ。
8節:ニネべは、水が流れ出る池のようだ。「止まれ、止まれ」と言っても、向きを変える者はいない。
水が豊かな都市が、今はその水が流れ出るように、多くの人々が逃げ出して、止めようにも止まらない。
9節:銀を奪え。金も奪え。その財宝には限りがない。あらゆる尊い品々があふれている。
侵略者に向かい、「溢れるほどの金、銀、財宝を奪い取れ!」
10節:不毛、空虚、そして荒廃。心は萎え、膝は震える。どの腰もわななき、どの顔も青ざめる。
不毛、空虚、荒廃。・・ブカー、ムブカー、ムブラカーとなっており、荒廃がどんどんひどくなる状態をイメージさせる。さっきまで平安だったニネべの人々は、瞬時に震え慄き、顔色をなくす。
11節:獅子の住みかはどこか。若い獅子にとっての餌場は。雄獅子と雌獅子が出歩くときに、子獅子がだれにもおびやかされない住みかは。
「獅子」は、アッシリヤ、「若獅子」は、現在着任の王。それらのすみかとは、かれらの餌場でもある。彼らは、残虐行為で恐れさせ、諸国を苦しめて貢ぎ物を奪い、それらによって、都市ニネべをはじめとするアッシリヤを、平安に豊かにしていた。
12節:獅子は、十分な獲物を子獅子のために引き裂き、雌獅子のためにかみ殺し、獲物でその穴を、かみ裂かれた物でその巣を満たす。
彼らは、征服した諸国の苦しみの上に成り立つ権威である。しかし、財宝も城も取られた彼らにとって、そんな餌場、すなわち仕える諸国はもう存在しない。
13節:「見よ、わたしはおまえを敵とする。―万軍の主のことば― おまえの戦車を燃やして煙にし、若い獅子を剣が食い尽くす。おまえの獲物を地から絶やし、おまえの使者たちの声はもう聞かれない。」
「おまえ」は、アッシリヤ。もうここまでだ!・・というニュアンス。戦力を完全に焼き尽くし、その王は殺される。諸国からの財産は無と帰し、仮に使者を送って助けを求めても、もう誰も、どこの諸国も聞き従うことはない!
ナホム3章1節~19節
1節:わざわいだ、流血の町。すべては偽りで略奪に満ち、強奪はやまない。
2節:むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び跳ねる戦車。
3節:突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なす屍。数え切れない死体。死体に人はつまずく。
ニネべの町は自分たちがして来たと同じように攻められ、町中に数え切れない死体の山が積みあがって行く。その惨劇は凄まじい。
4節:これは、遊女の淫行の数々に、呪術を行う女の麗しさによるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その呪術によって諸部族を売り渡した。
悪魔(サタン)的宗教を取り入れ、偶像を礼拝させ、その口から出る惑わしで諸国を束ねて行った。交わる諸国を属国(配下)にした。南ユダもその悪影響を受け、惑わされた一国。
5節:「見よ、わたしはおまえを敵とする。 ―万軍の主のことば― わたしはおまえの裾を顔の上にまでまくり上げ、諸国の民におまえの裸を見せる。諸国の王におまえの恥を。
2章13節と同じ書き出しで神の宣告。預言的完了形であって確実に成就する。「恥を見る」とは、神の裁きにあうこと。神に裁かれ力を失った哀れなニネべ(アッシリア)の姿を諸国にさらす。
6節:おまえの上に忌まわしいものを投げかけ、おまえを愚弄し、おまえを見せ物にする。
「忌まわしいもの」とは、アッシリアにとって忌まわしいもので、バビロン・メディア合同軍のこと。ここに、大国を誇っていたアッシリアの弱体が示される。
7節:おまえを見る者はみな、おまえから逃げて言う。『ニネべは荒れ果てた。だれが彼女のために嘆くのか。』わたしはどこからおまえを慰める者を探して来られようか。
落ちて行くニネべを見て、周辺諸国は嘆くことなく逃げて離れてゆく。どの国も助けることはない。
8節:おまえはテーベよりもすぐれているのか。それはナイル川のほとりにあり、水がそれを取り囲んでいる。その塁壁は海、海がその城壁。
9節:クシュとエジプトはその力。その力には限りがない。プテもルブ人もその助け手。
テーベは難攻不落と言われる、ナイル川のほとりにあることから海のような水が壁となる城塞都市。
更にクシュ(エチオピア)、エジプト、プテ(ソマリア)、ルブ人(リビヤ人)という4つの同盟国を持っていた。
10節:しかし、それもまた捕囚となり、捕らわれの身となって出て行く。その幼子たちはあらゆる街角で八つ裂きにされ、高貴な人たちはくじで分けられ、おもだった者たちはみな、鎖につながれる。
難攻不落と言われた都市テーベは攻められ捕囚となる。残虐な行為がなされたことが示されている。アッシリヤの絶頂期と思われる。
幼子は街角で八つ裂き、貴族はくじ引きされ、大人は奴隷として売り飛ばされる。残虐行為が行われたのは言うまでもない。
ここは、ナホム書が書かれた時期の手掛かりとなる。テーベの陥落はBC663年であり、ニネべ陥落がBC612年であることから、BC663年からBC612年の間に書かれたと判断される。
11節:おまえもまた、酔いしれて意識を失う。おまえもまた、敵から逃げて砦を捜し求める。
テーベ同様に攻められるニネべは、酔いしれてしまう。これは、神の怒りの盃による、裁きの表現(エレミヤ25:15~17参照)。彼らは敵から逃げ出して砦を探し求める。
12節:おまえのすべての要塞は、初なりの実をつけたいちじくの木のようだ。揺さぶると、食べる者の口に実が落ちる。
「初なりのイチジク」とは、真っ先に食べられてしまう実であることを指す。揺さぶれば落ちて食べられてしまうように、ニネべを出て他の要塞を探しても、すぐに打たれてしまう。
13節:見よ、おまえの兵隊はおまえの中にいる女たち、敵に向かっておまえの国の門は広く開け放たれ、火がかんぬきを焼き尽くす。
戦う兵隊は女しか残っていないほどの戦力。アッシリヤの国自体が明け渡され、例え抵抗する町があっても、焼かれ滅ぼされる。
14節:包囲の日に備えて水を汲み、おまえの要塞を強固にせよ。泥の中に入り、粘土を踏みつけ、れんがの型を取れ。
2章1節の「追い散らす者が、お前に向かってくる。塁を見守り、道を見張れ。腰を強くし、大いに力を奮い立たせよ。」の内容から、さらに厳しい状況へ進んでいる。
「ニネべよ、お前は包囲されるから、早いこと、備えをせよ」と言われているが、それはやっても無駄なことである。
15節:その場所で、火はおまえを食い尽くす。剣はおまえを切り倒し、バッタのように火がおまえを食い尽くす。バッタのように数を増し、いなごのように増えよ。
16節:おまえは商人を天の星より多くした。しかし、バッタがこれを襲って飛び去る。
バッタやいなご・・これはバビロン・メディア合同軍を指す。一気に攻める様が想像される。ニネべには商人が多く、富が集中する。それらの富も民も、バビロン・メディア軍は襲う。
17節:おまえ廷臣たちは、いなごのよう、司令官たちは、群がるいなごのようだ。寒い日には城壁の上でたむろし、日が昇ると逃げ去って、どこへ行くか、行く先をだれも知らない。
いなご・・ニネべの部隊、将軍は役に立たず、固まって飛び去ってゆくいなごのよう。それも散り散りバラバラに消えてゆくようだ。
神の目線から見れば、アッシリヤもバビロン軍もバッタ、いなごの類である。
18節:アッシリヤの王よ。おまえの牧者たちは眠り、高貴な者たちはじっととどまっている。おまえの民は山々の上に散らされ、集める者はだれもいない。
アッシリヤの王に諭すように語られる神のことば。もうお前の将軍(牧者)や高官・貴族(高貴な者)は死んでいる。アッシリヤの民は、捕囚民として離散する。
19節:おまえの傷は癒えることがなく、打ち傷は癒やしがたい。おまえのうわさを聞く者はみな、おまえのことで手をたたく。おまえの絶え間ない悪事が及ばなかった者がいるだろうか。」
アッシリヤが回復することはない。
属国や周辺諸国は、長年受けてきた苦しみのゆえに、お前の滅びを喜び祝うであろう。
これはまさに、恥をさらされた形である。
ヨエル1章1節~14節
1節:ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。
著者は、南ユダ王国の預言者ヨエル。名前の意味は「主(ヤハウェ)は神」。「エル」は神、「ヨ」はヤハウェの短縮形。彼は、自分の語る内容は主から与えられたものであると言っている。
著作時代は、ヨアシュ王の時代と考えられている。アモス書にヨエル書からの引用があり、アモス書がウジヤ王の時代に書かれていることから、ウジヤ王の前で、さらに偶像礼拝による悪が示されていないので、善王の時代であろうと言うことから、ヨアシュ王の時代に書かれたとされている。
2節:「長老たちよ、これを聞け。この地に住む者もみな、耳を傾けよ。このようなことが、あなたの時代に、また先祖の時代にあっただろうか。
3節:これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。
4節:嚙みいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、バッタが食い、バッタが残した物は、その若虫が食った。
いなごの大群がユダの地を襲った。長老(老人)に声をかけているのは、これまでになかった大災害が発生したことの強調。この未体験の災害を子々孫々に伝えよ!という命令がなされている。4種類のいなごやバッタは、種類ではなく4という数字に意味がある。旧約聖書では、4という数字は破滅の激しさを象徴的に表す数字である。
5節:目を覚ませ、酔いどれよ。泣け。泣き叫べ。すべてぶどう酒を飲む者よ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。
いなごの襲来は穀物を食い荒らし、葡萄酒は製造不能となる。それまで気持ちよく酔っていた者たちは、大打撃を負う。
6節:ある国民がわたしの国に攻め上って来た。それは力強く、数え切れない。その歯は雄獅子の歯、それには雌獅子の牙がある。
その「いなご」のような異邦の民はイスラエルを攻める。力強く、数が多く、強暴。
7節:それはわたしのぶどうの木を荒れすたらせ、わたしのいちじくの木を木っ端にした。これを丸裸に引きむき、投げ倒し、その枝々を真っ白にした。
ぶどうの木やイチジクを再生不能にする。農産業は当時の主産業であり、それを壊滅。イスラエルの国家的破壊に見える。
8節:悼み悲しめ。荒布をまとったおとめが、その若いときの夫のためにするように。
9節:穀物と注ぎのささげ物は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服す。
10節:畑は荒らされ、地も喪に服す。穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油も涸れるからだ。
11節:恥を見よ、農夫たち。泣き叫べ、ぶどう作りたち。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。
12節:ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれた。ざくろも、なつめ椰子も、りんごも、野のすべての木々は枯れた。喜びが人の子らから消え去った。」
人々は若い妻が夫を亡くした時のように泣き悲しみ、祭司は主にささげる穀物や葡萄酒が無く喪に服するように嘆き悲しみ、農夫たちも収穫がなくなり恥を感じ泣き叫んでいる。
13節:荒布をまとって悼み悲しめ、祭司たちよ。泣き叫べ、祭壇に仕える者たちよ。私の神に仕える者たちよ、行って荒布をまとって夜を過ごせ。穀物と注ぎのささげ物があなたがたの神の宮から退けられたからだ。
14節:断食を布告し、きよめの集会を招集せよ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫び求めよ。
ヨエルが祭司たちに、断食を布告し、きよめの集会を呼びかける。
残されたことは祈りだけ。粗布をまとい、悲しみ、泣き叫べ、夜も昼も!もう神にささげる物は何もないのだから!
断食し、長老ほか、老若男女、主の宮で、主に向かって叫び求めよ! 出来ることは、悔い改めて主に立ち返り、叫び祈ることだけだ。
いなごの大災害は、ユダの民にとって神の前に悔い改める機会となったが、ヨエルはこのいなごの災害をベースに将来の預言を語る。これは主の日に至る序章である。
ヨエル1章15節~2章17節
15節:ああ、その日よ。主の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。
「その日」、「主の日」、それは全能者による破壊の日。耐え難いほどの苦難の日(大患難時代)である。
16節:私たちの目の前で、食物が断たれ、私たちの神の宮から喜びも楽しみも消え失せたではないか。
17節:穀物の種は土の下で干からび、倉は荒れ果て、穴藏は崩れた。穀物がしなびたからだ。
18節:ああ、なんと家畜がうめいていることか。牛の群れはさまよう。牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。
食物が断たれ、民の喜びは消え失せてしまった。
穀物も、備蓄していたものは、すべて劣化した。経済が荒れ果てた。
家畜の牛、羊は滅びる・・・擬人的に見れば、民が滅びてゆく様子ととれる。
最後の襲来は目を覆うほどにイスラエルは悲惨な状況となることを暗示。イスラエルの民、異邦人に対する、この地での最終的裁きの時!この地は、聖別の場となる!
19節:あなたに、主よ、私は呼び求めます。火が荒野の牧場を焼き尽くし、野のすべての木を炎がなめ尽くしました。
20節:野の獣も、あなたをあえぎ求めています。水の流れが涸れ、火が荒野の牧場を焼き尽くしたからです。
ヨエルも、思わず神に呼び求めています。その惨劇は見るに堪えない。他国の侵略に加え、火と炎がイスラエルを襲う。牧場も野も木々もなめつくされた。更に野の獣は水を失い喘ぎ求め、食料となるものもすべて消え失せた。
野の獣を擬人法で読み解くなら、神を信じ切れず逃げ惑う人々が力尽き、飢え、喘ぐ姿。
2章
1節:「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。」地に住むすべての者は、恐れおののけ。主の日が来るからだ。その日は近い。
神は全人類に宣言される。「角笛を鳴らし、エルサレムでときの声を上げよ!」
これは「敵の侵入に備えよ!」の角笛。これから起こる悲劇はまさに大患難時代。
2節:それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。
その日「主の日」は、闇と暗闇、雲と暗黒の日である。ゼパニヤ1:14~16参照。
暁の日の光のように、山の上から光が差すように、数多くの力強い悪霊の軍が各国に攻め入る。世界規模。これは最初で最後の、つまりは、神の裁きである。
3節:彼らの前は火が焼き尽くし、うしろは炎がなめ尽くす。彼らが来る前は、この地はエデンの園のよう。しかし、去った後は、荒れ果てた荒野となる。これから逃れるものは何もない。
「主の日」の襲来は火と炎。前も後ろも火の海。エデンの園のような土地は荒野になる。
4節:その姿は馬さながら、軍馬のように駆け巡る。
5節:その音は戦車のきしり、山々の頂を飛び跳ねる。その音は刈り株を焼き尽くす火の炎、戦いの備えをした強い民のよう。
6節:諸国の民はその前でもだえ苦しみ、顔はみな青ざめる。
その悪霊の攻撃は軍隊のようで、あっという間に国々を焼き尽くす、滅ぼす。諸国は青ざめる。様々な攻撃に対して、何の対抗手段もないから。
7節:それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじ登る。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。
8節:互いに押し合わず、それぞれ自分の大路を進む。投げ槍が降りかかっても、止まらない。
9節:町に襲いかかり、城壁の上を走り、家々によじ登り、盗人のように窓から入り込む。
10節:地はその前で震え、天も揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。
どんな防御も、防衛も役に立たず、町に侵入され人類が侵略される。加えて天変地異(大地震や宇宙規模の異変)が地上、つまり地球を襲う。
11節:主はご自分の軍隊の先頭に立って声をあげられる。その陣営は非常に大きく、主のことばを行う者は強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられるだろう。
あたかも、サタンの差し金による侵略に見えるが、すべては神がなされている裁きである。主の日とは、かつてない恐怖であり、誰も耐えられない!
12節:「しかし、今でも ―主のことば― 心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」
「しかし、今でも」、新共同訳「今こそ」、原語では「今」+「なお」、「しかし」。
「今でも遅くはない、今こそ心を尽くして主に立ち返れ!」という意味合い。
13節:衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。
14節:もしかすると、主が思い直してあわれみ、祝福を後に残しておいてくださるかもしれない。あなたがたの神、主への穀物と注ぎのささげ物を。
外面的な行動ではなく、内面的実質的な心の悔い改めをせよ!神に立ち返れ!
なぜなら、「主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」お方だから。
神はいつの時代でも、忍耐強く、民の悔い改めによる立ち返りを待っておられる。
15節:シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食を布告し、きよめの集会を招集せよ。
16節:民を集め、会衆を聖別せよ。老人たちを呼び集め、幼子と乳飲み子たちを集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。
「主の日」なのだ。これが最後だ!断食ときよめの集会の角笛を吹き鳴らせ!
老若男女、幼子も乳飲み子も、新婚の夫婦もすべてこの祈りに参加せよ!
17節:神殿の玄関と祭壇の間で、主に仕える祭司たちは泣いてこう言え。「主よ、あなたの民にあわれみをかけてください。あなたのゆずりの地を、国々のそしりの的、物笑いの種としないでください。諸国の民の間で、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか。」
ささげる物は何もない祭司たち、泣いて祈れ。「主よ、心からお詫びします!悔い改めます!あなたに立ち返ります! どうかこのゆずりの地を国々のそしりとさせず、物笑いの種にならないようにしてください。あなたの栄光が汚されることのないようにしてください! 私たちが愚かでした! 異邦の民が、『神などいないではないか』と言わせないでください。」
ヨエル2章18節~32節
18節:主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。
神はイスラエルの民(ご自分の民)とともに、エルサレム(ご自分の地)も愛する。
ゼカリヤ 1:14~17、8:2~6 にも「ねたむほどに・・愛する」とある。
「ねたむ」とは、出エジ34:14、エゼ39:25にもあるように、非常に強い愛を表すこだわりの表現。
18節は並列法で書かれていることから、「ねたむ」と「深くあわれむ」の言葉は違えど、神は両者を同等に愛し、執着していることがわかる。それ故、エルサレムが常に存続し、併せてイスラエルの民も常にどんな状況になろうと残れる民となる。
この節は、エルサレムとイスラエルの民に対する神の根本姿勢を示している。。
19節:主は民に答えられた。「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油をあなたがたに送る。あなたがたはそれで満ち足りる。わたしは二度とあなたがたを、国々の間でそしりの的としない。
あわれみ深く、怒るのに遅い慈しみの神、主は、民の17節の祈りを聞いて、答えられた。
諸国のそしりから回復させ、穀物、葡萄酒、油・・つまり産業を回復させる。
20節:わたしは、北から来るものをあなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやる。その前衛を東の海に、その後衛を西の海に。その悪臭は立ち上り、その腐った臭いは立ちこめる。主が大いなることを行ったからだ。」
北から来るもの・・北からのイスラエルを攻める軍勢をハルマゲドンの戦いで主が打たれる。ネゲブの砂漠に追いやり、その前衛部隊を東の海(死海)で滅ぼし、後衛部隊は西の海(地中海)で滅ぼす。異邦人への最後の戦いである。
「主が大いなることを行った」とは、大患難時代の、最終の裁きを行ったということ。
21節:地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。主が大いなることを行われたからだ。
22節:野の獣たちよ、恐れるな。荒野の牧草が萌え出で、木が実を実らせ、いちじくとぶどうの木が豊かに実る。
23節:シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。
24節:打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。
この大患難時代の最後の裁きが行われたなら、もう恐れることはない。楽しみ喜べ!
野の獣よ、牧草が回復し食料が満ち溢れるから。
イスラエルの民よ、神の民よ。楽しめ、喜べ。!
新改訳2017「主は、義のわざとして、初めの雨を与え」、第3版「主はあなたがたを義とするために、初めの雨をたまわり」、新共同「主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる」・・物理的な雨とともに、聖霊の傾注がなされる・・物質的にも、また、霊的にも回復するという状況を表現していると判断できる!
⁂「初めの雨」は「義の教師」と解釈すべき。「義の教師」とは、イエス様。
25節:「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、嚙みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。
これまでの異邦人による大襲来に対して償う。単に賠償するという意味ではない!
償う・・原語は「シャーラム」で、「回復する、完成する、報いる、償う」という意味がある。
神は、裁かれてきたイスラエルの民を、ここに完全な神の民として回復、完成させる!
26節:あなたがたは食べて満ち足り、あんたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。
27節:あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。
イスラエルの民は、永遠に恥を見ることが無くなる。それは、主が、人間にとってとても不思議なことをなさるから、・・・
イスラエルの民はすべてに充足して、主をたたえるようになる。
常にイスラエルの真ん中で主が民と共存し、もう偶像は存在しない。
28節:その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
29節:その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。
30節:わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。
31節:主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
32節:しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。主が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主が呼び出す者がいる。」
「その後」・・大患難の裁きとイスラエルの民の悔い改めが終わった時、という意味。
ここに示される内容は、聖霊の傾注と大患難時代のイスラエルの残れる者の救いである。
「すべての人」とは、32節の主の御名を呼び求めるイスラエルの民ということである。
「霊が注がれる」・・使徒2章17節~18節でペテロがこの個所を引用して聖霊降臨を説明している。ペテロは、ヨエル書による聖霊の傾注と同じ現象が、今ここに起きていることを表現した。決して、この時が大患難の最後の時ということではない。ましてや、イスラエルから取り去られ教会に注がれた、という意味では、決してない。
なぜなら、
ペテロは、あえて使徒2章19節~21節まで語っている。この預言の真意がここに含まれているからである。
19節:また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。20節:主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。21節:しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」
つまり、ヨエル書がいう大患難後の聖霊傾注の時には・・天と地にふしぎが現れ、血と火と立ち上る煙があり、太陽は闇に、月は血に変わるという現象が起こらなければならないということである。
ヨエル書3章1節~21節
1節:「見よ。わたしがユダとエルサレムを回復させるその日、その時、
「見よ」イスラエルの回復の、その時になされるハルマゲドンの戦いの最終局面を見よ。
ハルマゲドンの戦いは、ボツラから始まりヨシャパテの谷で決着する最も悲惨な裁き。
2節:わたしはすべての国々を集め、彼らをヨシャファテの谷に連れ下り、わたしの民、わたしのゆずりイスラエルのために、そこで彼らをさばく。彼らはわたしの民を国々の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分配したのだ。
3節:彼らはわたしの民をくじ引きにし、少年を渡して、遊女を得、少女を売って、酒を得て飲んだ。
異邦の国々をヨシャファテの谷に集める。ヨシャファテは「主の裁き」という意味。この谷は実名の場所がなくケデロンの谷と見なされている。そこで裁く!
裁きの理由は、イスラエルの民を離散させたから。神が愛する地を自分たちの間で分配したから。神の民を奴隷として売渡し、悪を行ったから。
4節:ツロとシドン、またペリシテの全地域よ。おまえたちは、わたしにとって何なのか。わたしに報復しようとするのか。もしわたしに報復しようとしているなら、わたしはただちに、速やかに、おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す。
5節:わたしの銀と金をおまえたちが奪い、わたしのすばらしい財宝をおまえたちの神殿へ運び、
6節:ユダの人々とエルサレムの人々をギリシア人に売って、彼らの領土から遠く離れさせたからだ。
ツロ、シドン、そしてペリシテの全地域。地中海に面した海洋都市群。この都市、国家はイスラエルに敵対する存在。現在でも、この地域で争いが絶えない。神に敵対するつもりで、エルサレム、イスラエルの民を痛めつけるのなら、神ご自身が報いを与える。振り返れば、財宝を奪い神の神殿を荒らし、ユダヤの民をギリシア人に売り、離散させた。
7節:見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその場所から彼らを呼び戻して、おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返し、
8節:おまえたちの息子、娘たちをユダの人々に売り渡す。彼らはこれを、遠くの異邦の民シェバ人に売る。―主は言われる。」
神は、離散の民を集め戻し、異邦の民の娘、息子をイスラエルの人々に売り渡す。イスラエルの人々は異邦の民シェバ人(アラビヤの人々)に売り渡す。
9節:「国々の間で、こう叫べ。聖戦を布告せよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。
10節:あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌をを槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。
11節:周りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。―主よ、あなたの勇士たちを下らせてください―
12節:諸国の民は立ち上がり、ヨシャファテの谷に上って来い。わたしがそこで、周辺のすべての国々をさばくために、座に着くからだ。」
「国々の間で」・・異邦人諸国のこと。彼らに「聖戦を布告せよ!」と命じている。それは、 異邦人諸国が、聖戦という名のユダヤ人迫害をせよ!との神からの命令!
この命令に、諸国の統治者「反キリスト」が応答し、諸国の軍が決起する。
普段、兵士ではない者も駆り出し、立ち上って来い!と神は駆り立てている。神が、全異邦人の裁きを考えていることが伺える。
―主よ!あなたの勇士たちを下らせてください― とは、御使いのことであるが、主には必要ない。主は一人で処理される。
ヨシャファテの谷まで来い!と言われる。そこで主は裁きの座につかれる。
13節:鎌を入れよ。刈り入れの機は熟した。来て、踏め。踏み場は満ちた。石がめはあふれている。彼らの悪がひどいから。
14節:判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。
「鎌を入れよ」・・刈り入れの時である。刈り込まれたぶどうの実、すなわち異邦人の数が相当数(群衆また群衆)判決の谷(ヨシャファテの谷)に集められ裁かれる。
大量の異邦人の血は都の外(ヨシャファテの谷)に溜まる。それは、馬のくつわの高さ×1600スタディオン(約300km)に広がった。【黙示録14:14~20参照】
15節:太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。
16節:主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。天も地も震える。主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。
太陽も月も暗くなり、星も見えない状態。裁きの深刻さが感じられる。【マタイ24:29】
この時、主はエルサレムから声を上げ、天地が震え、地殻大変動が起こる。異邦人には恐怖であるが、イスラエルの民は、主が自分たちの砦と知る。
17節:「あなたがたは知るようになる。あなたがたの神、主であるこのわたしが、わが聖なる山、シオンに住むことを。エルサレムは聖なる所となり、他国人が再びそこを通ることはない。
神は宣言される。イスラエルの民よ、わたしはあなた方の神であり、エルサレムに住まい、そこが聖なるところとなる。もう異邦人が来ることはない!そのことを知りなさい!!ハルマゲドンの戦いの終わりである。
18節:その日には、山に甘いぶどう酒が滴り、丘には乳が流れ、ユダの谷川のすべてに水が流れ、泉が主の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す。
地殻変動後の回復の時。この地の川は水で満ち、葡萄酒、乳が溢れんばかりとなる。主の宮から東に向かいヨルダン渓谷(アカシアの渓流)へ流れる。【エゼキエル47:1~12】
自然界も回復されることを示す。
19節:エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らの、ユダの人々への暴虐のためだ。彼らはその地で、咎なき者の血を流した。
20節:しかし、ユダは永遠に、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。
エジプト、エドムは荒廃した土地となる。彼らはユダの人々を暴虐し、咎なき民を殺したためである。それにかわり、エルサレムは永遠に人の住むところとなり、神と共に住まうことになる。
21節:わたしは彼らの血の復讐をし、罰せずにはおかない。主はシオンに住む。」
神は必ず、ユダの民が流した血の復讐を実行する。決して忘れない。
そして、神はシオン、エルサレムに住まわれ、民と共におられる。
ついに、メシア的王国の実現である。ハレルヤ‼
アモス1章1節~2節
1節:テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。
アモス・・・「重荷を負う者」の意味。
出身地・・・南ユダ王国のテコア(死海の西にある小さな村)
活動期間は、BC810年からBC750年、さらに狭めれば、BC770年~750年頃か。
職業・・・牧者(ブリーダー、繁殖をつかさどるリーダー的存在)
・・・イチジク桑の木を栽培する農夫。職業的預言者ではない。(アモ7:14)
(エリヤ、エリシャによって建てられた預言者の学校出身ではない)
羊飼いは当時の社会的地位は決して高くないことに留意。
南ユダはウジヤ王、北イスラエルはヤロブアム2世の時代。
大きな地震(ゼカリヤ14:5)が起きた、その2年前に彼が見た北イスラエルに対する神の預言の幻。
アモスは預言者として、とてもユニークな存在!
日頃から、神との関係を純粋に築き上げていた結果、余計な詮索や邪推のない信仰者ゆえに、彼の心は神としっかり繋がっていたのではないか!
2節:彼は言った。主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂は枯れる。
「主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。」ヨエル3:16と同じフレーズ。ヨエル書では、大患難時代の最終末に、全地に発せられた神の声。
しかし、アモス書では、北イスラエルにこれから語られる預言についての神の声。
「カルメルの頂は枯れる」・・・エリヤとバアルの預言者たちとの闘いで有名な場所。 水の豊富なカルメル山。飢饉でもこの山には水があった。そんな場所でも水が枯れるということ。
アモス1章3節~10節
数の満ちる様を表す。裁きの預言に必ず付く冒頭文が繰り返される。
数字の完全数7ということ、3(完全)と4(無限)ということから、そのような状況にまで罪が進んでいる。
「顧みない」・・これは厳しい意味を含む。
新共同訳:決してゆるさない。 口語訳:ゆるさない。「取り消しのきかない」の意味。
3節:主はこう言われる。「ダマスコの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじったからだ。
4節:わたしはハザエルの家に火を送る。その火はベン・ハダドの宮殿を焼き尽くす。
5節:わたしはダマスコのかんぬきを打ち壊す。王座に着いている者をアベンの谷から、王笏を持っている者をベテ・エデンから断つ。こうしてアラムの民はキルへ捕らえ移される。―主は言われる。」
ギルアデ:アラムの王ハザエルとの激戦地。当時多くのイスラエルの民が住む。特にマナセ族、ガド族など。
ハザエルの家:ハザエル王家
ベン・ハダドの宮殿:ハザエルの息子の支配時代
イスラエルは徹底的に痛めつけられた。神がアラム(ダマスコ)を用いてイスラエルを裁かれたが、アラム(ダマスコ)もその非道により裁かれることになる。
⁂アラムの王ハザエルについて
Ⅱ列王記8:7~15・・ダマスコ(アラム)の王の交代劇。ハザエルがベン・ハダド(1世)を暗殺。ハザエルがイスラエルを虐待することも、神がエリシャを通して示された。
Ⅱ列王記9:14~15・・北イスラエルのヨラム王とアラムのハザエル王との戦い。
Ⅱ列王記10:31~33・・ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破る。
Ⅱ列王記13:1~7・・ハザエル、ベン・ハダド(ハザエルの子で、ベン・ハダド3世)による北イスラエルへの厳しい虐げ。一人の人・・アッシリヤの王(アダッド・ニナリ3世)がアラムを攻める。
Ⅱ列王記16:5~9・・神はアッシリヤを用いて、北イスラエル18代ペカ王の時代に、ダマスコ(アラム)を裁かれる。民は捕囚となり、キルへ移される。
6節:主はこう言われる。「ガザの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがすべての者を捕囚の民として捕らえ移し、エドムに引き渡したからだ。
7節:わたしはガザの城壁に火を送る。その火はその宮殿を焼き尽くす。
8節:わたしは、王座に着いている者をアシュドデから、王笏を持つ者をアシュケロンから断つ。わたしはエクロンに手を向け、ペリシテ人の残った者は滅びる。―神である主は言われる。」
ガザは西の沿岸地域の都市国家。
ユダヤ人の奴隷売買についての言及。ペリシテ(ガザ)はユダヤ人をエドムに売って、富を得ていた。
エクロンは一時北イスラエルの領地だった。
この預言は、南ユダ ウジヤ王の時代に成就している(Ⅱ歴代誌26:6)。
神はユダヤの民に対する虐げを決して見過ごしてはおられない。
各都市の権威を滅ぼし、残っていたペリシテ人も滅ぼされる。
ダマスコと異なり、ここでは明確に「滅ぼす」と言われている。取り消しはない!
9節:主はこう言われる。「ツロの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがすべての者を捕囚の民としてエドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかったからだ。
10節:わたしはツロの城壁に火を送る。その火はその宮殿を焼き尽くす。」
ツロ(フェニキア)の裁き
ツロは奴隷貿易の拠点。エゼ27:13
すべての者をエドムに奴隷として売った。
兄弟の契り・・兄弟契約。
ダビデ:Ⅱサム5:11
ソロモン:1列5:1~18
この契約を無視している。故に、神の怒りは、ガザよりも激しいものである。
アモス1章11節~2章5節
11節:主はこう言われる。「エドムの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが剣で自分の兄弟を追い、あわれみを断ち、いつまでも怒り、どこまでも激しい怒りを保ち続けたからだ。
12節:わたしはテマンに火を送る。その火はボツラの宮殿を焼き尽くす。」
エドムの先祖はヤコブの兄弟エサウ。
裁かれる原因は、血縁関係(民族的兄弟関係)でありながら、その敵意は激しく執拗で、怒りをいつまでも持ち続けたから。
裁きはテマン、ボツラを火で焼き尽くす。
13節:主はこう言われる。「アンモン人の三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがギルアデの妊婦たちを切り裂いて、自分の領土を広げたからだ。
14節:わたしはラバの城壁に火を放つ。その火はその宮殿を焼き尽くす。戦いの日の、ときの声のうちに、つむじ風の日の突風とともに。
15節:彼らの王は、その高官たちとともに捕囚の身となる。―主は言われる。」
アンモン人の先祖は、ロト(アブラハムの甥)。
ギルアデ地域で、ユダヤの人々に、人種を滅ぼすごとき殺戮を行った。妊婦たちを切り裂くという蛮行。そうして、自分の領土を広げたからである。
ラバとは、首都。戦いが始まるや否や、大国の軍隊に簡単に滅ぼされる。王も高官も捕囚される。前582年、ネブカデネザル2世(バビロン)に攻められ、前530年ごろ、滅亡。
2章
1節:主はこう言われる。「モアブの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからだ。
2節:わたしはモアブに火を送る。その火はケリヨテの宮殿を焼き尽くす。モアブは、どよめきのうちに、ときの声と角笛の音のうちに死ぬ。
3節:わたしはさばく者を町の真っただ中で滅ぼし、そのすべての高官たちを彼とともに切り殺す。―主は言われる。」
モアブは、ロト(アブラハムの甥)の子孫。
エドムの王の骨を焼いて灰にした。当時の習慣では、相当の冒涜、侮辱だった。
ケリヨテは場所の特定できず。新共同訳の注釈には死海の東岸の都市。原語から、町々と考える人もあるが、文脈から見ると一つの町の方が、適切と思える。
ケモシュ神の聖所があり、偶像礼拝の町。Ⅰ列11:33。
戦いに敗れ、さばきつかさ、高官たちは惨殺。エルサレム陥落後の5年後に滅亡か。
4節:主はこう言われる。「ユダの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが主のおしえを捨てて、その掟を守らず、先祖がつき従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。
5節:わたしはユダに火を送る。その火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす。」
南ユダから来た預言者が、自らの国の裁きについて語る。
周辺諸国の裁きは、歓迎するが、さすがに南ユダの裁きとなるとどうしても聞き耳を立ててしまうのではないか。語るアモスは、自国の行く末も見ているということである。しかし、詳細は語らない。確実に起こることを端的に伝えている。
裁かれる原因は、掟=律法を守らず偶像に惑わされたから。
この裁きはバビロン捕囚(BC586年)に成就。
アモス2章6節~3章15節
2章
6節:主はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。
7節:彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。
8節:彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を自分たちの神の宮で飲んでいる。
賄賂と引き換えに、正しい者を有罪にし、取るに足りない金銭目当てに、貧しい者を公正に扱わない裁判官。申命記16:19
こうした上層部の人間は、弱者を押さえつけ彼らの訴えを聞かない。
彼らは、父と子で、同じ女、すなわち神殿娼婦と淫行する。レビ記18:3、21
彼らは、すべての祭壇のそばで、質草にとった衣服の上に横たわり、申命記24:12~13
罰金という不正で葡萄酒を得、自分たちの神殿でバアル礼拝的酒宴をする。偶像礼拝
弱者の虐待、淫行、偶像礼拝をし、神の民にあるまじき行為を重ねていた。北イスラエルは繁栄していたが、相当な格差社会構造であった。宗教心は熱心であったが、それは本物の神に対してではなかった。
9節:彼らの前からアモリ人を滅ぼし尽くしたのは、このわたしだ。彼らは杉の木のように背が高く、樫の木のように強かった。わたしは、その上の実も下の根も滅ぼし尽くした。
10節:あなたがたをエジプトの地から連れ上り、四十年の間、荒野の中であなたがたを導き、アモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。
11節:わたしが、あなたがたの息子たちから預言者を、あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ。そうではなかったか。イスラエルの子らよ。ー主のことば―
そもそも、
アモリ人(カナンの先住民、高身長で屈強な人種)を壊滅したのはわたし神である。
何のために?・・選民イスラエルのためにである。
エジプトから解放し、40年間荒野の中であなたがたを導き、改めてカナンの地を私有させたのは誰か?そして、必要な時に預言者を与え、またナジル人を与えてきたのは。
それは、何故か?それは約束であり、神が民を愛しておられるからである。
⁂ナジル人とは、神が民と共にいる「しるし」を示す人。聖別された者。
《特長》
酒を断つ。(葡萄酒、強い酒)
聖別期間中、髪を切らない。
死体に近づいてはならない。
12節:しかし、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には『預言するな』と命じた。
神のしるし、神の声をことごとく無視する、神を忘れた民よ!!
13節:見よ。このわたしが、あなたがたを押しつぶす。束を満載した荷車が押しつぶすように。
14節:足の速い者も逃げ場を失い、強い者も力をふるえず、勇士も自分を救えない。
15節:射手も立ちおおせず、足の速い者も逃げられず、騎手も自分を救えない。
16節:勇士のうちの、心の強い者も、その日には裸で逃げるようになる。―主のことば。」
圧倒的な強さが、北イスラエルを覆いつくし、逃げることもできず、反抗もできず、ただ、押しつぶされてゆく光景。神の怒りがどれほどのものかを考えさせられる。
3章
1節:「イスラエルの子らよ。聞け。主があなたがたについて告げた、このことばを。わたしがエジプトの地から連れ上った、あなたがたすべての部族についてのことばを。
出エジプト以降、主があなたがたに告げていたことばを聞け!思い出せ!それは申命記に記された契約事項。
2節:わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。」
「あなたがただけを」・・イスラエル民族限定を強調している。
「選び出した」は原語で見ると「知った」であり、これは契約関係を指す。
選民としての特権は、同時に選民としての応答が発生する。
クリスチャンも同様、救われた者は、神の期待に応える生き方が求められる。神のあわれみに与ったことに対する感謝と応答が必要!
3節:約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。
「約束をしていないのに」・・原語で見ると、2節の「知る」と重なる。
従って、更に訳せば、「契約関係にない二人(神とイスラエルの民)が、ともに歩むということがあるだろうか?」という訳。契約関係にあるということが重要。
更に、「一緒に歩く」・・ということばは、アブラハムとイサク、新約で言えば、天の父なる神とイエス様の関係に似る。共に、ビジョンが一致していることがポイント。
私達も神のビジョンを共有し、信頼してクリスチャン人生を歩む必要がある。
4節:獲物もないのに、獅子が森の中で吼えるだろうか。何も捕らえていないのに、若獅子がその洞穴で声をあげるだろうか。
獅子が吠える・・神が怒られる。それは獲物、すなわち罪人がいるからだ。
罪人が確定したのだから、神(御子)が見えないところから裁きを下される。
5節:罠も仕掛けられていないのに、鳥が地の鳥網にかかるだろうか。何も捕らえていないのに、鳥網が地面から跳ね上がるだろうか。
罪を犯したから、神の裁きに会う。罪を犯したから、神の怒りが発動したのだ。約束を反故にする民の非忠実的な行動を、神は指摘している。
6節:角笛が町で鳴らされたら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起こったら、主がそれをなされたのではないか。
平穏に生活しているところに、突然、戦いの角笛が鳴り響いたら、民は驚く。
自分が罪人だと気づかない者にとって、突然の侵略は、わざわいであるが、
そのわざわいは、神のなさった裁きであることを知れ。
7節:まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。
預言者アモスは、心の底から、「神のみことばを聞け!」とばかり、預言する。神は決してご自分の計画を事前に預言者に示さずに、裁きを下すことはない。
8節:獅子が吼える。だれが恐れないでいられよう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。
獅子が吠える。それは神の裁き。その裁きは本当に恐ろしいことなのだ。だからこそ、神は、必ず事前に預言せずにはおられない。愛の神だから。
9節:「アシュドデの宮殿とエジプトの地の宮殿に告げよ。「サマリアの山々の上に集まり、その町の大いなる混乱と、そのただ中の抑圧を見よ。」
アシュドデの宮殿・・ペリシテ人、エジプトの地の宮殿・・エジプト人。彼らに、サマリヤすなわち北イスラエルの暴虐の証人となるよう命じる。つまり、その暴虐は彼らと同等、または酷いものだったと考えられる。
10節:彼らは正直に事を行うことを知らない。―主のことば― 彼らは自分たちの宮殿に、暴虐と暴行を宝物のように蓄えている。」
律法に従わず、神を忘れ、神の民として忠実に行動しない北イスラエル。彼らは、宮殿、すなわち支配階級の政治は、暴虐と暴行を宝物としている。確かに豊かではあったが、内情は不正、搾取、そしてひどい格差社会だった。
11節:それゆえ、神である主はこう言われる。「敵が、この地を取り囲み、あなたの権威を地に落とす。あなたの宮殿はかすめ奪われる。」
「敵が、この地を取り囲み、」・・北イスラエルを取り囲む大国・・アッシリヤ。
「権威を地に落とす」・・完全に征服される。
「かすめ奪われる」・・あっと言う間に捕囚される状況。
北イスラエル王国は、大国に取り囲まれ、征服され、あっと言う間に捕囚されて行く。
(Ⅱ列王17:5~8を参照)BC.722年のアッシリヤ捕囚の預言。
12節:主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。
サマリヤ人の少数は生き残される。
13節:聞け。ヤコブの家に証言せよ。―神である主、万軍の神のことば―
北イスラエル王国と共に、南ユダも含めて語られる神のことば。証言せよ!とは、まさにアモスが言われたことばであり、全イスラエルに伝える神の怒りの厳しさ。
14節:まことに、イスラエルの背きのゆえに わたしが彼の上に報いる日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られ、地に落ちる。
15節:わたしは冬の家と夏の家を打つ。象牙の家は滅び、大邸宅も消え失せる。―主のことば。」
ベテルの祭壇を罰し、子牛の像を破壊する。権威は地に落ちる。王家、高官に対する完全なる裁き。王家は冬、夏の別荘があり、象牙の大邸宅を有していた。それらはすべてかすめ奪われる。
アモス4章
1節:このことばを聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。おまえたちは弱い者を虐げ、貧しい者を迫害し、自分の主人に「何か持って来て、飲ませよ」と言っている。
「このことばを聞け。」・・神の叱責。バシャンの雌牛どもとは、肥沃な高原の平地(ゴラン高原)に育つ肥えた牛。サマリヤ、つまり北イスラエルの上層部の婦人たちを比喩している。夫に弱者から奪い取るよう言って、贅沢をせびっている。
2節:神である主は、ご自分の聖にかけて誓われる。「見よ、その時代がおまえたちに来る。おまえたちは釣り針にかけて引き上げられる。最後の一人までが、銛で突かれる。
その時代・・アッシリヤ捕囚の時。全員釣り針にかけられ、全員銛でつかれ、縄にかけられる様は、まさにアッシリヤ捕囚を表現している。
3節:おまえたちは、城壁の破れ口からそれぞれまっすぐに出て行き、ハルモンに放り出される。―主のことば。
ハルモンとは、ヘルモン山?詳細は不明。捕囚され、散らされるの意味。
4節:ベテルに行って背け。ギルガルに行って、ますます背け。朝ごとにあなたがたのいけにえを献げよ。三日ごとに十分の一を献げるがよい。
5節:感謝のささげ物として、種入りのパンを焼き、進んで献げるものを布告し、ふれ知らせるがよい。イスラエルの子らよ、あなたがたはそうすることを好んでいる。―神である主のことば。
ベテル、ギルガルで偶像を拝めばよい!益々拝め!まるで律法に従っているように見えるが、一体何を拝んでいるのか?いったい誰に捧げているのか?
その自己中心的な捧げものをあなたは喜んでやっている。
確かに、その宗教心(行い)はとても熱心である。問題は、その対象が的外れになっていること。的外れは気付かぬうちに罪を生む。
6節:わたしは、あなたがたのすべての町で、あなたがたの歯を汚さず、すべての場所で、パンを欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。
―主のことば―
全地域的な飢饉を起こし、歯が汚れることもないほどに食料を不足させた。その時、神に悔い改めて、神に信頼し委ねる信仰に帰ってほしかったのに・・。
7節:わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたに雨をとどめた。ある町には雨を降らせ、ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが、雨の降らなかった畑は乾ききった。
8節:二、三の町は水を飲むために、よろめきながら一つの町に行った。しかし、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった―主のことば。
干ばつを与えたが、6節同様、神に帰って来ることはなかった。
完全なる干ばつにはされなかったところに、神の愛がある。
9節:わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木が増えても、嚙みいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。―主のことば―
農作物に、黒穂病や噛みいなごによって大被害を与えたが、神に帰らない。
10節:わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送った。剣であなたがたの若者を殺し、あなたがたの馬を奪い去った。あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつくようにした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。―主のことば―
とうとう、エジプトのように疫病を送り、また戦で大損害を与えた。死体の悪臭は鼻をつくほどだったのに、神には帰らなかった。
11節:わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは、炎の中から取り出された燃えさしのようになった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。―主のことば。
ソドム、ゴモラのように炎に包み、あなたは燃えさしのようになりつつ助かったのに、神に帰ることはなかった。
12節:それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。
もう、神のリミッターは切れてしまった。それ故、このようにする。イスラエルよ、覚悟せよ!それは、アッシリヤ捕囚。ここで、「あなたの神に会う備えをせよ」と命じていることに注目! 新共同訳では、「自分の神と出会う備えをせよ」となっている。
これは、神の期待の表明ともとれる。アッシリヤ捕囚は裁きであるが、将来において、真の悔い改めによって神と出会う道を備えるから、その準備をしなさい!
13節:見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思いが何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。
「その御思いが何であるかを人間に告げる方。」とは・・
神の目的は栄光の証明、成就である。そこには、人間の栄化も含まれている。そのような目的を持たれる神はほかに存在しない!
新共同訳では、「見よ、神は山々を造り 風を創造し その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし 地の聖なる高台を踏み越えられる。 その御名は万軍の神なる主。」
創造主のご計画は栄光の成就!人を信仰に導き、悪を裁き、真の平安を成し遂げ、栄光を成就する。
アモス5章
1節:イスラエルの家よ、このことばを聞け。私はあなたがたについて哀歌を歌う。
主の叱責のことばを聞け!。アモスは哀歌(悲しみの歌、葬式の時の歌)を歌うという。神の叱責から、アモスは悲しみの哀歌を歌わずにおれない!という心境。
2節:おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女は自分の地に捨て置かれ、これを起こす者もいない。
3節:まことに、神である主はこう言われる。「イスラエルの家の、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残る。」
悲しいかな!北イスラエルは倒れ、二度と起き上がれず、助ける者もいない。
アッシリヤ捕囚により、アッという間に、町には1割の人しか残らない状態となる。
4節:主はイスラエルの家にこう言われる。「わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。
5節:ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」
主はこう言われている、とアモスは言う。
「わたしを求めて生きよ。」(新改訳)
「わたしを求めよ、そして生きよ。」(新共同訳)
2節:2度と起き上がれない、3節:1割しか残らない、
そんな状態になる北イスラエルに、生きる道を明示している。
ベテル、ギルガルへ行ってはならない。4章4節ではああ言ったが、偶像は駄目!また、南ユダにあるベエル・シェバに出かけてゆくことも駄目!偶像礼拝はすぐにやめよ!
6節:主を求めて生きよ。そうでないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。
7節:彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。
(神はこのように言われるのだから)主を求めて生きよ!とアモスは言う。
出来るなら、一日も早く神に立ち帰れ!もう待っている時間はない!
北イスラエルは、公正(神の律法に基づく福祉的考え方)も、正義(神と人との契約関係)も破棄している。
もう、彼らの力で、元に戻れないのは明白。
神を恐れることを忘れた民の哀れさを、アモスは目の前に見ている。
8節:すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主。
宇宙を創られたお方。星も神が創造された。26節の星を拝む偶像を指摘!
暗黒を朝に変えるお方。
昼を暗くして夜にされるお方。
海の水を集めて地上に注がれるお方。創造主なる神は、万物の頂点。
9節:主は、強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。
創造主なる神は、高慢な者を踏みにじり、要塞を破壊する。北イスラエルはまさに高慢な状態である
10節:彼らは門でさばきをする者を憎み、まっすぐに語る者を忌み嫌う。
11節:あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえ、切り石の家々を建てても、あなたがたはその中に住めない。麗しいぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない。
神の公正のシステムを憎み、正しい判断をする者を嫌う。
弱者を虐げ、小作料によって搾取している。
それを見ている神は決して、立派な家を建てても住まわせず、素晴らしぶどう畑ができても、ぶどう酒は飲ませない。権威も経済もすべてぶち壊す!ということ。
12節:私は、あなたがたの背きが多く、あなたがたの罪が重いことをよく知っている。正しい者を迫害する者、賄賂を受け取る者。彼らは門で、貧しい者を押しのけている。
神は、背き、罪、正しい者の迫害、賄賂、弱者の訴えを無視する、という行為をすべて知っている。
13節:それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。時が悪いからだ。
このような時代には、知恵ある者(神を恐れる者)は沈黙する。すなわち、この時代は悪い時代である。
14節:善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。
15節:悪を憎み、善を愛し 門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。
善を求め、悪を捨てるなら、神がともにいてくださって、あなたがたは生きることができたのに。(でも、出来なかった)
もしかしたら、今すぐにでも、北イスラエルに公正(神の律法に基づく福祉的考え方)をもたらし、正義(神と人との契約関係)を行えば、場合によってはイスラエルの残れる者にあわれみがあるかもしれない。
16節:それゆえ、主なる万軍の神、主はこう言われる。「すべての広場に嘆きが起こる。すべての通りで、人々は「ああ、ああ」と叫ぶ。農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を心得た者を呼んで来て嘆かせる。
17節:すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。―主は言われる。」
結局、裁きは行われると主は言われる。
土地を追われ「ああ!」と叫び、泣き女、泣き男が悲しむ時となる。
この時、裁き主が通り過ぎる。まるであのエジプトのように。
18節:ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。
19節:人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家の中に入っても、手で壁に寄りかかると、蛇が彼にかみつくようなものだ。
20節:主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。
勘違いしてはいけない!というアモスのことば。
主の日を、光だと思っているのだろうが、それは違う!!
主の日とは、異邦人の裁きとイスラエルの最後の救いと思っているようだが、主の日とは、大患難時代である。
その日が終わるまでは、わざわいは次から次とやって来る。
そして大患難時代を経なければ、メシア的王国には入れないのだ。
北イスラエルは、主の日を誤解していた。
確かに光は訪れるが、必ずその前に想像を絶する厳しい裁き(暗闇)があり、そこを通らねばならない。それが大患難時代であり、その後にメシア的王国、つまり光が来るのだ。
21節:「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。
22節:たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。
23節:あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。
北イスラエルの行う祭り、集会を受け付けない!
どんな捧げものも、いけにえも目にとめない!
どんな賛美も聞かない!
悔い改めの機会というより、むしろ、これからの歩みの覚悟をせよと、別れの言葉を告げているようだ。
24節:公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。
15節のことばが繰り返される。公正(神の律法に基づく福祉的考え方)と、正義(神と人との契約関係)をたゆまず回転させることが神の期待。!!
祭りも大事だが、公正と義を貫くことはさらに重要である。
25節:イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。
民よ!かつてあなたがたは、荒野の40年間、わたしにいけにえも捧げ物も携えてきたことがないのに、わたしはあなたを導いた。
つまり、最も肝心な事は、祭りごとでも捧げものでもない。(イザ1:14~20)
信頼関係が重要であり、神は完全であり、人間は不完全であるからこそ、悔い改めによる神への回帰が必要であり、神はそれを与えて下さっている。
26節:あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。
今、あなたがたは、わたしとの約束を忘れ、アッシリヤの王シクテとその像キユンを担ぎ、その他の神々を担いでいる。(アッシリヤの星神)
神を捨て、神の民であることを忘れた愚か者!
27節:わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す―その名が万軍の神である主が言われる。」
ここまでだ!北イスラエルよ!
お前たちはアッシリヤに捕囚され、ダマスコのかなたに離散する。
ステパノがこの部分を引用している(使徒7:39~43)
神に信頼せず偶像に信頼するイスラエルの悪態をつくための引用
アモス6章
1節:わざわいだ。シオンで安逸を貪る者、サマリアの山に信頼している者。イスラエルの家が頼って行く、国々の最高の首長たち。
わざわいだ!(ホーイ!)・・・・わざわいの預言の前触れの感嘆詞。(5:18、ハバクク)
シオンで安逸を貪る者たちとは南ユダの上層部の人たち。ウジヤ王の時代。
サマリヤの山に信頼している者たちとは北イスラエル全体の人々。
イスラエルの家が頼って行く、国々の最高の首長たちとは、イスラエル王国を過ちに導いている上層部(上流階級)の者たち。
新共同訳:諸国民の頭である国に君臨し、イスラエルの家は彼らに従っている。
ここに、南ユダが登場している。いずれは彼らも同じ道を歩むことになることの示唆か。事実、7節で捕囚が少なくとも北イスラエルだけではないことが読み取れる。
2節:カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行け。またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているのか。彼らの領土はあなたがたの領土より大きいのか。
カルネ・・北シリヤにある都市
大ハマテ(ハマト・ラバ)・・ハマト王国(シリヤ)の首都(Ⅱ列18:34)
ガテ(ガト)・・ペリシテの都市
アモスの時代は、ヤロブアム2世の時代であり、力があった時期。当時、北イスラエルはこれらの王国と戦い、組んで隆盛を保持していた。
「あなたがたはこれらの王国よりすぐれているのか。彼らの領土はあなたがたの領土より大きいのか。」
そんな王国と組んだところで何の役に立つというのか!
後に現れるアッシリヤの大きさ、つまり神の裁きの大きさを暗示しているともとれる。
カルネと大ハマテはBC740~738年、ガテはBC711年にアッシリヤに征服される。
3節:あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている。
北イスラエルの上層部の者たちよ!平和を獲得していると思っているだろうが、むしろ暴虐をどんどん推し進めている。(新共同訳:不法による支配を引き寄せている)
つまり、神の期待からどんどん離れている状態!
4節:象牙の寝台に横たわり 長椅子でからだを伸ばし、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている者、
5節:琴の音にのせて即興の歌を作り、ダビデに倣って自分たちの楽器を考え出す者。
6節:彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗り、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。
贅沢三昧。神にささげる子羊、子牛を自分たちが食する様子は、傲慢そのもの。
ダビデの信仰に倣わず音楽を、自分たちの楽しみとする様子は、傲慢そのもの。
儀式の鉢で酒を飲み、神への香油を自分たちの物とする様子は、傲慢そのもの。
「ヨセフ」とは、彼の子孫エフライム、マナセ部族が中心の北イスラエルを指す。
7節:それゆえ、今、彼らは最初の捕囚の民として引いて行かれる。大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。
「それゆえ、今」・・もう覆すことはできない決定事項。
「最初の捕囚の民として」‥段階的な表現。
歴史的にみると、段階的な強制移住があったとされる。初めに上層部の人間が強制移住、次に残りが強制移住されるととれる。更に、6章冒頭の「シオンの安逸を貪る者」という表現から、いずれは南ユダ王国も捕囚という神の裁きを受けることになるともとれる。
いずれにしても、神のリミッターは切れ、捕囚という裁きは免れない!
神の目には、贅沢にふるまう彼らの酒宴は、弔いの酒宴にしか見えない。
8節:神である主は、ご自分にかけて誓われる。 ―万軍の神、主のことば― 「わたしはヤコブの誇りを忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す。」
神は、イスラエルの民が誇りとする偶像礼拝とその神殿を忌み嫌う。
ゆえに、その都とすべての者を、敵(アッシリヤ)に引き渡すと決めた!
9節:たとえ、一つの家に十人が残っても、彼らもまた死ぬ。
5章3節を一回目とし、6章9節にて徹底的に捕囚されると見ることもできる。
10節:親戚の一人でこれを焼く者が、家から死体を持ち出すためにこれを取り上げ、その家の奥にいる人に向かって言う。「あなたのところには、まだいるか。」彼は言う。「だれもいない。」また言う。「口をつぐめ。主の名を口にするな。」
主の名を口にすれば、殺されるような状態にしてしまうということ。
神の助けが無くなってしまったことが分かる。
11節:まことに、見よ、主は命じられる。「大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ。」
神の裁きは、徹底的に行われる。上層部の者も、そして一般の者もすべて!
12節:馬が岩の上を走るだろうか。人がそこを牛で耕すだろうか。しかしあなたがたは、公正を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。
本来、やってはいけないことがある。馬に岩の上を走らせるようなこと。牛に岩地を耕させること。(新共同訳、新改訳第3版では、牛で海を耕すとなっている。)
いずれにしても神の民として的外れな行為である。
公正(神の律法に基づく福祉的考え方)は地に落ち、搾取の構造が出来上がり、
正義(神と人との契約関係)は無視され、的外れな行為へと進んだ。
13節:あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、こう言う。「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と。
ロ・ダバル・・空虚、つまらないもの(ガリラヤ湖の南、ヨルダン川東岸の町)
カルナイム・・2本の角、力の象徴(ガリラヤ湖の東3.5キロ、バシャンにある町)
ヤロブアム2世が領土を拡大した。
お前たちはそれを自分たちで勝ち取り、喜び、安泰と思っている。
平安な時、人は神を忘れてしまう。
クリスチャンはどんな時も、神と共にいることを忘れてはならない!
14節:「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。 ―万軍の神、主のことば― 彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」
敵対する国・・・・アッシリヤ帝国。これは神のみこころ。
レボ・ハマテ(ガリラヤ湖の北東240km)から アラバの谷(死海)まで。
Ⅱ列王14:23~27・・・・ここまで領土を回復させたのは神である。神はイスラエルの苦しみが非常に激しいのをご覧になられたから。
しかし、彼らはそれを忘れ、おのれを見失い、結果、神の怒りを買うことになる。
回復された領地は取り去られ、捕囚という厳しい裁きを受けることになる。
アモス7章
1節:神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。
二番草‥一回目の刈り取りは王が年貢として徴収した。その後の収穫が二番草で、これが民の取り分となる。ヤロブアム2世の時代にイスラエルは拡大していた。これはその後の北イスラエルの時代と考える。
いなご・・アッシリヤ帝国。
2節:そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」
3節:主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。
アモスが、「イスラエルは小さいのです」と言い、切に赦しを願うと、神は思い直された。(非常に切迫感を感じる)
アモスは敵の大きさ、ひいては神の存在の大きさを十分に認識しているから、こういう言葉が出てくる!
4節:神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。
責める火・・アッシリヤ帝国。すでに周囲にまでその火、勢力が近づいていると感じ取れる。割り当て地とは、北イスラエルの所有する領地、領土。
5節:私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」
6節:主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。
火は領地を吞み込んではいたが、焼き尽くすことは思いとどまられた。
決して、裁きが無くなるのではないことが分かる。
アモスは、生き残れないから、と言って赦しを乞い、神は思い直された。
アモスの必死な執り成しの祈りが続く。このような、モーセに倣う思い(公正:隣人愛)のある者こそが残れる者といえるのではないか!
7節:主は私に示された。見よ。主は下げ振りを手に持って、下げ振りを使って築かれた城壁の上に立っておられた。
下げ振り‥柱などが垂直かどうかを調べるための道具で、糸の端に真鍮の逆円錐形のおもりをつるしたもの。
神が下げ振りを使って築いた城壁の上に立たれる。
律法の根底にある公正と正義が歪んでいる。
8節:主は私に言われた。「アモス、何を見ているのか。」私が、「下げ振りです」と言うと、主は言われた。「見よ。わたしは下げ振りを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げる。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
アモスに、北イスラエルが裁かれる最大の理由(下げ振りによって測られた公正と正義が歪んでいる)が示され、彼に返す言葉を赦さず、裁きの決定が示される。
9節:イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に向かって立ち上がる。」
北イスラエルの領地を拡大したヤロブアム2世は、過去のイサクに倣い、高いところに聖所を築いた。(創26:23~25)それらはすべて偶像礼拝の場である。
最終的には北イスラエル王国、すなわちヤロブアム1世、2世が築き、拡大した王国は、偶像の聖所もろとも、廃墟となり滅亡する。
10節:ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「アモスは、イスラエルの家のただ中で、あなたに謀反を企てています。この国は彼のどのことばも受け入れることができません。
11節:アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」
アマツヤは「主は強い」という意味。ベテルは偶像礼拝の都市で、アマツヤはそこの祭司である。
彼は人を遣わして、ヤロブアム2世にアモスのことについて報告する。「アモスは預言者だと言ってますが、謀反人です。国家転覆を図っています!偽物です!ヤロブアムは剣で死に、北イスラエルは捕囚される、と言っています。こんな噓の預言は聞き入れられません!」
悲しいかな、ヤロブアム2世は聞く耳を持たず、何の応答もしなかった!
まともな祭司もリーダーも存在しない状態
12節:アマツヤはアモスに言った。「先見者よ。さあ、ユダの地へ逃げるがよい。そこでパンを食べ、その地で預言するがよい。
13節:ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の宮だからだ。」
アマツヤはアモスを預言者と認めていないので、彼を先見者と呼んでいる。先見者とは金儲けの占い師に似たような感覚のことばである。
「ユダに帰り、そこで預言して稼ぐがよい!ベテルは聖所なのだから預言などするな!出て行け!」と上から目線でアマツヤは馬頭する。
アモスの姿(羊飼いであり、いちじく桑の栽培者)は、このアマツヤの姿(繁栄している北イスラエルの祭司、豪華な衣装を身に着けていたと思われる)とは比べものにならない貧弱さであろう。
14節:アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者でなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
北イスラエルにはエリヤ、エリシャによる預言者集団(預言者学校)があった。
アモスは、「私はその出身ではない。預言者と言われる専門家ではない。本来の職業は羊を飼い、イチジク桑の木を栽培する兼業農家である。」と答える。
アモスは、経済的に困る者ではない。普通の生活をしていた。
15節:しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。
こんな私を主が召された。そして「わたしの民イスラエルに預言せよ」と命じられたから、今ここにいるのだ。神は、あなたがたのために私を召したのである。
16節:今、主のことばを聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな。イサクの家に向かって戯言を言うな』と言っている。
アマツヤよ、あなたは私を、嘘つきと言い、北イスラエルに預言するなと言い、あろうことか、神の命令に反せよ!と命じている。
17節:それゆえ、主はこう言われる。『あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測り縄で分割される。あなたは汚れた土地で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」
アッシリヤによって、アマツヤの妻は遊女でしか生きられなくなり、息子、娘たちは惨殺され、所有していた土地は分割されて人のものとなり、アマツヤはこの地(ベテル)で死ぬことになる。そして、イスラエルは預言のとおり、捕囚される。
アモス8章
1節:神である主は私に示された。そこには一かごの夏の果物があった。
2節:主は言われた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏の果物です」と言うと、 主 は私に言われた。「わたしの民イスラエルに終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
また、神がビジョンをアモスに示された。ビジョンの中で夏の果物にアモスの目が留まっていた。
ヘブル語では、「夏の果物」はカイツ、「終わり」はケイツ、である。これは、ヘブル語の語呂合わせである。夏の盛り(北イスラエルの隆盛)が終わるということである。
3節:その日には、神殿の歌声は悲鳴に変わる。 ―神である主のことば― 多くの屍が、いたるところに投げ捨てられる。口をつぐめ。」
神殿の歌声は悲鳴に変わり、死体がいたるところにある。
静かにせよ!いくら悲鳴を上げ叫んでも無駄だ!
4節:聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地で苦しむ者たちを消し去ろうとする者よ。
5節:あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きの秤で欺こう。
6節:弱い者を金で買い、貧しい者を履き物一足分で買おう。屑麦を売ろう。」
商売に専心し過ぎる者たちに語られる神。
あなたがたは言っている。「新月の祭りも、安息日も邪魔な存在だ! 早く終わってくれ! 何の足しにもならん!むしろ苦痛だ! その時にはエパ(エファ)升を小さくしたり、偽の重り(シェケル)の天秤ばかりで、あくどく商売したいんだ! 更に弱い者、貧しい者を安い金額で買い、奴隷としよう。屑麦も売って稼ごうじゃないか!」
7節:主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない。
8節:地はこのために震えないだろうか。地に住むすべての者は喪に服さないだろうか。地のすべてのものはナイル川のように持ち上がり、エジプトの大河のように、うねっては沈まないだろうか。
ヤコブとしっかりと契約した神が宣言する。神は民の行うすべてを詳細に、永遠に記憶しておられる。
地上は震え、人は喪に服し、氾濫するナイル川のように地は揺れ動き、浮き沈むことになろう。これは大患難時代を暗示。
9節:その日には、 ―神である主のことば― わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。
その日とは、狭義的にはアッシリヤ捕囚であり、広義的には終末の大患難時代を指す。その日は暗黒の日である。(アモス5:18)
10節:あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。
その日はまさに苦渋の日。祭りは葬式になり、歌は哀歌となる。まるでひとり子を失った葬式の時のようにあなたがたを打つ。
11節:見よ、その時代が来る。 ―神である主のことば― そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。
12節:彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。
その時代には、食物の飢饉ではなく、主のことばを聞くことの飢饉が地を襲う。神の存在がなくなる。離散させられ、神のみことばを求めても、どこにも見い出せない。
13節:その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。
北イスラエルを含め、偶像礼拝している次世代を継ぐ人々(若者)は、神を見失って死ぬ。肉体的、霊的の両面。
14節:彼らは、サマリアの罪過にかけてこう誓う。『ダンよ、あなたの神は生きている。』『べエル・シェバの道は生きている。』しかし、彼らは倒れて二度と起き上がれない。」
偶像礼拝の罪を犯す北イスラエルは、ダン(ベテルと同じ偶像)、ベエル・シェバの偶像にすがるが、彼らは倒れることになる。
ダンからベエル・シェバという表現はイスラエルの北端と南端を指す。アッシリヤ捕囚から、バビロン捕囚、そして最終的に大患難時代へと繋がる流れを思わせる。
アモス9章
1節:私は、祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た。すると、主は言われた。「柱頭と打ちたたき、敷居が震えるようにせよ。すべての者の頭を打ち砕け。彼らのうち、生き残った者をわたしは剣で殺す。彼らのうち逃げられる者はなく、彼らのうち逃れられる者もない。
ベテルの祭壇に立たれる神。北イスラエルに対する徹底した裁きを示す。柱を破壊することで頭上から打たれる。生き残った者も剣で殺し、一人も逃げおおせない。
2節:たとえ、よみに入り込んだとしても、わたしの手が、彼らをそこから引きずり出す。たとえ、天に上ったとしても、わたしが彼らをそこから引きずり降ろす。
3節:たとえ、カルメルの頂に身を隠したとしても、わたしが彼らをそこから捜し出して捕まえる。たとえ、わたしの目を避けて海の底に身を隠したとしても、わたしが蛇に命じて彼らをそこでかませる。
4節:たとえ、敵の捕虜となって行ったとしても、わたしが剣に命じてそこで彼らを殺させる。わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは、わざわいのためであって、幸いのためではない。」
仮によみに入っても、天に逃げても、そこから引きずり出し打つ。
カルメルの頂上に逃げても、海の底に逃げても、敵の捕虜になっても、神は目を注ぎ、わざわいのために殺させる。
神の御前に逃げ場はない! 神が裁かれるとき、それは徹底的である。
5節:万軍の神、主が地に触れると、それは溶け去る。そこに住むすべての者は喪に服す。地のすべてのものは、ナイル川のように持ち上がり、エジプトの大河のように沈む。
主が地に触れると、地が溶け去る・・新共同訳では「地が揺れ動き」
そこに住む者は喪に服す・・新共同訳では「嘆き悲しむ」
地はまるで氾濫する大河、ナイル川のように大変動する。
6節:天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主。
天に高殿・・神のおられる所。第3の天。
丸天井・・新共同訳では「大空」。海と陸の境を創られたお方。
7節:「イスラエルの子らよ。あなたがたは、わたしにとってクシュ人と同じではないのか。 ―主のことば― わたしは、イスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから、連れ上ったではないか。
クシュ人・・エチオピア人・・と変わらない。つまり異邦人と変わらない。
ペリシテ人・・カフトル(クレタ島:地中海の地)から移住
アラム人・・キル(メソポタミア)から移住
新共同訳の注釈によればイスラエルが約束の地に入った同時期にこれらの民族も移住していた。しかし、北イスラエルは、自分たちの移住は他国の移住と異なるものと思っていた。神は他の民族の移動、動向もすべて支配しておられる。
約束の地に導かれたにもかかわらず、神の民としての働きを一切せず、神ともかかわりを断ち、神に背を向けていることを指摘されている。
異邦人と何ら変わりがないと神の目には映る。
8節:見よ。神である主の目が、罪深い王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする。しかし、ヤコブの家を根絶やしにすることはない。 ―主のことば―期待が大きいと、それだけ裁きも大きい。
罪深い北イスラエルは根絶やしにされる。(アッシリヤ捕囚)
しかし、ここに神は逃れの道を備えられる!!ヤコブの家を根絶やしにしない!
それは、アブラハム契約を結んでいるからである。
9節:見よ。わたしは命じて、すべての国々の間で、イスラエルの家をふるいにかける。ふるっても、小石は地に落ちないようにする。
10節:わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている。
この2節はアッシリヤ捕囚、バビロン捕囚、それ以降の迫害、そして大患難時代をさしている。
小石・・罪人(不正義・・不義なる関係)は、剣で死ぬ。
北イスラエルの人たちは、自分たちにはわざわいは近づかないと思っている。
捕囚前の北イスラエル、紀元70年の直前のイスラエル、そして大患難時代のイスラエルを物語っている。
かつてエリヤの時、バアルに膝をかがめない男子7千人がいた。
そのような各時代に生きた残れる者が、かろうじて救いに与るのである。
11節:その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを立て直す。
「その日、」・・裁きの日・・大患難時代を指す。
「倒れているダビデの仮庵」の仮庵とは、掘っ立て小屋。まさに大患難時代の時の風前の灯のようなユダヤの民の状態を指している。
「昔の」という原語「オーラーム」は、永遠を表す語彙。まさにメシア的王国(千年王国)以降の未来を暗示している。
大患難時代を通して、神はダビデの仮庵を復興させる。神との関係において、ダビデの時代とは似ても似つかぬ壊滅寸前のユダヤの民を、ダビデのような信仰に満ちたユダヤの民として回復され、神と共存する御国を起こされる。(メシア的王国・・千年王国)
起こす。繕い、起こし、建て直す。・・の繰り返しが成就の保証に聞こえる
大患難時代は空前絶後の裁きだが、ユダヤの民にとっては最後の恵みの時。
12節:これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。 ―これを行う主のことば。
エドム・・ヤコブの兄エサウの子孫。
わたしの名で呼ばれるすべての国々・・キリストを信じる異邦人たち。
「彼らが所有するためだ。」・・イスラエルの優位性を提示している。これは神がイスラエルと結ばれたアブラハム契約の成就を示す。
これらのことは、すべて主が行われる。
13節:見よ、その時代が来る。 ー主のことば― そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。
「その時代」とは、メシア的王国(千年王国)。その時代が必ず来る!
年中豊かな実りに絶えない状態となる。
「甘いぶどう酒」とは上質のぶどう酒とのこと。常に良質を生み出す土地。
崩壊した地上(自然)は、神によって回復され、まるでエデンの園のような恵み豊かな土地、王国へと回復する。
14節:わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。
神は回復したその土地にイスラエルを置き、住まわせる。彼らは町を再建し、豊かな収穫、恵みを満喫する。
15節:わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。 ―あなたの神、主は言われる。」
イスラエルの民を約束の地に植える。甘いぶどう酒を生み出す実をつけるぶどうの木となるということか・・。神との良い関係が見える。
それはすべて神のなさること。
これはメシア的王国(千年王国)において成就する。それゆえ、二度とその地から離散するというようなことはない。長い流浪の旅(神との離別)は終わりを告げる。
再びイエス様がこの地に再臨されたときにすべてが成就する。
ホセア1章1節~5節
1節:ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。
ウジヤ王について
・Ⅱ歴代誌26:1~21
・ウジヤ王は、ヤロブアム2世に並ぶ有能な王。
・西方の沿岸地域を攻め、領土を拡大し、交易を増加。
・外交政策、国内政策ともに歴代最高の働きをした。
・しかし、善王とは、預言者ゼカリヤが生きていた時だけ。
・彼がいなくなるとウジヤ王は、神に不遜となり、神は彼を見放す。
・ツァラアトに罹患し、一生を終える。
ヤロブアム2世について
・Ⅱ列王記14:23~29
・※25節にヨナが登場。
・神は北イスラエルをあわれみ、ヤロブアム2世を用いて領土を回復させた。
・アラムと戦い、領地を回復。(ダマスコ、ハマテ)
・当時の領土は、南北を合わせると、ダビデ、ソロモン時代に匹敵!
・北イスラエルの経済的繁栄の絶頂期とも言える時期。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
南ユダの王については、ウジヤ王から3代の名が記されている。
北イスラエルの王の名は、ヤロブアム2世のみ。
この南ユダの4代が、共同統治していたという点と何か関りがあるのかもしれない。北のヤロブアム2世以降の王は、暗殺による継承が多く、南とは対照的である。
この預言書の開始は、ヤロブアム2世の時期である。
2節:主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」
「はじめ」(テヒッラー)とは、時間的なはじめの意味。事柄(並び)の時はレーシート。
「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。・・」の解釈について。
中川先生(クレイ)説・・姦淫の女とは娼婦を指し、姦淫の子らとは、娼婦時代の父親が分からない子供たちを指す。
吉田説・・偶像礼拝ゆえに姦淫の罪があっても平気な北イスラエル。神は姦淫しふしだらな子連れの女性をホセアに娶らせたのではないか。この国は、主に背を向けて生きている状態だった。
3節:彼は行って、ディブライムの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。
結婚した女性の名はゴメル。
ゴメルには、「失敗する」&「成し遂げる」の2つの意味がある。
父はディブライム。「干しイチジクの菓子」の意味。隠語で「肉欲・情欲」を指す。
ゴメルは、商売人で肉的な考え方(富)が優先される親の娘として失敗しつつ、終には成し遂げる運命となる女。ここでは、妻としているが、3章では買い取れ、となっている。(娼婦または奴隷となっている)
彼女はホセアの第一子の男子を産む。これは間違いなくホセアの子。
4節:主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。
5節:その日、わたしはイズレエルの平原で、イスラエルの弓を折る。」
神は第一子の名を「イズレエル」とするよう命じる。
イズレエルには、「神は散らす」と「神は種を蒔く」の二つの意味がある。
イズレエルに関する裁きについては、Ⅰ列21章とⅡ列9章~10章を参照。
イズレエルの流血には、第7代アハブ王と第10代エフー王が関係している。
エフー王朝は4代目までと主に宣告されている。すなわち、ヤロブアム2世の次のゼカリヤ王でエフー王朝は終わる。再びこの預言に気付かせた。
- エフー王朝
- エフー 841~
①エホアハズ 814~
②ヨアシュ 798~
③ヤロブアム2世 793~
④ゼカリヤ 753~6ヶ月
弓を折る・・とは、その力を奪い去るという意味。エフー王朝の終わりであるとともに、北イスラエルの終わりを示す。
ホセア1章6節~2章13節
6節:ゴメルはまた身ごもって、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さないからだ。
ゴメルは第二子の女子を産む。神は「ロ・ルハマ」と命名するよう命じる。
意味は「愛されない」。これ以上北イスラエルを愛すことはできないとされる神。
これまで様々な気付きを促して来たが、ここに極まれり!
7節:しかし、わたしはユダの家をあわれみ、彼らの神、主として、彼らを救う。ただし、弓、剣、戦い、あるいは馬、騎兵によって救うのではない。」
しかし、神は南ユダをあわれむとされた。これはⅡ列19:32~37の南ユダの王、ヒゼキヤ時代の事件を指す。
同時に、ユダ系のイエス様を呼び求めるイスラエルの民の回復をも暗示している。
8節:彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、身ごもって男の子を産んだ。
9節:主は言われた。「その子をロ・アンミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」
ゴメルは第三子、男子を産む。神は「ロ・アンミ」と命名するよう命じる。
意味は「わたしの民ではない」。
神は裁きを決定された!という意味である。ホセアの子の名を通して神は、北イスラエルに対する裁きを示している。これは、更に大患難時代の裁きについての暗示でもある。
10節:イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。
この個所をパウロはローマ書9章24節~26節で引用している。
時が過ぎて(将来は)、イスラエルの子らは海の砂のように数を増す。それには、異邦人も含まれ、共に生ける神の子らとなる。
11節:ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。
最後は、北と南のイスラエルの残れる者がキリスト信仰に目覚め、再臨のイエス様と共に、再びエルサレムに上ってくる。再臨の日は何と素晴らしい!
その時は、イスラエルを助けた異邦人(羊の異邦人)も含まれている!
2章
1節:言え。あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者」と。
再臨の時、人々は神の勝利の目撃者となり、互いに喜び合うに違いない!
そして、北や南のイスラエルの間でも、また、イスラエルと異邦人の間でも互いに言い合う。「アンミ・・わたしの民よ!」「ルハマ・・愛する者たちよ!」
これは、メシア的王国の成就、つまり、回復の預言!
2章1節は、文脈から見て、1章と繋げて解釈した方が分かりやすい
1:10~2:1は、神のイスラエルの子らへのみこころ、ご計画を示したもの。
ちなみに、新共同訳では1:9までとし、新改訳の1:10からを2章としている。
2節:「問いただせ。あなたがたの母を問いただせ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから。その顔から淫行を、その乳房の間から姦淫を取り除け。
3節:そうでなければ、わたしは彼女の衣をはぎ取って裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、荒野のようにし、砂漠の地のようにして、渇きで彼女を死なせる。
この「母」は、北イスラエル王国(上層部)であり、そこに属する民が「子ら」。
「問いただせ」、「告発せよ(新共同訳)」と、子らに命じている。これは、1:10~2:1のようになるためにも・・というニュアンスがある。気付きを与え、悔い改めを促すもの。
夫である神は淫行する者を妻として受け入れられない。淫行、姦淫を取り除け!
さもなくば、裸にし、干上がらせ、死なせる。物理的意味合いが強い。(捕囚による土地の荒廃、経済的大困窮)
4節:彼女の子らを、わたしはあわれまない。彼らは姦淫の子らだから。
必然的に、悔い改めのない北イスラエル王国の民をあわれむことはできない!
この「彼ら」とは?「ロ・ルハマ」「ロ・アンミ」・・つまり北イスラエルの民。
5節:彼らの母は姦淫を行い、彼らをはらんで恥をさらした。彼女は言ったものだ。『私の愛人たちの後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる』と。
姦淫によって「ロ・ルハマ」「ロ・アンミ」を生み、恥をさらした。北イスラエルは、民に偶像を礼拝させ、偶像礼拝の民を作り出した。神に対する冒涜、恥ずべき行為である。
神に信頼せず、神の民として存在することを忘れ、偶像礼拝に勤しんで、大国の属国となって行く。大国が経済的に自分たちの衣食のすべて(繁栄)を満たしてくれるから。しかし、富が優先し、搾取が横行し、結局弱い者が苦しむことになる。
6節:それゆえ、わたしは茨で彼女の道に垣根を巡らし、彼女が通い路を見つけないように石垣を積む。
茨、そして垣根とは外交の断絶、失敗であり、最終的にはアッシリヤ捕囚となる。
偶像を拝みに行くときに道に茨が茂っていれば、行きつくことができない。同様に、大国や諸国との外交に立ち行かなくなり、結局、八方ふさがりとなる。(裸・・力のない実態)
神は捕囚の前まで、徹底的に気付きを促した。苦しい時には、領土も広げたが、そのような方法では効果がないほどに頑なな北イスラエルに対して、最後は捕囚という茨、垣根、石垣を巡らされたのである。
7節:彼女は愛人たちの後を追っても、追いつけない。彼らを捜し求めても、見つけられない。彼女は言う。『私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから』と。
そして北イスラエルは、やはり神のもとが良かったと悔い改め、立ち帰るのである。
実際、アッシリヤ捕囚、バビロン捕囚の後、再建後のイスラエルの民は、それ以降、偶像との関係は一切なくなる。
8節:しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。
彼女(北イスラエル)が得た穀物、ぶどう酒、油、銀や金。それらはすべて神が与えたもの。悲しいかな、北イスラエルはその金銀をバアルに造り上げていた。
よりによって、神からのものを偶像に捧げていたことになる。
クリスチャンであっても、成功したときは自分の力で勝ち取った、やり遂げたと思ってしまう。しかし、背後ですべて神が備えてくださっていることを見過ごしてはいけない。
9節:それゆえ、わたしはその時になれば、わたしの穀物を取り返す。その時期になれば、わたしの新しいぶどう酒を。また、彼女の裸をおおっているわたしの羊毛と麻をはぎ取る。
10節:今、わたしは彼女の恥を、愛人たちの目の前で暴く。彼女をわたしの手から救い出せる者はいない。
11節:わたしは彼女のすべての喜びを、祭り、新月祭、安息日、すべての例祭を終わらせる。
【北イスラエルの当時の状況】
・神の民でありながらバアル礼拝が盛ん。
・神の祭り、安息日、例祭などは偶像を拝むための口実に利用。
・当時の姦淫の罪の裁きは、裸にして晒すこと。(守られていたかは不明)
「その時」とは、アッシリヤ捕囚の時。穀物、新しいぶどう酒を与えず、衣服(羊毛、麻)をはぎ取る。姦淫の罪の裁きである。神による北イスラエルへの経済的制裁。
神の民として助けることはない。諸国の前でみぐるみが剝がれてゆく。
神が見放したこの窮状からは、誰も救い出せる者はいない。
祭り、安息日などもすべて中止。取り上げられ、祝うことができなくなる。
12節:『これは、愛人たちが払ってくれた私への報酬』と彼女が言った、あのぶどうの木といちじくの木を荒れすたらせる。わたしはこれを林に変えて、野の獣が貪り食うようにする。
愛人たち、つまり偶像の諸国から受けていたと思われる経済的豊かさは、すべて神の備えられたもの。神は、そのすべてを取り去るとされた。
ぶどうの木、イチジクの木は経済的繁栄を意味する。野の獣、すなわち異邦諸国がその繁栄を貪り食うさまが浮かぶ。
13節:彼女がバアルの神々に仕えた日々のゆえに、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルの神々に香をたき、耳輪や飾りを付けて愛人たちの後について行き、このわたしを忘れた。―主のことば。
その原因はバアル礼拝・・偶像礼拝に対する裁きである。
イスラエルは富、偶像に心を奪われ、神を忘れた。
ホセア2章14節~3章5節
14節:それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。
「誘い」の原語には、納得させての意味が含まれ、「語ろう」には、心に届くまでというニュアンスが含まれている。「納得させて誘い、得心できるほどに語った」。
「荒野」・・中川先生曰く、荒野とは神と出会う場所!神以外、頼るものがない!
この荒野は、イスラエルが偶像と一切かかわりが無くなるところ。それは、黙12:6,14にある女と荒野の意味。
」
15節:わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。
荒野であった所がブドウ畑、つまり豊かになる。それは、夫の愛に赦され再婚するが如き民の悔い改め、立ち返りを意味する!
アコル・・語源「アーハル」はわざわいをもたらすの意味がある
アコルの谷・・かつて問題あり・・エリコを賛美で滅ぼしたその直後に、問題発生。
ヨシュア 7:1~5,19~26
聖絶を守らない当時の人々。そして大患難時代の時はイエスをメシアとして受け入れない人々。しかし、悔い改めることで、絶望が希望へと変わる!大患難時代の時がアコルの谷であり、ここで一気に絶望が希望になる!キリストに来てくださいと言って悔いて立ち返るイスラエルの民
「若い頃のように」・・エジプトを出たときは、神に全幅の信頼を寄せていた
16節:その日になると ―主のことば― あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう『私のバアル』とは呼ばない。
「その日」とは、大患難時代の最終局面。その時はもう、イスラエルは立派な神の妻。
クレイから、「私の夫」「私のバアル」とは、どちらも「夫」という意味。この場合は夫というより「バアルのような偽物の夫、つまりは愛人」を示すと考えられる。
17節:わたしがもろもろのバアルの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。
「もろもろのバアルの名」とは、偶像や律法主義などの神以外、または神を無視することを指し、その一切がイスラエルの民から取り除かれる。
18節:その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地面を這うものと契約を結ぶ。わたしは弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。
人以外の生き物との契約・・まるでエデンの園の回復!
戦争のない、神の統治による平和、王国の開始!人々は真の平安を得る。
19節:わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。
ここに和解が成立し、神の期待である次の4つの実現を約束される。
20節:真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る。
神の真実がここに実現する(アブラハム契約の成就)。メシア的王国の人々は神を目撃し、神の真実を体験する時となる!!
21節:その日、わたしは応えて言う。 ―主のことば― わたしは天に応え、天は地に応え、
22節:地は、穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。
メシア的王国(千年王国)における神の御業の発動。
天地が変わる、つまり地殻変動などの影響が静まり、豊な土地となる。
その地が穀物、ぶどう酒、油を豊かに生み出す。経済が潤沢に回る。
「イズレエル」とは、蒔かれた種が発育して、開花し、実を結んで生産物を生み出す。
こうして、第一子イズレエル、つまりイスラエルの民と結んだアブラハム契約が成就。
イズレエルは「散らす者」と「種まく者」の意味を持つが、この王国で成就する!
23節:わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたはわたしの民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える。」
更に「ロ・ルハマ」という第二子を、「ルハマ」と言って愛し、第三子の「ロ・アンミ」を「アンミ」、「わたしの民」と呼ぶ。(パウロはこれを「異邦人」とした:ロマ9:26)
すべての者が、メシア的王国(千年王国)で、「あなたは私の神」と応える。
3章
1節:主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
神が偶像礼拝に走るイスラエルの民を愛しているように、あなた(ホセア)も、夫に愛されていながら姦通しているゴメルを愛しなさい。
干しぶどうの菓子は、偶像に捧げられていた。
神にとっての偶像礼拝は、姦淫の妻を持つ夫と同様の思いだということを知ろう!
2節:それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、
ホセアはすぐに実行に移す。この時点でゴメルは奴隷、または娼婦(神殿)の類となり、身を持ち崩していることが分かる。故に、金銭で買い取られなければならない。
銀15シェケル+大麦1ホメル+大麦1レテク(1/2ホメル)=銀30シェケル分
銀30シェケルは、出エジプト21:32では死んだ奴隷の値段と同じ。大麦は小麦より価値が低い。かなり落ちぶれたゴメルを想像する。ホセアだけがゴメルに目を留めた。
私たちも神に選ばれ、そしてイエス様に買い取られた者
3節:彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
ホセアのことば・・「長く、私のところにとどまりなさい!」・・長く、とは?
「長く」の意味は4節以降に示されている!
もう、姦淫、密通をしてはいけない。・・・・偶像に走らない状態を維持せよ。
バビロン捕囚以降、イスラエルの民は目に見える偶像には走らない!
4節:これは、イスラエルの子らが、これから長く、王もなく、首長もなく、いけにえも石の柱もないところに、エポデもテラフィムもないところにとどまるからだ。
イスラエルの民は、偶像からは離れるが、王も首長もなく、いけにえも捧げられず祭壇も神殿もない状態になる。この時期が長く続くことになる。(メシア拒否で明確化)AD70年以降、目に映らない律法主義に心奪われ、神と言いつつ、神と離れる民。
5節:その後で、イスラエルの子らは帰って来て、自分たちの神である主と、自分たちの王ダビデを尋ね求める。そして終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく。
しかし、民は神に立ち返る。主なる神を求め、そして主が再臨される。
「その日」が終わり、主がダビデの王国以上のメシア的王国を実現する。
ハレルヤ!
ホセア4章1節~14節
1節:イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。
主は、この約束の地を特別に思っておられる。この地において、神の民は、神の真実、神への誠実をもって神を示すことを期待しておられた。しかし、この地にはかけらも無い。
2節:呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。
存在するものはその逆ばかり。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦通、流血が止むことがない。これらは律法、特に十戒に違反するものである。
3節:それゆえ、この地は喪に服し、そこに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに衰え果て、海の魚さえも一掃される。
地が喪に服す・・実り(ぶどう酒、油など)が無くなる。
人も、そして獣も鳥も、魚も姿を消す。将来の大患難時代を思わせる。
4節:「だれも口論してはならない。だれも人を責めてはならない。あなたの民は、祭司と口論する者のようだ。
北イスラエルの民は、神の民であることを忘れ、口論し、言い争いをしている。それは神を無視し、蔑ろにする姿勢。まるで、祭司と口論している者に等しい。
本来の祭司は神の教えを忠実に守り、示し、教える立場であり、口論する相手ではない。しかし、北イスラエルの祭司は一般から募った者たちであり、神が定めた祭司ではなかった。神の秩序は存在していなかった。
5節:あなたは昼つまずき、預言者も、あなたとともに夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。
「あなた」とは、祭司を指す。祭司は、日々の生活のすべてが神の道から外れている。
故に、神は母(ゴメルを暗示)、すなわち北イスラエルを裁く。
北イスラエルの落ちぶれ方は、相当なもので、ゴメルの落ちぶれ方と同期することを想起させる。
6節:わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。
偶像礼拝に導かれた民は、神を恐れることを忘れたので裁かれる。その原因は北イスラエルの祭司、上層部。神から遠ざかったので、神はあなたを「仕える者」としない。
7節:彼らは増えるにしたがって、ますますわたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。
「彼ら」とは、祭司、上層部の者たちを指す。そんな彼らが増えるのは、一般人から募っていたからか? いずれにしても彼らは不正を犯し、繁栄した。あのアマツヤがそうである。主はそんな祭司たちを裁かれる。繁栄から一気に恥へ。
「罪」・・原語「ハーター」とは、「的を外す」を意味する。ヤロブアム1世が導いた的外れな信仰の道。(Ⅰ列12:26~28)導かれて迷子になった民も裁かれる対象となる。
「増える」・・原語「ラーヴァヴ」とは、「増える、増やす、得する」などの繁栄用語。間違った教えに導かれ、更に繁栄、富に溺れる姿が浮かぶ。現在の繁栄の神学と同じ。
8節:彼らは、わたしの民の罪のきよめのささげ物を貪り食い、民の咎に望みをかけている。
その繁栄は賄賂や捧げものからの搾取など。民の悔い改めの捧げものに期待している。
民も咎を犯して「捧げものをすりゃあ、いいんだろ!」というような態度になっていた。
9節:民も祭司も同じようになる。わたしはその生き方のゆえに彼らを罰し、その行いのゆえに彼らに報復する。
祭司、民のいずれも裁く。彼らが歩んだ神の期待に応えぬ生き方の故に、その行いの報いを受けねばならない。
10節:彼らは食べても満たされず、姦淫しても増えることはない。彼らが主を捨てて、姦淫を続けるっからだ。
バアル(豊穣の神)を礼拝する者は、食べても満足せず、また、姦淫(神殿娼婦との交わり)をしても子孫が増えることにならない。それは、神がそれを止められたから。
11節:ぶどう酒、新しいぶどう酒は良識を失わせる。
「良識を失わせる」は、新共同訳では「心を奪う」。まるでぶどう酒に酔うような振る舞い。これは、偶像礼拝の作法と関連がありそうな言葉である。(神の教えを無視)
12節:わたしの民は木に伺いを立て、棒が彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分の神のもとを離れて、姦淫したからだ。
木や棒に応答を求める。アシェラ像は木製。(申16:21、士6:25~26より)
姦淫の霊(悪魔)が肉体的な誘いで惑わし、祭司たちを神から引き離し、偶像礼拝へと仕向けた。
13節:彼らは山々の頂でいけにえを献げ、丘の上で犠牲を供える。樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で。その木陰が心地よいからだ。それで、あなたがたの娘は淫行をし、あなたがたの嫁は姦通をする。
カナンの土着神の礼拝場所は、高い丘の青々と茂る木の下(Ⅰ列14:23)。それは場所が心地良いところ(エレミヤ2:20)。(耳障りの良い言葉に魅了される状態)
五感をくすぐる肉体的な誘惑。この世の流れ(富)に身をゆだね、心奪われる。
その誘いに惑わされ、祭司(上層部)の娘たちも、嫁たちも、淫行する。これは、偶像礼拝であるとともに、淫らな男女の交際を示しているとも考えられる。
14節:わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても、あなたがたの嫁が姦通をしても、罰しない。男たちは遊女とともに離れ去り、神殿娼婦とともにいけにえを献げている。悟ることのない民は滅びに落ちる。
北イスラエルの情勢は、女性は浮気、男性は遊女・神殿娼婦との交わりで、神が罰しなくても、地獄に落ちて行く。
ホセア4章15節~5章15節
15節:イスラエルよ。あなたが淫行をしても、ユダを咎ある者にさせてはならない。ギルガルに行ってはならない。べテ・アベンに上ってはならない。『主は生きておられる』と誓ってはならない。
「淫行しても、」・・新共同訳「遊女であっても」
北イスラエルはその淫行をもって南ユダを誘惑してはならない!と言われている。
ギルガル、ベテ・アベン(悪の家)は、偶像礼拝の地。かつて、ここベテル(神の家)には預言者の学校(預言者集団)があったが、それが偶像礼拝の地に変わってしまった。
彼らはその場所で「主は生きておられる」と言って、安易に誓いを立てていた。(安易に誓ってはならない!)
神は、「こんな偶像礼拝を南ユダにさせてはならない!導いてはならない!」と戒めている。しかし、これはそうなるということの暗示。北イスラエルがアッシリヤに捕囚後、この預言が南ユダの戒めとなれば良いのだが、残念なことになる。(南ではイザヤが働いている)
16節:まことに、頑なな雌牛のようにイスラエルは頑迷だ。今、主は彼らを広いところにいる子羊のように養うだろうか。
北イスラエルは頑なな雌牛・・頑固者で不従順な態度。
主は、そんな者たちを、広い野原で従順な子羊のように養うことはなされない。
17節:エフライムは偶像にくみしている。そのなすに任せるがよい。
エフライム、すなわち北イスラエルは、わたし(主)の言うことは聞かず偶像の言うことに魅了されて従っている。もう、神の愛を注ぐことはしない。
18節:彼らは酒を飲んでは、淫行にふけり、淫らなふるまいで恥を愛してやまない。
神の目から見る偶像礼拝は、まさに酒池肉林の恥の世界。しかし北イスラエルの民はこの恥ずべき振る舞いを好んでいる。
19節:風はその翼で彼らを巻き込む。彼らは自分たちのいけにえのゆえに恥を見る。」
「風」・・新共同訳「欲望の霊」
これは神ではなく、神に反する悪霊を意味すると考えられる。その悪霊の翼が巻き起こす風に巻き込まれる北イスラエル。その風とは、アッシリヤによる捕囚であり、将来の大患難時代と考えられる。
彼らが捧げるいけにえはすべて悪霊に捧げられているのであり、それはすべて罪となって自分たちの上に降りかかってくる。
恥を見るということは、これまでにない厳しい狼狽と痛みを伴うものである。
5章
1節:「祭司たちよ、これを聞け。イスラエルの家よ、心せよ。王の家よ、耳を傾けよ。あなたがたにさばきが下る。あなたがたはミツパで罠となり、タボルの上に張られた網となったからだ。
先ず、裁きは、祭司、上層部、そして王家に下される。
ミツパは2か所存在。この場合は、ヨルダン川東にあるミツパ。
2節:曲がった者たちは殺戮を極めた。しかし、わたしは彼らすべてを懲らしめる。
新共同訳では、「曲がった者たちは殺戮を極めた」を「シッテムでは深く掘った穴となった」と訳している。
シッテムは地名で、偶像礼拝の地域。民を偶像礼拝に引き込む罠、網、落とし穴である。
祭司たちは、そのためには殺戮(人身御供?)まで極めたと考えられる。そんな導きをした祭司をはじめとする、姦淫の罪を犯した彼らを神は裁かれる。
3節:わたしはエフライムをよく知っている。イスラエルはわたしに隠されていない。今や、エフライムよ、あなたは姦淫をし、イスラエルは汚れてしまった。
「良く知っている」・・とは、夫婦関係のごとく相手を知っているということ。かつて結婚の契約を結んだのに、イスラエルは偶像を向いている。
4節:彼らは、自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあり、彼らが主を知らないからだ。
5節:イスラエルの高慢はその顔に表れている。イスラエルとエフライムは、自分の不義につまずき、ユダも彼らとともにつまずく。
偶像礼拝を止めないのは、姦淫の霊(悪霊)に支配されているからであり、それは神を無視する態度。知らないとは、かつての婚姻関係を忘れてということ。
偶像礼拝は高慢な態度を意味する。神を無視すると傲慢になり、自分の都合の良いようにすることで自らが神になってしまう。偶像を拝みつつ、大罪を犯している。
北イスラエルは裁かれるが、警告したユダも傲慢になり、同様に偶像礼拝の罪を犯し、イスラエルの民全体が裁かれることとなる。
6節:彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主が彼らから離れ去ったのだ。
羊や牛の大量の捧げもの、つまり律法に基づき神に帰っても、主に求めても見つかりはしない。なぜなら、救いの原則は進展し、結果、神が離れ去ったように思われるからだ。
漸進的啓示(メシアの初臨)が暗示されている。
7節:彼らは主を裏切り、他国人の子を生んだ。今や、新月の祭りが彼らとその地所を食い尽くす。
イスラエルは主から離れ、まるで他国人のようになって歴史を刻む。その結果、新月の祭りが、裏切った他国人のようなイスラエルの民と約束の地を食い尽くすことになる。
新月の祭りは、バアル礼拝を指す。70人訳では新月が「いなご」と訳され、
それはアッシリヤを意味する。それ故「食い尽くす」となっている。
8節:ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。べテ・アベンでときの声をあげよ。ベニヤミンよ、うしろを警戒せよ。
これは、かつて士師記の時代に起こったベニヤミン族の聖絶の歴史に関係している。
(士師記19章~20章)
イスラエル民族の悲劇、同族内の裁き、殺戮があり、ベニヤミン族は本当に少ない民族
(600人)となってしまった。そのかつての事件を思い起こせ!と知らせている。
9節:エフライムは懲らしめの日に、恐怖のもととなる。わたしはイスラエルの諸部族に、確かに起こることを知らせる。
10節:ユダの首長たちは、地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。
11節:エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。彼が自ら進んで人の決め事に従って歩んだからだ。
エフライム、すなわち北イスラエルに、事前に教えていた通りの裁きが下る。
ユダは、地境を移すという律法違反を犯し、自分勝手な方向へと進む。それ故、ユダをも神は裁かれる。(バビロン捕囚を指す)
エフライムが虐げられるのは、ユダと同じように、神に従うのではなく人の決め事に従ったためである。
シリヤ・エフライム戦争 紀元前735年~紀元前731年
北イスラエルはシリアと組んで、アッシリヤと組むユダを攻めようとしたが失敗し、むしろアッシリヤに壊滅的に攻められ、最終的には捕囚の身となる(BC722年)。
しかしながら、ユダ王国もこのアッシリヤの強さの前に、属国のようになってしまう。
兄弟(同族で)喧嘩し、どちらも大けがをするようなもの。
12節:わたしはエフライムにはシミのようになり、ユダの家には腐れのようになる。
「エフライムのシミ、ユダの腐れ」・・どちらに対しても、神の民として相応しくない状態。
将来イスラエルが歩む、心の偶像礼拝を経て、契約(大患難時代のきっかけとなる反キリストとの契約)に頼る民を指している。
13節:エフライムは自分の病を見た。ユダは自分の腫れものを。エフライムはアッシリアに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたを癒すことができず、あなたがたの腫れものも治せない。
14節:わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。
イスラエルの民は、人の決め事に従って歩み、反キリストに信頼しようとするが、それは解決には結びつかず、むしろ最悪の状態となる。
なぜなら、それは神がなされる獅子のような裁きであり、誰も救い出すことはできないこのあたりの神のことばは、直前に迫るアッシリヤ捕囚、バビロン捕囚という裁きよりは、むしろ最終的な大患難時代の裁きを示していることが伺える。
15節:わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを探し求める。」
自分のところ・・今、神がおられる所であり、キリストが昇天しておられる状態を示す。
大患難時代において、厳しい裁きを経て、残れる者が主を呼び求めるときを待とう!
新共同訳では、「彼らが罪を認めて、」となっている。
ホセア6章1節~11節
1節:さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。
私たち・・イスラエルの民全体
私たちを引き裂き・・南北のイスラエルの捕囚、そして神との断絶。
私たちを打つ・・当時の近未来ではアッシリヤ、バビロン捕囚、そして将来の大患難時代。しかし、主は「癒し、包んでくださる!」
ホセアは民に呼び掛けている。それは、各捕囚を経て、様々な痛みを経て、最後の大患難時代を何とかくぐりぬけて神に帰れ!と励ましているようだ。
2節:主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。
「二日の後に私たちを生き返らせ、」・・2日間で罪に気付き、神の愛に気付き、
「三日目に立ち上がらせてくださる。」・・3日目にイエス様に来てくださいと求め、
イエス様の再臨があり、民族的救いが実現する。
「私たちは御前に生きる」・・メシア的王国(千年王国)に住む。
3節:私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。
「知ろう」・・婚姻関係の回復、契約の成就。イスラエルの回復。
「主を知ることを切に追い求めよう。」・・神の期待に応える姿。私たち神の子としてのあるべき姿。
大患難時代は未曽有の苦しみ、暗闇。神はイスラエルの回心を待ち望み、その時、その暗闇を打ち破る暁の光となって、燦然と出現される。シャカイナグローリー!
後の雨が乾いた土地を潤し、豊かな実りをもたらすように、主の現れは、雨が大地にしみこみ土地を豊かに回復され、神を信じる者は祝福と恵みに与る。それはメシア的王国。
自然を用いて表現されていることから、大患難時代で破壊された自然が、あっと言う間に回復する様を想像させる。
4節:「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。
様々な方法であなたに気付きを促したが、ほかに何をしようか?
あなたの真実を知った!それは本当にもろく、朝もや、朝露のごとくたわいがない。
5節:それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。
預言者を通して不義を明確にし、瞬く間に(光のように)裁きを下し、あなたがたを殺す。
6節:わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。
神の期待は真実の愛・・それは神との深い関係を築くために、神を知ろうとすること。
決していけにえや捧げものが最優先ではない。
「知る」とは、創4:1、出3:7、詩編31:7に同じ。
夫婦の親密な交わりの如き、愛情、あわれみ的理解の意味
7節:ところが、彼らはアダムのように契約を破り、そこでわたしを裏切った。
どうしてアダムのように罪(エデン契約の違反)を、繰り返すのか! イスラエルの民はシナイ(モーセ)契約を破り、主を裏切った。
8節:ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。
ギルアデ(岩だらけの)・・血の足跡・・偶像礼拝の地であり、人身御供の習慣についての意味であろう。
新共同訳:「流血の罪を犯した者の足跡」
9節:盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは徒党を組み、シェケムへの道で人を殺す。彼らは実に淫らなことを行う。
シェケム(尾根、強肩)・・北イスラエルの主要都市。逃れの町があり、祭司の町であったが、祭司はこの地で徒党を組んで人を殺し、また、淫らなことをしていた。
シェケムと聞くと、シェケムでの創34:1~35:5割礼悪用、士9:45~49アビメレクの大虐殺が思い浮かぶ。そうした神の期待違反がこの町を偶像礼拝化したということか!
偽祭司が偶像礼拝化している状態。(逃れの町は機能していない→世に同化)
10節:イスラエルの家にわたしはおぞましいことを見た。エフライムはそこで姦淫をし、イスラエルは汚れてしまった。
北イスラエル全体が、神の目にはおぞましい光景に映る。→公正はどこへ?
北イスラエルの祭司、上層部は偶像礼拝へと国民を導き、自らも偶像礼拝し、北イスラエルを汚れた民としてしまった。
11節:ユダよ、あなたにも刈り入れが定まっている。わたしが、わたしの民を元どおりにするときに。」
神の民と言えば、南ユダ王国もだが、残念ながらそのユダにも裁きは下される。
なぜなら・・わたしがイスラエルを癒すとき・・内容は7章1節に続く
ホセア7章1節~16節
1節:「わたしがイスラエルを癒やすとき、エフライムの咎、サマリアの悪はあらわになる。彼らが偽りを行い、盗人が押し入り、外では略奪隊が襲うからだ。
2節:しかし、彼らは考えもしない。わたしが彼らのすべての悪を覚えていることを。今、彼らの悪行は彼らを取り囲んで、わたしの面前にある。
まるで病のイスラエルを癒そうとするとき、見えてくるのは偽の祭司の罪である。
偽祭司による偶像礼拝の結果、偽り、盗み、そして略奪が起こり、奪われて襲われてしまうイスラエルが見えてくる。(この盗人、略奪隊は大国と思われる)
そんな状態になっても、祭司たちは神に返らない。(大国に頼る選択をする)
神は悪事に取り囲まれたイスラエルをしっかりと見ている。(偽祭司の影響が大きい
)
3節:彼らは悪事によって王を、偽りによって首長たちを喜ばせる。
「彼ら」とは、偽祭司たち。彼らは、王や首長の気に入る偶像礼拝で彼らを喜ばせ、自分を保身する。(祭司本来の価値は失せている)
ー北イスラエルの祭司事情ー
Ⅱ歴代誌11:4~17
4節:レハブアムがヤロブアムに戦いを仕掛けるが、神に止められ中止する。
5~12節:レハブアムはユダの町を固め備蓄。ユダ、ベニヤミンがレハブアムについた。
13~15節:イスラエルの祭司、レビ人は自分たちの牧草地、所有地を捨ててユダとエルサレムに来た。ヤロブアムが彼らの職を解き、一般の祭司に、偶像礼拝させたからである。
16~17節:イスラエルの全部族からも、信仰心の熱い者たちが主にいけにえを捧げに 3年間、エルサレムに来た。彼らはダビデ・ソロモンの道を歩み、そのことが、ユダの王権を強固にした。この現象が、ヤロブアム1世にとっては脅威となる。
ホセア書で神が指摘する祭司は、偽祭司である。
神のことばに信頼しない北イスラエルの歴史が始まった。
4節:彼らはみな姦通する者。パンを焼くときの燃えるかまどのようだ。生地がこねられてから、ふくらむまでは、燃え立つことをやめている。
パン焼きかまどが偽祭司、そしてパンが上層部の人間たちと考えられる。低温でじっくり発酵させるように、上層部を、偶像礼拝により悪だくみへと導く偽祭司。
パン生地が一晩かけて膨らんだパンを一気に焼き上げるように、上層部の気持ちを熟成させ、機が熟したら、一気に悪事を実行するように仕向けて行く偽祭司の行動の表現。
5節:われわれの王の日に、首長たちは酒の熱で気分が悪くなり、王は嘲る者たちと手を握る。
そして、例えば王の祝いの日には、首長は偶像礼拝の曲がった教えにより酒を浴びて酩酊し、王は神を恐れぬ者(他国)と組み、政治・外交する。
6節:彼らは心をかまどのようにして、陰謀を企てる。夜通し、パンを焼く者は眠るが、朝になると、かまどは燃え立つ火のように燃えるのだ。
北イスラエルの歴史は、悪事を企て、一気に実行し、王位を奪う歴史である。
「かれら」とは、偽祭司と考えられる。王や首長は偽祭司に振り回される者たち。
7節:彼らはみな、かまどのように熱くなって、自分をさばく者たちを食い尽くす。自分の王たちもみな倒れる。彼らのうちだれ一人、わたしを呼び求める者はいない。
それ故、自分を支配する者(王)を殺してしまう。こうして王が次々と立っては倒れることになる。偽祭司たちも、王たちも、神を求めることなどない!
8節:エフライムは、もろもろの民の中に混じり込む。エフライムは、片面しか焼けていないパンだ。
もろもろの民・・異邦の諸国(特にアッシリア)と交わる。中途半端に焼けたパンとは、神の民でありながら他国に依存している様子。
歴史的にみると、16代メナヘム王(BC.752~742)は、アッシリヤに同盟を求め、莫大な朝貢により凋落していった。そのため、18代ペカ王(BC.740~732)はアッシリヤとの同盟を止め、アラム、エジプトと組むもアッシリヤに攻められ、更に凋落して行く。
(Ⅱ列15:27~29)
注:「ペカが・・・王となり、二十年間王位にあった。」について。
新共同訳によれば、シャルムが王になる前に、ギルアドで別の権威を打ち立て、王位についていた。二重王の支配があったとされる。
9節:他国人が彼の力を食い尽くしても、彼はそれに気づかない。白髪が生えても、彼はそれに気づかない。
こうした諸国と交われば交わるほど国力は衰えるが、上層部はひたすら突き進む。
国民、国力の凋落も気にしないのだから、神の律法違反になど気付くはずもない。
10節:イスラエルの高慢はその顔に表れている。彼らは、自分たちの神、主に立ち返らず、このすべてがあっても、主を尋ね求めない。
このような状態を高慢と言わずして、何と言おうか?!
北イスラエルが愚行に気付き、悔い改めてほしいのだが、この民は主に返ることがない。神を無視するという究極の愚行に突き進む。
11節:エフライムは愚かな鳩のようで、良識がない。エジプトを呼び求め、アッシリアに飛んで行く。
賢い鳩は元の場所に戻るが(帰巣本能)、愚かな鳩は戻って来ずにさすらう。
北イスラエルの上層部はエジプト、アッシリヤを行ったり来たりで、神のもとへは戻らない!(Ⅱ列17:1~3)
12節:彼らが赴くとき、わたしは彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き降ろす。彼らの群れの音を聞くとき、わたしは彼らを懲らしめる。
そんな愚鳩のような彼ら(北イスラエル)を、神は明確に裁かれる。
「群れの音を」とは、神の北イスラエルへの裁き・・アッシリヤ捕囚を指す。
13節:わざわいだ、彼らは。わたしから離れ去ったのだから。彼らは、踏みにじられるがよい。わたしに背いたのだから。わたしが贖い出そうとしているのに、彼らはわたしに向かってまやかしを言う。
「わざわいだ」・・もう救いようがない、どうしようもないという嘆き。神から離れてしまった以上、異邦人と同様、踏みにじられ滅びへと進む道しか残されていない。
神は、様々な手を用いて気付きを促したのに、そっぽを向き、偽りで応じてくる北イスラエル。
14節:心からわたしに向かって叫ばずに、自分たちの床の上で泣きわめいている。穀物と新しいぶどう酒のためには群がって来る。しかし、わたしからは離れて行く。
心は偶像に向かい、事があると神に向かわず寝台の上で泣きわめく。そんな彼らは富に積極的に群がるが、神には一切向かわず、むしろ離れて行く。
15節:わたしが訓戒し、彼らの腕を強くしたのに、このわたしに対して悪事を企む。
神は律法を与え、神の民として目標を与え、成長へと導いたにもかかわらず・・。
律法に従い、公正と正義を守り、戦いにおいては、神に信頼することで勝利することを学び、神の民として成長して行くはずだったが・・。
16節:彼らはいと高き方に立ち返らない。彼らは欺きの弓のようだ。彼らの首長たちは、ののしったために剣に倒れる。これはエジプトの地で、嘲りのもととなる。」
神に立ち返らない民は、狙っても外れる弓だとしている。(弓を正しく的に向けることのできない神の民。正しさが失せている。)そんな弓矢は、的外れ、つまり、罪が益々深くなる。
19代ホセア王(BC.732~722)は、アッシリヤに朝貢するも、エジプトに使者を遣わし、エジプトと組んでアッシリヤへの反撃を企てたが、アッシリヤ王に気付かれ、投獄される事となる。Ⅱ列17:1~8
思い起こせば、エジプトから神の力により、奇跡の大脱出を行った神の民が、今は見る影もない、その辺の民となっている。だから、エジプトの物笑いの種となる。
ホセア8章1節~14節
1節:「あなたの口に角笛を当てよ。鷲のようなものが、主の宮の上にいる。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえに背いたからだ。
「口に角笛を当てよ」・・戦が起こるから覚悟せよ!これから裁きが始まる!
「この鷲のようなもの」とはアッシリヤ(偽物の権威)。
それは、イスラエルが神の契約、神の教えを破ったから!神の民を完全に放棄したから。
2節:彼らはわたしに向かって叫ぶ。『わが神よ、私たちイスラエルは、あなたを知っています』と。
3節:イスラエルは善を退けた。敵は彼らに追い迫る。
彼らは「神を知っている」と言って助けを求めるが、神が示す善(「公正」と「義」)を捨てた。それは、神の民を捨て、神のご加護を捨てたということ。
それ故、敵、つまりアッシリヤ(善の反対の「悪」をも指している)が攻めてくる。
「善」とは、神を示すとともに、その契約条項や教えをも示す。
4節:彼らは王を立てたが、わたしによってではない。首長を立てたが、わたしは知らない。彼らは自分の銀や金で自分のために偶像を造った。ただ断ち切られるために。
王や首長の擁立は神の御心によらず自分勝手。
金銀(富)は神が与えたものであることを忘れ、それらを偶像の製造に用いる。
自分に好都合な偶像が、自分たちを滅ぼす原因になるとも知らずに。
5節:サマリアよ、あなたの子牛は退けられる。わたしは彼らに向かって怒りを燃やす。いつになれば、彼らは罪のない者となれるのか。
実際、サマリヤは3年間アッシリヤの包囲に耐えるが滅ぼされ、金の子牛は剥奪される。(偶像には何の力も無い)残念ながら、こんな民にはもう、罪から逃れる術はない!
6節:それはイスラエルから出たもの。それは職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は粉々に砕かれる。
7節:彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ないので、麦粉を作れない。作れたとしても、他国人がこれを食い尽くす。
金の子牛は粉々に砕かれ、金の塊になってしまう。
自分たちで神を造り、偶像礼拝することは、無意味なことだと気づいてほしい。
風を蒔いたら、それがつむじ風となって返って来る…空しいことをしている
麦は出来ても穂が出ず、実を結ばない。だから、麦粉が出来ない。わずかに麦粉が出来ても少量ゆえに、他国人に貢がされ、自分たちの口には入らない。
いろいろと政策を練っても結果が出ないのは、偶像に頼った結果である。
8節:イスラエルは吞み込まれた。今や、彼らは国々の間にあって、だれにも喜ばれない器のようになった。
イスラエルも世の中の流れに呑み込まれた。(神が一番心配していたこと)
神の民(主の宝の民)となるはずが、他国と同じその辺の民となってしまった。
9節:彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリアへ上って行った。エフライムは愛を求めて贈り物をした。
10節:彼らが諸国の民に物を贈っても、今、わたしはそれらを集める。彼らは、王や首長への貢ぎによって間もなく汚されることになる。
一人ぼっちの野ろば・・・群れから離れて自分勝手に動く野ロバ。
帰属する群れをアッシリヤとし、朝貢して機嫌をうかがうが、神はそれを何の効果もないものにする。(厳しい朝貢、移民が押し付けられる)
北イスラエルは、上層部の愚かな朝貢政策により、更にボロボロにされる。
11節:エフライムは祭壇を増やして罪を犯すようになった。それらは彼にとって罪を犯すための祭壇となった。
北イスラエルの上層部は、どんどん祭壇を増やして、益々自分たちの罪を増やしていることに気が付かない。
12節:わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののように見なす。
神の民であるはずの北イスラエルは、律法、契約を捨て、まるで異邦人のようだ。
参考聖書箇所・・・申命記17:9~20
申命記のみことばの中に、すでに王制になり、そこで現れる罪についても明確に預言されている。ソロモンの罪も、その後の王たちの罪もすべてご存知の神。
13節:わたしへのささげ物のいけにえとして彼らが肉を献げて食べたとしても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。彼らはエジプトに帰る。
この時点で神に戻っていけにえを捧げたとしても、主はこれを受け取らない。つまり、神の堪忍袋の緒は切れてしまっている。捕囚は決定事項。裁きの賽は投げられた。
彼らの不義・・北イスラエルと南ユダの神離れ。彼らの不義は14節。
その不義により、彼らは過去のエジプト時代の状態、つまり奴隷(国を持たない民)になる。
14節:イスラエルは自分の造り主を忘れ、神殿をいくつも建てた。ユダは、城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放つ。火はその宮殿を焼き尽くす。」
北イスラエルは偶像礼拝し、南ユダは神に頼らず軍備に頼る始末。
よって、北イスラエルはアッシリヤ捕囚。
南ユダ(ヒゼキヤ王の時)は、城壁のある町を増やしたが、アッシリヤによる攻撃で大打撃。かろうじて滅亡は免れるが、後にバビロン捕囚が待っている。
ホセア9章1節~17節
1節:イスラエルよ、喜ぶな。諸国の民のように楽しむな。あなたは自分の神に背いて姦淫したからだ。あなたはすべての麦打ち場で姦淫の報酬を愛した。
2節:打ち場も踏み場も彼らを養わない。新しいぶどう酒も彼らを裏切る。
諸国の民の喜びとは、バアル(豊穣の神)礼拝している状態。それは神へのそむきの罪。
麦打ち場の産出物はバアルのお陰と思い込み、それを喜ぶ。(姦淫の報酬)
バアル礼拝(姦淫)の報酬とは、富、経済的な豊かさ。その報酬を求めれば求めるほど滅びに向かっている。
3節:彼らは主の地に住むことはない。エフライムはエジプトに帰り、また、アッシリアで汚れた物を食べる。
約束の地にはおられず、エジプト、アッシリヤに移り住まなければならない。
アッシリヤ捕囚・・エジプト・アッシリヤに捕囚され移されること。
[新共同訳の解説:エジプトへは逃れていったのでは・・。]
神が期待した、約束の地で、神の民として輝くことはなくなってしまう!
4節:彼らは主にぶどう酒を注がず、自分たちのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、これを食べる者はみな身を汚す。彼らのパンは自分のためだけ。主の宮に持ち込むことはできない。
5節:例祭の日、主の祭りの日に、あなたがたは何をするのか。
約束の地を離れた民に、主とかかわる機会はない。主を喜ぶ機会がない。(祭りなど)
捕囚後に彼らが食するパンは偶像礼拝のパン(新共同訳)。それゆえ、汚れる。
彼らのパンは自分の欲望を満たす自己中心的なもの。そんなパンを主に捧げることはできない。してはならない。
「例祭」「主の祭り」、という神を喜ばす日に、あなたがたは一体何ができるのか?
神の民としてのアイデンティティーは、とうに失せている!
6節:見よ。彼らが破壊を逃れても、エジプトが彼らを集め、メンフィスが彼らを葬る。彼らが慕う銀には、いらくさが、彼らの天幕には、あざみがはびこる。
例えアッシリヤ捕囚から逃れても、エジプトが彼らを集めて葬り去る。所持する銀も天幕も何の代償にもならず、すべてを失う。
7節:刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルに知らせよ。預言者は愚か者、霊の人は気のふれた者だ。これは、あなたの大きな不義のゆえ、激しい敵意のゆえである。
7節a、b、c
「刑罰の日が来た。報復の日が来た。」は、預言的完了形の表現。確実に起こる!
「イスラエルに知らせよ。」とは、未完了形の表現。「知るようになる。」の意味。
(第3版:イスラエルは知るがよい。新共同訳:イスラエルよ、知れ。)
7節d、e
何を知るか?・・預言者、霊の人は偽物であったこと。神に対する激しい背き、敵意を宿していたために、気付かないまま、このようになってしまったということ。
新共同訳:「イスラエルの不義は甚だしく、敵意が激しいので、預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。」
8節:エフライムの見張りは、私の神とともにいる。しかし預言者には、すべての道に罠が仕掛けられ、彼の神の家には憎しみがある。
エフライムは、預言者、そして神とともにいる見張り人だったはずが、そのエフライムの歩む道には、正しいことを伝える預言者を狙う、鳥打ちが仕掛ける罠(偶像の罠)がいたるところにある。彼(預言者)の宮殿には憎しみ、敵意しかない。(神が無視される)
押さえておくべきは、「良きエフライムとならず、正しい者の家には、敵意、憎しみが増し加わるばかり」という点。
9節:彼らはギブアの日のように、心底まで堕落した。主は彼らの咎を心に留め、その罪を罰する。
ギブアの日・・士師19章~・・ベニヤミン族の強姦と殺害の恥ずべき行為。
神の目には、ギブアの罪と同等の恥ずべき行為と映り、これを確実に裁かれる。
10節:「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。バアル・ペオルにやって来たとき、彼らは恥ずべきものに身を委ね、自分たちが愛しているものと同じように、彼ら自身も忌まわしいものとなった。
神はイスラエルと契約し愛した。木に初めての実がなり、そうして次代へと繋がって行くと期待したが、父祖の歴史の中でバアル・ぺオルの忌まわしき事件(民25章1~9)があった。惑わされ、偶像礼拝に染まり、ついには、恥ずべき行為にまで及んだ。霊的な攻撃がなされた!
11節:エフライム。その栄光は鳥のように飛び去り、産むことも、身ごもることも、宿すこともない。
12節:たとえ彼らが子どもを育てても、わたしは彼らに子を失わせ、人がいなくなるようにする。わたしが彼らを離れるとき、まことに、彼らにわざわいが来る。
エフライム・・「実りの多い地」という意味。そんな栄光は鳥が飛び立つように消える。
子孫繁栄のない国。それは滅亡を意味する。
神が彼らから離れるから、わざわいが彼らを襲う。(瞬時に悪の価値観の支配下となる)
13節:エフライムは、わたしが見たところ、牧場に植えられたツロのようであった。しかし今や、エフライムはその子らを屠り場に連れ出さなければならない。」
「ツロ」、新共同訳では「ティルス」。ナツメヤシ、またフェニキヤの美しい港湾都市。
この場合は、高さ18mにもなるナツメヤシを指していると思われる。前途洋々のはずが、落ちぶれて、国民を屠り場に差し出すことになる。
14節:主よ、彼らに与えてください。あなたは何をお与えになりますか。彼らに与えてください。死産の胎を、涸れた乳房を。
こんな罪深き北イスラエルに主は何を与えられるのですか?
死産の胎、枯れた乳房。生むことも育てることもできない状態。これは滅びである。神の民としての名誉を剥奪してほしいと言うホセアの心に、ゴメルに対する思いが潜んではいないか?そこまで貶めねば、気付かないのです!!
15節:「彼らのすべての悪はギルガルにある。わたしはそこで彼らを憎んだのだ。彼らの悪い行いのゆえに、わたしは彼らをわたしの宮から追い出し、もはや彼らを愛さない。その首長たちはみな頑迷な者だ。
16節:エフライムは打たれ、その根は枯れて、実も結ばない。たとえ子を産んでも、わたしはその胎の実である、いとし子を殺す。」
ギルガル・・ベテルに並ぶ偶像礼拝の地。神殿娼婦と交わり、恥ずべき行為をする北イスラエルの民を神は憎む。
神の宮、約束の地から追い出される。エフライム(実り多い地)は打たれ、経済的生産性はなく、子孫も絶たれる。
17節:私の神は彼らを退ける。彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは国々の間で、さすらい人となる。
14節で願ったことが、必ず成就するように・・という思いが感じられる。
ゴメルを買い取り、手元に置くホセアの心の思いはどういうものだろうか。
ホセア10章1節~15節
1節:イスラエルは生い茂るぶどうの木。それは多くの実をつけた。実が増えるにしたがって祭壇の数を増やし、その地が豊かになるにしたがって石の柱を豊かにした。
ぶどうの木が生い茂る如く、祝福されたイスラエル。それは神の約束の成就。しかし、彼らはその祝福(恩)を神に返さず、偶像に向ける。豊かさに乗じて、石柱(偶像礼拝)を増やす。石柱は、申16:21~22で禁止されている!
2節:彼らの心は偽りだ。今、彼らはその罰を受ける。主が彼らの祭壇を壊し、彼らの石の柱を踏みにじられる。
そんな彼らの不信仰(偽りの信仰)に対する罰を、今、彼らは受けねばならない!
主はその祭壇も石柱も破壊する。主がアッシリアの侵略の歯止めを外されるということ。
3節:今、彼らは言う。「私たちに王はいない。私たちが主を恐れていないからだ。王がいても、私たちに何ができるだろうか。」
こうして神の罰を受けるとき、彼らは気付く。真の王とは、神が選ばれた者であるべき。自分たちの王は偽物だ。神からの祝福を受けない王は、結局、何の役にも立たない。
「私たちが主を恐れていないからだ。」と、裁かれたときに気付き、嘆き悲しむ。
そして彼らは、自分たちは何をすべきか?と考える。(これは、北イスラエルであり、更にイスラエルの民全体をも対象にしていると考えられる)
4節:彼らは無駄口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。さばきは、畑の畝の毒草のように生い出る。
「無駄口」とは口伝律法か?「むなしい(偽りの)誓いを立てて契約を結ぶ」とは、ダニエル書にある反キリストとの契約。そして、さばきが来る。この「さばき」は大患難時代。
5節:サマリアの住民は、べテ・アベンの子牛のことでおののく。その民はそのことで喪に服し、偶像に仕える祭司たち、その栄光を喜んでいた者たちも喪に服す。栄光が子牛から去ったからだ。
ベテ・アベン(ベテル)にある偶像「金の子牛」のことでおののく。大国は金を狙う。崇めていたものが奪われ、偽祭司も含め民は喪に服すようになる。(己の愚かさに気付く)
6節:それはアッシリアに持ち去られ、大王への贈り物となる。エフライムは恥を受け、イスラエルは自分のはかりごとで恥を見る。
アッシリアとはアッシリヤ帝国ではなくメソポタミアを指し、大王は反キリストを指す。
よって、この個所は、大患難時代を指していると解釈すべき。
その理由として・・・
北イスラエルはアッシリアに朝貢はしていたが、契約(4節)締結の歴史的事実はない。「大王」とは、他の訳では、ヤレブ王(言い争う王)とある。これは実在していない。
メソポタミア地域から出る反キリストへの贈り物となる。つまり、北イスラエルでも、また、大患難時代においても、財産は敵(反キリスト)に奪われるという意味。
イスラエルは、(神を忘れ)自分たちの策に溺れ、恥を見る結果となる。
7節:サマリアは滅び失せ、その王は水の面の木片のようだ。
確実にサマリアは滅び、王は捕囚される。
「水面に漂う木片」・・帰属するところがない哀れさ
ここに、預言者の近未来的預言と将来的預言のオーバーラップがあることに注目。
8節:イスラエルの罪であるアベンの高き所は滅ぼし尽くされる。茨とあざみが彼らの祭壇の上に生い茂る。彼らは山々に向かって「私たちをおおえ」と言い、丘に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言う。
彼らが崇めていた場所(ベテ・アベン)は、敵に滅ぼし尽くされる。
最悪のわざわいである大患難時代が最終的には彼らを襲う。その厳しさは前代未聞。
神は敵の攻撃を許すと共に、自然環境にも働きかけ、両者が相まって裁きが起こる。
その想像を絶する厳しさのあまり、逃げる民は、こう叫ぶ! 山々に向かって「私たちをおおえ!」、丘に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ!」ルカ23:30、黙6:16~17
9節:「イスラエルよ。ギブアの日以来、あなたは罪を犯してきた。そこで彼らは同じことを行っている。ギブアで、戦いがこの不法の民を襲わないだろうか。
ギブアの罪(士師記19章~20章)を犯し続ける北イスラエル。ギブアの戦いの如く襲われることになるとも知らず。ギブアは不法とされている。北イスラエルがそのような状態であることを示す。
10節:彼らを懲らしめることがわたしの願いだ。二つの不義のために彼らが捕らえられるとき、諸国の民が集められて彼らに敵対する。
彼らを罰するのが神の思いである。(近未来と将来的な思いが混在)
二つの不義とは、中川先生によれば、ベテ・アベンとギルガルの二つの偶像礼拝中心地。
偶像礼拝するイスラエルに、諸国が集められて敵対する。これは患難時代のハルマゲドンを思わせる。
11節:エフライムは飼いならされた雌の子牛、麦打ち場で踏むことを好む。しかし、わたしはその美しい首にくびきを掛ける。わたしがエフライムに乗り、ユダが耕し、ヤコブが馬ぐわを引くようになる。
もともとエフライムは従順な雌の子牛(繫栄が約束された)。それゆえ、神の民として神がエフライムの民を導き、ユダをはじめとするイスラエルの民が共に働くことになる。
新たなステップが示されている。それが、メシア的王国。
12節:あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」
神の民としてすべきことは、正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。
今こそ、主を求め、主の教えに従え!
「捕囚の前に気付くべきであったが、後々の大患難時代の時にこそ、絶対に気付け!」
ついには、耕地を耕す民の上に、神の正義の雨が降る。(メシア的王国の成就)
13節:あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べた。それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。
神が指摘される悪の耕し、不正の刈り取り、偽りの実の獲得とは、自分の力に拠り頼み、他国との軍事同盟に依存し、軍事力を得て富の蓄積のためにして来たこと。
14節:あなたの民の中で戦塵が起こり、要塞はみな打ち滅ぼされる。戦いの日にシャルマンがベテ・アルベルを踏みにじったように、母親は子どもたちのそばで八つ裂きにされる。
神の裁きにより、要塞は打ち破られ、国内の民衆が戦いに巻き込まれる。
シャルマン・・アッシリヤ王シャルマヌエセル5世(BC727~BC722)⇒捕囚前のぎりぎりの時期の預言であることが分かる。
ベテ・アルベル・・新共同訳で現在のイルビドとある。
アッシリヤ征服前に、この地で残虐行為があった。
15節:ベテルよ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、このようなことがあなたがたになされる。夜明けには、イスラエルの王は全く滅ぼされる。
ベテルよ!・・偶像礼拝の中心地であり、ホセアが語っている場所。
このような厳しい裁きの原因は、この地の激しい偶像礼拝の故である。
夜明けには⇒北イスラエルの王の裁きは、もう目の前に迫っている。
【ホセアはここで、すぐに来る近未来(アッシリア捕囚)について預言し、12節までの神のことばの遠未来(メシア的王国)と区別して、語っている。】
ホセア11章1節~12節
1節:「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。
出エジプトのことを語られている。エジプトつまり奴隷からイスラエルを解放された神。
マタイ2:15は、ホセア11:1の預言。
ここから語られるみことばの中に、イエス様の影が隠されていることに注目。
2節:彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。
神が愛すれば愛するほど、イスラエルは神から離れバアル(偶像)へと走る。
これは、イエス様のことばに反して、口伝律法に走り、最終的には反キリストに就くイスラエルを指す。
3節:このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。
一国の民として、また神の民として立つことができるように導かれたのは神である。
同様にイエス様も、その愛でイスラエルの民を導かれ、彼らを癒した。
4節:わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。
人間の綱(複数形)、愛の絆(複数形)・・人のそれぞれのつながり、愛の絆で導き、神の民としての民族性を高めようとされた。
神が、奴隷(口籠が掛けられている状態)から解放し、砂漠でマナを与えた。
神が養われた!神に養われていた民!!何という光栄であろうか!
5節:彼はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。
6節:剣は、その町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。
「彼は・・」となっているが、新共同訳では「彼ら」、英語訳も「彼ら」。
「エジプトに帰らず」、「エジプトに帰り」、「エジプトに帰ることが出来ず」と様々。
アッシリアが王となる(アッシリア捕囚)、それは彼らが神を拒んだ(偶像に走った)からである。
同時に遠未来の患難時代の預言。アッシリヤ(反キリスト)は、イスラエルを打ち、町もろとも滅ぼされ、消え去る。反キリストとの契約、つまり神を忘れた自己本位の考え方で恥を見る結果となる。
7節:わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。
北イスラエルは徹底的に神に背を向け続ける。それは、アッシリヤ捕囚以降も形を変えて継続し、恵みの時代においても神に立ち返ることはない。
8節:エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
神は決して、北イスラエルを見捨てはしない!人が計り知れない神の愛。約束(契約)に従い、愛をもって貫かれるお方。神の裁きは、気付きを促すもの!
アデマ、ツェボイムは、ソドム、ゴモラの周辺にあった町々で、ソドム、ゴモラと共に滅ぼされた。申命記29:22~23(アデマ、ツェボイムは、ソドム、ゴモラと契約を結び、追随していたために滅ぼされた)
神の思いは、あわれみに満ちて胸が熱いほどだ・・民を滅ぼすことは神の本意ではない!
9節:わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。
裁きはするが、もう二度とエフライムを滅ぼすことはしない。アッシリア捕囚は不可避な事実!
神は聖であり、霊であるお方。民が聖なる神を受け入れるとき、もう攻めるようなことはない。神は、町ではなく人に入る。アッシリア捕囚後の民への言及で、最終的には大患難時代を通り抜けるイスラエルの民への励ましの言葉。
10節:彼らは主の後について行く。主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。
イスラエルの民が神に立ち返る日が来る。主が獅子のように吠える。
主が吠えるような状況⇒大患難時代を思わせる
「子ら」・・となっているのは、彼らの心が純粋になっていることを示す。(1節参照)
「西から」・・とは、70年の神殿崩壊以降に起こること。つまり、終末時代の暗示。
「震えながら」とは、心底、悔い改めた恐れと期待の状態をもって・・、と考える。
ここで、完全なイスラエルの民のヘリくだりが成就する。
11節:鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る。わたしは彼らを自分たちの家に住ませよう。 ―主のことば。
鳥のように・・多くの人たちが、賢い鳩のように巣に帰る。10節同様、恐れつつ喜びと期待をもって南(エジプト)、北(アッシリア)から帰還する。離散していた人たちが、震えながら、帰って来る。それ故、神はその居場所を用意されるのである。
8節から11節で、神はどんなに裏切られてもイスラエルを導くことを宣言された。アブラハム契約の成就、最終的な全人類の救いの成就が明確である。
12節:わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで囲まれている。しかしユダは、なお神とともに歩み、聖なる方に対して忠実である。」
ここで、11節とは別の切り口で、新たに語られる神。
ヘブル語聖書では、11章12節が12章1節になっている。
新共同訳は、そのように区分している。
神は、徹底的に、エフライム、北イスラエルに欺かれてきた。一方、この時点で南ユダは、神と共に歩み、聖なる方に対して忠実であった。
決して、南ユダが優秀ということではない。北イスラエルに較べれば・・というニュアンスであろう。それほど北イスラエルの神に対する不誠実は極まっていたということ。
ホセア12章1節~14節
1節:エフライムは風を飼い、一日中、東風の後を追う。重ねるのは虚偽と暴行。アッシリアと契約を結び、エジプトに油を送る。
「風を飼い」・・とは、掴みどころのないものを追いかけている姿。
「東風」とは、東から来る熱風であり、神の怒りの象徴。神の怒りを買う行動に余念がない状態。追いかけるべきは神なのに、アッシリア(大国)を追い、暴虐となり、神への背信となる。
そんな彼らのすることは、アッシリアと契約を結び、エジプトに貢物(オリーブ油)をすること。
北イスラエルは、滅ぶまでに、アッシリアやエジプトの様子を見つつ、盛んに朝貢はしていたが、アッシリアと契約関係を結んだという歴史的事実はない。
2節:主には、ユダに対して言い分がある。主は、生き方に応じてヤコブを罰し、行いに応じて彼に報いる。
ユダに対して言いたいことがある。新共同訳:主はユダを告発する。
今は良いが後には北イスラエルと同じようになるから聞いておけ!というニュアンス。
神のイスラエルの民全体に対する基本的姿勢は、その生き方・行動に対する罰と報いの応答。
良い生き方とは、神の期待に応答して生きること⇒報酬
悪い生き方とは、神の期待を無視して生きること⇒罰
3節:ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。
4節:御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った。ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた。
ヤコブは「かかと」の意味。兄のかかとをつかむ。神の祝福を奪うほどに熱望する姿勢。
創世記32章22~30節:兄エサウを恐れていたので、とにかく神の祝福が絶対欲しい!という思いで、御使いと格闘。御使いは、腿の関節を打ち、ヤコブの傷は大きかったが、それでも祝福を掴もうとするヤコブの思いに根負けしたということ。ホセア書には、泣いて願ったとまで書かれている。(狡猾なヤコブではなく、神の祝福を熱望するヤコブという側面が重要!)
このようなヤコブは神に出会い、神の声を聴く機会が与えられる。ヤコブの神への立ち返りとなった。その地がベテルなのに、今は偶像礼拝の中心地になっているではないか!
5節:主は万軍の神。その呼び名は主。
すべての敵、すべての偽の神を凌駕するのが、万軍というすべてをしのぐ力を持つ神!その偉大な名は主である!そのことになぜ気付かないのか!イスラエルの目線が、世の中にどっぷり落ちている!
6節:あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。
為すべきことは神に立ち返ること。常に神を見上げる姿勢が必要だった。
それは、誠実(正義)と公正という神の教えをしっかりと理解し守ること。
今となっては、裁かれることが前提であり、これは、残れる者へのことば!
「神を待ち望め」とは、アッシリア捕囚から大患難時代に亘るイスラエルの民全体への励まし。
7節:商人は手に欺きの秤を持ち、虐げることを好む。
「商人」・・へブル語では「ケナアン」、つまり「カナン人」と同じ言葉。
彼らは、人を欺き利益を得ることを優先する商人。まさにこの世的な人々。
カナン人と同化するということは、商売(ビジネス)優先の考え方になり、偶像がもてはやされることになる。
8節:エフライムは言った。「確かに私は富んでいる。私には力がある。私のすべての勤労の実があれば、私のうちに、罪となる不義は見つからない。」
北イスラエルはこうしたカナン人のビジネス優先主義に感化されていた。
「富があるから力があり、勤労によって富があれば、罪、不義は見つかることはない!」
新共同訳:「この財産がすべての罪と悪とで積み上げられたとはだれも気づくまい。」
9節:「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。例祭の日のように、再びあなたを天幕に住まわせる。
出エジプトの奇蹟を実施した神。
「例祭の日」とは「仮庵の祭り」のこと。これは荒野の生活を思い起こし、神とのかかわりを喜ぶもの。
アッシリアに捕囚され、土地を失い、財産を失い、まさに天幕での生活(流浪の民)となるという裁きを示している。
10節:わたしは預言者たちに語ってきた。わたしが多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示したのだ。」
もう取り返しはつかない。すでに正しい預言者を通して語り、伝えてきたことだ。
気付きを散々与えたのに、あなたはすべて無視してきたではないか。
決して見限っているのではない。覚悟を迫る勢いである。
11節:ギルアデは不法そのもの。いや、彼らはむなしいものとなった。ギルガルで雄牛が献げられたが、その祭壇も、畑の畝の石くれの山になる。
ギルアデ・・6章に登場。偶像礼拝の地。ヤコブと関連ある地域。
創31:25~55:ラバン&偶像環境からの決別を神がなさった場所。
ギルガル・・4章、9章に登場。偶像礼拝の中心地のひとつ。
不法を通り越して、むなしい、価値の無いものであり、その地の偶像の祭壇も、単なる石の山、無価値なものである。
12節:ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした。
ヤコブがエサウから逃げた時、また妻を迎えるため働き、羊の番をした時も、どんな時も神が彼と共にいて、彼を導き祝福した。彼も神に信頼した。
13節:主は一人の預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、一人の預言者によって、これを守られた。
エジプトで奴隷となっていた時も、百数十万人というイスラエルの民を、モーセを用いてエジプトから導き出し、モーセを通して守られた。
百数十万人の奴隷であった人民を解放し、一国の民として、何もない荒野で敵から守り、育成させることは、人間業では無理な御業ではないか!この預言は、北イスラエルだけではなく、南ユダをも含めた内容であることは明白!
14節:エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。彼の主は、その血の責任を彼の上に下し、彼のそしりに報いを返される。
そんなよき関係を築いていたにもかかわらず、北イスラエルは神の期待にはずれ、偶像礼拝(人身御供)へと罪に走った。主はその罪の責任を裁きの形で、北イスラエルに負わせる。神を侮る者は、相応の裁きを報いとして受けることを心に記さねばならない。
12章2節にあった南ユダへの言い分とは、まさにこの警告である。神の目には南ユダの行く末も、明確に見えているのである。もちろん、恵みの時代も、そして大患難時代も。
ホセア13章1節~16節
1節:「エフライムは震えながら語ったとき、イスラエルの中であがめられた。しかし、バアルのことで咎ある者となって死んだ。
エフライムが語った時、そこ(周囲)には震え(恐れ)があった。エフライムがイスラエルの中であがめられていたからである。しかし、エフライムはバアルを選び(偶像礼拝をし)、神と決別した。それは死を意味する。
2節:今、彼らは罪を重ね、自分のために銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人のわざ。彼らはこれについて言う。『人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ』と。
職人(所詮人間)が偶像を造り、それをあがめた。その偶像である子牛に人のいのちを捧げるような愚かな行為をしていた。(人身御供)
3節:それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のようになる。打ち場から吹き散らされる籾殻のように、また、穴から出る煙のようになる。
神の裁きに会うとは、朝もや、朝露、風の前の籾殻、煙突から出る煙の如く消えてしまうということである。
4節:しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。
あなたたちの神は出エジプトの奇蹟を行った神、主である。わたしのほかに神があってはならない!と申し伝えた神である。わたしがあなたがたを救うのだ!
5節:このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。
これまであなたがたをどんな時も(荒野、干ばつ)助けてきた。荒野40年の生活を皮切りに、この時に至るまで神は北イスラエルを助け導いた!
6節:しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。
その助け、勝利が神によるものと知らず偶像によるものとし、神を忘れてしまう北イスラエル。
7節:わたしは彼らに対して獅子のようになり、豹のように道端で待ち伏せる。
8節:子を奪われた雌熊のように彼らに襲いかかり、彼らの胸をかき裂いて、その場で雌獅子のように食らう。野の獣は彼らを引き裂く。
主の裁きは、獅子、豹、そして子を奪われた雌熊のよう。神は野の獣のように獰猛に北イスラエルを襲い殺す。
どうして、この三つが挙げられているのか。→ここに未来の予表が隠されている(暗示)
9節:イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたしに背いたからだ。
神はイスラエルの背きを、精一杯受容してきた。真の助け手、真の拠り所は神のみ!
そんな神を裏切り続けた結果は、滅び。それは最後の気付きの道(そして、いばらの道)
10節:では、あなたの王はどこにいるのか。すべての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ』と言った者たちは。
かつて「王を、高官を与えよ」と言って駄々をこね、今や神の意に反し王や高官を選んだが、彼らにどれほどの力があるというのか?見よ、今、国は滅びようとしているではないか!
11節:わたしは、怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。
神の意に反した王の就任を怒りで見ていた神は、忍耐したうえで王、高官を滅ぼす!
12節:エフライムの不義は束ねられ、その罪は蓄えられている。
エフライムのこれまでの行動はすべて罪となって、今、エフライムの前に積みあげられている。
13節:子を産む女の激しい痛みが彼のところに来るが、彼は知恵のない子で、時が来ても、母の胎から出て来ない。
様々な神の導き(試練)を通して気付きを与えてきたが、残念なことに、エフライムは知恵の無い子であった。気付く知恵がなく、神の民であることを拒み続けていた。
母の胎から出てこない、まるで、悪魔の腹の中(陰府)にいて、出てこないでいる愚かな子を指しているよう。
神はこれを本当に哀れに思われている!
14節:わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。
おまえのとげはどこにあるのか、おまえの針は、どこにあるのか?➡罪が無くなる時が来る。➡この個所は勝利宣言である。
こんな愚かな民だが、神は未来に彼らを陰府・死から贖いだす計画を持たれている
その時、死に向かい、陰府に向かう罪は、どこにもなくなる。まさしく罪に対する勝利!
しかし、今はわたし(神)の目から、彼らに対するあわれみは隠されている。
15節:彼は兄弟たちの中で栄えている。だが、東風が吹いて来て、主の息が荒野から立ち上り、水源は涸れ、泉は干上がる。それはすべての尊い器がある宝物倉を略奪する。
16節:サマリアは咎ある者となる。自分の神に逆らったからだ。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる。」
エフライムは兄弟部族の中でもよく栄えたが、東風(熱風)つまりアッシリアが一気に襲ってくる。これは神の怒りの裁きである。
まるで水源を枯らす東風の如く、アッシリアはエフライム、北イスラエルの宝物、財産、そして国民を奪う。特にサマリアは酷い目に遭う。それは神を無視し続けたからだ。
サマリアの人々は攻め入られ、幼子・妊婦すべて八つ裂きにされてしまう。
ホセア14章1節~9節
1節:イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたは自分の不義につまずいたのだ。
北イスラエル、そしてイスラエルの民全体へのメッセージ。
「神、主に立ち返れ」・・原語では、「主のもとに、主の御傍に」という深みがある。
新共同訳:「主のもとへ。」と訳されている。
裁きは免れない。神との関係を破壊してしまったのだから。それは悪魔に惑わされたということ。今、原点に返れ、戻れ!と諭す。
2節:あなたがたはことばを用意し、主に立ち返れ。主に言え。「すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。
3節:アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません。みなしごがあわれまれるのは、あなたによってです。」
主に立ち返る時に語る言葉は何か?神にささげる霊的思いは何か?
悔い改めのことばと完全なる信頼。
賛美、神をたたえる心からのいけにえ・・・つまり動物の犠牲はないということ。
アッシリアや、そのような大国、経済、軍事力との決別。偶像礼拝との決別。
「あなただけが私たちの唯一の真の神!」「このようなみなしごをどうぞ救ってください!主よ!」こうした言葉が心の底から神に向けて発せられる時!イエス様が地上に再臨される時である!
4節:「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。
神は民の背信を赦し、その怒りは消え去る。イスラエルの心が神に立ち返ったから。
それは、メシア的王国の実現を意味する。
5節:わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。
大患難時代に大荒廃した地は、東風の被害を上回る前代未聞の大惨事。そんな地を神は回復される。焼けた地に露が落ち、地が豊かになり、神の子たちは豊かに地上に根を張って活力を得て生きる。メシア的王国にスライド入国したイスラエル人は、力強きレバノン杉のように活気に満ちる。
6節:その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。
7節:その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
メシア的王国にスライド入国したイスラエルの民の子孫も増え、産業も回復し、神の民として存在感を示す。
「その陰に・・・」の箇所は、離散していた人々もその地において彼らと共に活動し、たたえられる者となるということ。良い実が良いぶどう酒を生むように、名声が轟く様。
8節:エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」
エフライム(イスラエル)の民と神との間に偶像のかかわりは一切ない。神の統治による新しい世界が生まれる。神が人々を導く世界。
9節:知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。
知恵ある者・・神を一心に愛し、恐れる者、知ろうとする者!
悟りのある者・・神の教え(みことば)に従う者!
アッシリヤ捕囚以後、様々な困難、迫害がイスラエルの民を襲う。どうか、神のみことば、神の道を見出し、知恵と悟りを得る者となってほしい!その道が実は平らな道であることに気付いてほしい。
ヨナ書の時代背景
ヨナ書の出来事の時期
一般的には、エリシャ~アモスまでのどこか・・BC896~BC753頃としている。
中川先生は、ヤロブアム2世の時(BC793~BC753)としている。
⁂アモス書、ホセア書と同時期であり、ヨナは彼らの預言を知っていたと見ている。
根拠として、Ⅱ列14:23~27を挙げている。
Ⅱ列14:25:「彼は、レボ・ハマテから、アラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」
ヤロブアム2世以前に語られたことばか?その時代に語られたことばか?の疑問は残る。
そこで、アッシリア帝国の勢力拡大の推移を見てみる!
《この時代のアッシリア帝国の勢力拡大動向について》
アダド・ニラーリ3世の時代(BC810~BC783)・・彼の治世の前半は若年と言うこともあり勢力拡大は不可。自国統一で精一杯!しかし、治世の後半は近隣諸国を侵略し、アラムのダマスコを押さえた。
彼の後継王、シャルマヌエセル4世、アシュール・ダーン3世、アシュール・ニラーリ5世(BC783~BC745)は、アルメニアのウラルトゥ王国に対する防御と、自国統一に専心し、勢力拡大は後回しになっていた。
こうした事情に加えて、ヤロブアム2世が用いられ、北イスラエルは、神の祝福により、全盛期を迎えることとなる。
ヨナ1章1節~3節
1節:アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。
ヨナ・・ガリラヤ地方中央部ゼブルン地域のガテ・ヘフェル出身。ゼブルン族。北イスラエルの預言者。
「ヨナ」は「鳩」と言う意味。
ヨナの父は「アミタイ」。それは「真理」と言う意味である。
ヨナの名は、Ⅱ列王記14:25に登場する。
2節:「立ってあの大きな都ニネべに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
ニネべ・・アッシリアの首都。もともとはニムロデが築いた町。ニムロデは神への反逆者であり、帝国主義のはじめである。水が豊富で堅固な難攻不落の都市。
ヨナの時代は、近隣諸国を吸収し巨大な都市になっていた。
3章3節から、ニネべは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。
4章11節から、人口は12万人以上と分かる。
ヨナに預けられた神のみことばは、イスラエル向けではなく異邦人向けであった。
その大国に行って、わたしのことばを叫べ!彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。
アッシリアは残虐的行為で他国を従わせていた。
イスラエルも少なからず影響受けていたか?
ヨナはこれを聞いてどう思ったか?
3節:しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。
タルシシュ:当時の最西端の町。スペインの港町。(船賃はかなり高額と考えられる)
ヤッファ(ヨッパ):港町。ヤッファとニネベの距離は約900㎞。(広島ー新横浜間の距離)この距離を歩くのは大変な仕事である。
主の御顔を避ける・・神の約束の地(神の影響)から離れるという意味。
しかし、神は遍在される神。どこに行っても無駄と、ヨナは知っていたはず。
彼が、神殿、または神殿のある地から離れることは、神との交わりを遮断すること。祈らない、対話しない、と言う姿勢。覚悟をして背を向けているヨナ。
彼はタルシシュに向かう。当時の最西端の町。ニネベとは真反対方向。
当時の北イスラエルは、神の期待に応じない態度。預言者であるヨナは、北イスラエルの回復を何よりも求め、優先されるべきと考えていたのではないか。
万が一にも異邦人が悔い改めたりしたら、せっかくの選民イスラエルはどうなる?
ヨナ1章4節~17節
4節:ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。
5節:水夫たちは恐れて、それぞれ自分の神に向かって叫んだ。そして、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。一方、ヨナは船底に下りていて、横になってぐっすり寝入っていた。
出港して、2~3日(難破して港に帰って来られる日数)の時が過ぎたと思われる。
すると予想外の難破しそうな激しい嵐が起こった。
予想もしなかった嵐・・・長年の経験・知識から外れた嵐。事実、後に凪になる。
それ故、水夫たちはこの嵐に違和感を感じていた。だから、自分たちの神に祈り、最善策を取った。
積み荷を捨てて船を軽くし、浸水を防いだ。水夫としての最善を尽くしている。
この激しい嵐はただ事ではない!「神の祟りだ!神の怒りだ!」と口にしていたのではないだろうか。
片っ端から積み荷を捨てようとしていると、船底で眠るヨナがいるではないか!
船長!!こんな時に眠ってる奴がいますーっ!と叫んだかも。
6節:すると船長が近づいて来て、彼に言った。「いったいどうしたのか。眠りこけているとは、起きて、あなたの神に願いなさい。もしかすると、その神が私たちに心を留め、私たちは滅びないですむかもしれない。」
『皆、一所懸命働いたり、財産を捨てたり、祈ったりしてるのに、何を寝てるんだ!せめて捨てる物がないなら、お前さんの神様に祈るなり、何かやれよ! 一所懸命祈ったら、あんたの神様が助けてくれるかもしれないじゃないか!』
7節:人々は互いに言った。「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。
嵐は収まるところを知らず、むしろ激しくなっている!一体、何が原因なんだろう?
誰かがそれを知っているのではないか?と考える者が出てきた。
そうだ!くじ引きしてその原因を知っている者を特定しよう。(誰かがアドバイスしたのだろう。船長かもしれない。)
そして、くじはヨナに当たった。明らかに神の働きである。ヨナは、神との関わりを断っているつもりでも、神はそれを上回って、ヨナを導いておられる。
8節:そこで彼らはヨナに言った。「話してくれ。だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの民の者か。」
9節:ヨナは彼らに言った。「私はへブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。」
10節:人々は非常に恐れて、彼に「何ということをしたのか」と言った。人々は、ヨナが彼らに告げたことによって、彼が主の御顔を避けて逃れようとしていることを知ったからである。
ここで初めて、ヨナの身分が語られる。
へブル人であり、天地を創造された神を恐れる預言者であること。ガテ・ヘフェルから来たのだが、その理由は、神のみことばを告げるように言われたが従えず、その任務を放棄して、西の果てまで行こうと考えている。
自分の神に畏敬の念を持っていた船長や他の人々は、へブルの神についても知識はあったと思われる。その預言者と言うことが更に、驚きとなり・・・何ということをしたのか!
職業人としての責任感を持ち、偶像ではあっても神を畏れる船長やその他の人々らしい言葉である。
11節:彼らはヨナに言った。「私たちのために海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか。」海がますます荒れてきたからである。
預言者と聞いて、彼に助かる道を求めた。祈っていない者がヨナであり、彼の立場から、ヨナの神とヨナとの問題が原因であると気づき始めた。
ヨナが告白した後、更に暴風がひどくなっている。更に確信する!
12節:ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」
自分を海に投げ込みなさい。ヨナは、自分のせいで船が暴風に襲われていると確信している。
これは、この船の人たちに与えられた異邦人への預言である。
13節:それでも人々は船を陸に戻そうと漕いだが、そうすることはできなかった。海がますます彼らに向かって荒れてきたからである。
船長をはじめ人々は陸に戻ろうと懸命になるが、暴風は更に激しくなる一方。
何とか、全員無事に生還させようと最善を尽くす船長、船員・・ここがポイント!異邦人の誠意を感じる!
明らかに、ヨナの言う通りへブル人の神が怒っておられると感じる・・もう限界と判断!
14節:そこで彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。咎なき者の血の報いを、私たちの上に下さないでください。主よ。あなたは、望まれたとおりになさったのですから。」
異邦人であるこの人たちの、神に対する次の言葉に、神への敬虔深さを感じる。
「あなたの望み通りにいたしますから、どうか私たちを滅びさせないでください!!」
咎なき者・・ヨナは彼らに何も罪を犯していない。そのヨナを海に投げ込むことは主の望みなのだから自分たちに血の報いを下さないでほしいと頼む。
預言者、つまり神のことばに従う異邦人の姿がここにある!
15節:こうして、彼らはヨナを抱え上げ、海に投げ込んだ。すると激しい怒りがやんで、海は凪になった。
ヨナを海に投げ込んだと同時に、海は凪になった。神の怒りが止んだ。人々は、神の実在とヨナと言う預言者の真実を体感した。それは、驚くべき体験であった。
16節:人々は非常に主を恐れ、主にいけにえを献げて誓願を立てた。
(私見だが、15節から16節までには時間的隔たりがあると見る)
一切の物を捨てた船の航行は不可。なので、ヤッファに戻ったと思われる。
そこで、真っ先に捧げものをし、誓願を立てたのだと思われる。
どうして、神は船ごと沈没させて、ヨナを海の中に引きずり込まなかったのか?
船を沈没させれば、事は簡単である。しかし、そうはされなかった。
神の御心がそこにある・・・この船の異邦人にも、あわれみとご計画を持たれていた。
敬虔深い人々に、真の神を知るチャンスを与えられたのではないか!
それ故、嵐の中でむしろ沈没させずに、導いておられたのではないか!
この後、記載にはないが、彼らは帰還後もヨナの預言のサポート役になると考えられる。
神がなさることは、人間の考えを超越して、万全である。
私たちの神は、全幅の信頼を置けるお方であることを覚えよう!
17節:主は大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。
主は、大きな魚を備えておられた。次から次と手を打っておられる神。すべてが万全。
自然(海、風、雨)も大魚も、すべてが神のことばに従う。人だけが、神に逆らう存在。
三日三晩と、その後の復活はイエス様の十字架と復活の予表
↓ ↓
ヨナは死んだか、生きていたか? 生きていたとしたら、イエス様の予表ではない。
(マタイ12:39~41、ルカ11:29~30)
ヨナ2章1節~10節
1節:ヨナは魚の腹の中から、自分の神、主に祈った。
この祈りは、2節~9節までの一連の出来事があった後の祈りである。
いったん死んだヨナが、主のあわれみによりたましいが肉体と合体し、復活して息を吹き返し、そして祈ったということ。
配置を考えれば、9節と10節の間にある方がわかりやすい。
2節:「苦しみの中から、私は主に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。
「私が苦しみの中から主に叫ぶと、主は答えてくださった。」
どこで叫んだかと言うと、よみの腹の中・・・・つまり、シオールと言うところ。
1節で魚の腹の中と言っているが、ヨナのたましいは、シオールへと向かって落ちていったことを示す。つまり、ヨナは海に沈み、確実に肉体的に死んでいるということ。肉体は滅ぶが、霊は滅びないと言うこと!
そこまで落ちて、叫んだ時、主はヨナの声を聴いてくださったと言っている。
これは、ヨナにとって、神の御力を受けたとんでもない経験ゆえに、冒頭にこの文章が書かれたのではないか!「経緯はこうです。」と言って次節に続いて行く。
3節:あなたは私を深いところに、海の真中に投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波、あなたの大波がみな、私の上を越えて行きました。
「あなたは私を・・・」。実際には船員が海にヨナを放り投げたが、ヨナは神のなさったことと認識。これは、明確に、神は自分だけを対象にしていると認識している。
放り込まれたのは海の真中。そして潮の流れ、大波が逆巻き、自分の上を越えて行く状態で、息もできず、海中に沈むのに時間はいらない。
「ああ、もう駄目だ!ここで死ぬんだ!」と、ヨナは確信した。
ヨナは覚悟していたにも拘らず、その時、自分の無力さを知り、神の偉大さを知る。
自然をも支配される神の怒りに触れ、私は心の底からこの神を恐れている!
4節:私は言いました。『私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』
こうして、死を目の前にして、彼は思った。自分は裁かれる者となってしまった。偉大なる神から逃れることはできないうえに、こうして裁かれることになってしまう。
ヨナは叫んだ。「ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。私は心から神を愛しています~!主よ!」→ 栄光をたたえたい!
5節:水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。
6節:私は山々の根元まで下り、地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下ろされました。
しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。
潮がのどに達する。息ができない!海に沈み、海藻が頭に絡む状態。
山々の根元・・海底に到達。
地のかんぬき(シオール)は、私のうしろで永遠に下ろされました。・・・肉体が死に、たましいが永遠の死へ。たましいはシオールに行き、肉体は死んで、魚の腹の中。
しかし、私の神、主は私を引き上げてくださった! → 4節の祈りが神に届いた!?
滅びの穴からヨナが復活した!!神の奇蹟が起きた。
7節:私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
この状態は、肉体とたましいが一つとなって回復した状態である。(魚の腹の中で意識が戻った)
私のたましいがよみに行ったとき、私は主を思い出し祈ると、その祈りは聖なる宮、すなわち神の御前に届き、私は神の恵みによりこの地に戻ることができた。
8節:空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。
偶像を拝む者に、この恵みは与えられない。異邦人はこの恵みを捨て去るが・・・、
このことばに秘められた、ヨナの気持ちはどういう感覚だろうか?
死を前にして、ヨナの、神の民としての思いは素晴らしい信仰心であるが、一方、異邦人に対しては、軽視するような思いが根底にあるように見える
9節:しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします。救いは主のものです。」
異邦人は求めないが、私はこの恵みを求めます!
感謝して、いけにえを捧げて、誓いを果たします。(誓願)
救いは主のもの。神、あなた以外に本物の神はない!
ヨナは、あの船員たちの深い仕事に対する姿勢や隣人愛に気付いていただろうか。
実は、船員たちも上陸後、へブルの神にいけにえを捧げ、誓願を立てていた。
予想外の命がけの経験から、船員たちはへブルの神を信じる者となった。
10節:主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。
主は魚に命じて、吐き出させた。この時、港町は大騒ぎとなった!!
魚の口から人が出てきたという目撃情報、または証言があっただろう。
この人は、3日前に難破しそうになった船に乗船していたへブル人の預言者。この預言者の言うとおりにしたら、嵐が静まり、皆が救われたと、船長、船員たちが証言している。
彼らはヨナが死んだと思っていた。しかし、・・神はこの預言者を生かし、どうしても用いようとされているようだ。話を聞くと、一度死んだが、神により復活したと言う。すごい預言者だ!そして、彼が託された預言は・・「ニネべの崩壊の日が近づいていることをニネベに告げよ!」
ヨナ3章1節~10節
1節:再びヨナに次のような主のことばがあった。
2節:「立ってあの大きな都ニネべに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」
3節:ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネべに行った。ニネべは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。
「立ってニネべに行き」・・・・いよいよ900㎞の長旅の始まり。
「宣言をせよ。」・・・・伝道や宣教などではない。ただ神のことばを宣言する。
900㎞の旅の後、辿り着いた町は行き巡るのに3日かかる大きな都市。
4節:ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネべは滅びる。」
いよいよ、宣言の開始。決して、悔い改めてもらっては困るという思いがヨナにあった。従って、ただ神の指示通り、40日後の滅びを宣言して回った。
神はそのこともご存知であった。ヨナの思惑とは異なる展開が待っている。奇蹟がヨナの目前で起こる。
神の備えについて考える
・奇蹟的に生還したヨナ
・その証人たちも存在した
・その奇跡は、まさに神の実在を示すもので、特に船長、船員は確信する。
・また、ヨナの預言者としての力量も実感していた。ヨナの預言の信頼性は確実!
・ヨナの宣言だけでも、その信憑性は十分であった。ヤッファにいた船員や人々の証言があったからである。
5節:すると、ニネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。
神の備えがあり、神の宣言はニネべの人々に伝わり、ヨナが伝道までせずとも神を信じ、互いに呼びかけ、身分に関係なく断食を行い、悔い改めている。(激変!)
正しい方法はわからないが、とにかく速やかに悔い改めようとする思いは、神を恐れ、神を信じている者の行動である。
話が町中に流布した原因は、例の船に乗船していた人たちの中に商人、またはその部下や知人がいたのではないかと想像する。
いつの時代も、有力な商人は、権力者と親密に繋がっているものだ!
6節:このことがニネべの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。
噂は王の耳にまで伝わり、王が速やかに悔い改めている。
あの暴風の船上での出来事は、人々にインパクトを与える事実だったということ。
7節:そして、王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネべに出された。「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
8節:人も家畜も、粗布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。
神を信じる思いは、ニネベの人々を徹底的にへりくだらせた。布告が出た。これは相当の覚悟である。具体的な対処方法は不明、とにかく情報を集めたと思われる。
人どころか家畜まで何も食べず、食べさせず、ひたすら神に願え!
ポイントは、「悪の道と、横暴な行いから立ち返れ」という点
アッシリヤの残忍、暴虐性は周知のこと。それがアッシリヤ帝国の基盤。
トップ自らがその残虐、暴虐性を認めていたということに注目。
9節:もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
「もしかすると・・」と言う思いが、家畜にまで粗布をまとわせるという行為に現れる。
心の底から、救いを願った結果である。
10節:神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。
神は北イスラエルに対する最後の気付きである領地拡大の祝福を与える。しかし、そこに事前準備があった。ヨナの存在と活動は北イスラエルでも注目される内容。
ヨナを用いて、北イスラエルに最後の気付きを促したいというお考えがあったのではないか。
単に、ヤロブアム2世の時代に繁栄と言う祝福をもたらすためだけではなく、神の御心に気付いてほしいというご計画があったのではないか。
ヨナ4章1節~11節
1節:ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、
2節:主に祈った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
ヨナは驚くべきニネべの悔い改めを目撃したにもかかわらず、激昂した!それは主に対する怒りであった。なぜ異邦人を救うのか!神は気付きを与えるため、忍耐される
ヨナは、初めに神に反抗した時、神に告げていた。「あなたは情け深くあわれみ深い神、怒るに遅く、わざわいを思い直される方だと知っていたからです。」
現に、北イスラエルが滅びないのは、思い直される神だから!
万が一にも、異邦人が悔い改めたら救われてしまう!
実はそうではない!両者とも滅びの日は近づいている!
ヨナの考えが交錯している➡異邦人は信じるはずがない、信じたとしても神は裁くべきだ
神の御心を自分の目線に引き下げていることの愚かさ!
3節:ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。
もう死んだほうがましだ!私は失望しました。私の命を取ってください!
一度、いのちを救われたにも拘らず、それでも死んだほうがましと言うヨナ。これは怒りを示す、無礼な発言。しかし、あわれみ深い神は、ヨナに語り掛ける。
4節:主は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」
当然であるかのように怒るのか?・・・つまり自分の考えが正しいというのか?
ヨナの思い⇒神は異邦人を裁き、滅ぼすべきである。イスラエルより先に救うということはあり得ないこと!北イスラエルは神の民。救われるべき民。異邦人の救いはイスラエル人の後であるべき!
強力な(不健全な)選民意識がヨナの中に根付いている。
神は、このヨナの強力な(不健全な)選民意識に注目されている。
5節:ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
ヨナはニネべの東の方に仮小屋を建て、ニネベを観察した。彼らの救いはあるはずがない。必ず神の裁きが下されるところを見極めてやろうとしていた。
このヨナの選民意識がもたらす弊害は、妬みである。彼が激昂した原因は、神が優先順位を変えて、異邦人を救われたことに妬みを覚えたからである。申32:21
この強力(不健全)な選民意識から来るわざわいを、未来の問題点として示されたところに、ヨナ書の意義がある!
6節:神である主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
唐胡麻・・・工業製品の油、ひまし油の原料。
熱帯アフリカの東部が原産。塗料や燃料、香料などに利用され、 耐寒性がないため、熱帯では多年草ですが温帯では一年草となります。 葉は大きくて、掌状に5~11に深裂し、鋸歯状です。
まるでヨナの機嫌取りであるかのように、神は奇蹟を行い、唐胡麻を生えさせて、彼に日陰を与えられた。ヨナはこの唐胡麻の奇蹟を喜んだ。つまり、神が私をあわれんでくださっているから、神は思い直されると思っている。
7節:しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。
翌日の夜明けには、神が一匹の虫を備えられた。あっと言う間に唐胡麻を枯らす虫。これも神の御業である。この事によって、神は気付きを促しておられるのだが・・
8節:太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
覆いの無い状態に加え、東風(熱風)が神によって吹き付けられた。熱中症相当のダメージ
なぜ、唐胡麻を枯らすのか?そのまま日除けにしてくれればよいのに!と思うヨナ。
ヨナは弱りはて、神に、怒りを込めて、死を願った。「死んだほうがましだ!」
9節:すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
ヨナは、神の唐胡麻がヨナを守り、神の異邦人滅亡の裁きを期待し見物していた。
異邦人ではなく、北イスラエルが先に救われなければ、という思いがあった。
本来の「神の民の使命」とは?⇒神の民として、全人類に対するお手本となること!
神の栄光を実現する働き手となり、その栄光をたたえる! はずなのに・・
ヨナは言う。「死ぬほど怒るのは当然です。」・・自分は正しい!と言い張るヨナ
10節:主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
11節:ましてわたしは、この大きな都ニネべを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
自分は何の労も払わず、一夜で生い茂った唐胡麻が枯れた。普段は気にもしない唐胡麻が、今は日除けとなり、とても喜んだ。しかしそれが無くなり、それを惜しんでいる。
あなたにとって異邦人は何の役にも立たず、むしろ害に思えるかもしれないが、わたしの目から見れば、その中にも惜しまれる人々がいるのだ。
何が神で、正義と公正が何かを分からない、また、未来のこともわからない12万人以上の人たちや、家畜がいるのだ!
神は、決して異邦人を無関心に裁かれてはいない。あわれんでおられることは明確。
だからこそ、イスラエルの民が正しく神の民として立ち上がってほしいと願っている。
こうした神の思いに応答することも、神の子のあるべき姿であることを覚えよう!
神が、ヨナに御言葉をかけて、この書は終わっている。
多分、ヨナは死ななかったと思う。そして、神は、ヨナの言う思い直しはされなかった。
この最後の一言に、ヨナはどういう反応をしただろうか?ここに答えはない。
これまでのヨナとこれからのイスラエル
オバデヤ1節~7節
オバデヤの名前の意味は、主のしもべ。
活動場所は、エルサレムを中心とした南ユダ王国である。
【執筆時期について】
オバデヤ書と他の預言書との関係➡エレミヤ書、ヨエル書で、数か所用いられている
エレ49:7、 49:9~10、 49:14~16、ヨエル1:15、2:32
【歴史的事件との関係(オバデヤ10~14)】
Ⅱ歴21:16~17・・ペリシテ人とアラビヤ人によるエルサレム侵略(BC845年)
Ⅱ列24:1~・・ネブカデネザル王の侵略(BC605年~BC586年)
どちらを指しているか?と言うことになるが、
中川先生はBC845年頃としておられる。
BC845年なら、小預言書のトップバッター。他の預言書に影響を与える存在。
BC600年頃なら、バビロン捕囚前の小預言書の殿(しんがり)。
⁂二つの考え方があるとして、学んで行きましょう。
【エドムについて】
エドム・・・ヤコブの双子の兄であるエサウの子孫。二人の父はイサク。
エサウは死海東南のセイルの地に移り住み、子孫がエドム人となる。
「赤い」(アードーム)体毛からこの名がついたとされる。
新約に出てくるイドマヤ人は、おもにエドム人の子孫である。(マコ3:8~)
ヤコブとの血縁は、モアブ人、アンモン人より濃く、また、確執も相当に根深い。
エドムの系図
1節:オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう言われる。――私たちは主から知らせを聞いた。使節が国々の間に送られてこう言った、と。「さあ、立ち上がれ。エドムと戦おう」――
「幻」・・・・神の声を聞き、ヴィジョンを見せられた。
明確に語ることができるヴィジョン。私たちが思う幻とは違う!
神が国々に使節(御使いか預言者か)を送られたということを聞いた。
内容は「さあ、立ち上がれ。エドムと戦おう」。国々をそういう行動に向かわせる思い。
エドムに対する復讐のための裁きが下される・・・約束
民20:14~21
40年の放浪を終え、約束の地カナンに入る際、エドムの地を通る許可を真摯に
求めるが、エドムは徹底的に拒否し、軍隊まで出す。結果、迂回することとなる
兄弟の血筋でありながら、エドムはイスラエルに最も敵対する存在となる。
2節:「見よ。わたしはおまえを国々の中で小さい者、ひどく蔑まれる者とする。
エドムが裁かれる時、諸国の中で最も蔑まれる民となる。(15~16節で語られる)
3節:岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。
4節:鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。――主のことば。
エドムの地域は岩地の高所。住まいだけではなく、エドムの高慢な心の状態を表す。
自らをだます行為→サタンの思うつぼに嵌っている状態。
だれも私を引きずり落とせない。安住しているように見えるが、・・・
その驕りがどこまで行きつこうと、必ず神は、エドムを引きずり降ろす。
これはまるで、サタンへの宣言のように聞こえはしないか!
最終的に神は、背後に暗躍する悪も処理される。
それが私たちに約束された真の勝利!
5節:盗人がおまえのところに来るなら、しかも夜に、荒らす者が来るなら、――いかに、おまえは荒らされることか――彼らは欲しい分だけ盗んで行くではないか。ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。
一切の目こぼしが無いほどに攻め入る者(軍隊)。
思いがけず、何のあわれみもなく、徹底的に打たれるエドムの姿が暗示されている。
6節:ああ、エサウは捜し出され、その秘宝は見つけ出される。
新共同訳:「いかに、エサウの富は探し出され 宝は奪い取られることか。」
権威や権力、財力などに安住しているように見えて、実は「一寸先は闇」の状態
7節:おまえと同盟を組む者たちがみな、おまえを国境まで送り返し、親しい友がおまえを欺いて征服する。おまえのパンを食べていた者が、おまえの足もとに罠を仕掛ける。こんなおまえに英知はない。
それまで築かれた同盟関係諸国は、助けることもなく、むしろ攻める者が出てくる。経済関係にあった諸国も、エドムを陥れる活動へと変わる。
もうエドムと組む国はなく、それはエドムが何の知恵もなく、信頼されなくなる状況の暗示
オバデヤ8節~14節
何故、エドムは諸国から信用されず、裁かれることになるのか?
エドムの足跡
歴代王 | 該当聖書箇所 | 内容 |
---|---|---|
(荒野放浪最後の迂回事件) | 民20:14~21 | 嫌がらせ |
サウル王 | Ⅰサム14:47 | 戦い |
ダビデ王 | Ⅱサム8:13~14 | 戦い |
ソロモン王 | Ⅰ列1:16~22 | 制圧 |
ヨラム王(北)+ヨシャパテ王(南) | Ⅱ列3章 | 協力してモアブを攻めるが |
ヨシャパテ王(南) | Ⅱ歴20章 | 逆に、エドムの軍が滅ぼされる |
ヨラム王(南) | Ⅱ列8:20~22 | エドム独立するⅡ歴21:16~17 |
アマツヤ王(南) | Ⅱ列14:7~ | 1万人を打ち、セラと言う町を倒す |
アハズ王(南) | Ⅱ歴28:16~19 | エドムがユダを攻め、捕虜にする |
王の年代表
南ユダ王 | BC | 善か悪か | 北イスラエル王 | BC | ||
---|---|---|---|---|---|---|
1 | レハブアム | 931~913 | X | 1 | ヤロブアム | 931~910 |
2 | アビヤム | 913~911 | X | 2 | ナダブ | 910~909 |
3 | アサ | 911~870 | 〇 | 3 | バシャ | 909~886 |
4 | ヨシャパテ | 872~848 | 〇 | 4 | エラ | 886~885 |
5 | ヨラム | 853~841 | X | 5 | ジムリ | 885(7日間) |
6 | アハズヤ | 841~841 | X | 6 | オムリ | 885~874 |
7 | アタルヤ | 841~835 | X | 7 | アハブ | 874~853 |
8 | ヨアシュ | 835~796 | 〇 | 8 | アハズヤ | 853~852 |
9 | アマツヤ | 796~767 | 〇 | 9 | ヨラム | 852~841 |
10 | ウジヤ | 792~740 | 〇 | 10 | エフー | 841~814 |
11 | ヨタム | 750~732 | 〇 | 11 | エホアハズ | 814~798 |
12 | アハズ | 743~716 | X | 12 | ヨアシュ | 798~782 |
13 | ヒゼキヤ | 729~687 | 〇〇 | 13 | ヤロブアムⅡ | 793~753 |
14 | マナセ | 697~643 | X X X | 14 | ゼカリヤ | 753~752 |
15 | アモン | 643~641 | X | 15 | シャルム | 752(1ヶ月) |
16 | ヨシヤ | 641~609 | 〇〇〇 | 16 | メナヘム | 752~742 |
17 | エホアハズ | (在位3ヶ月) |
X | 17 | ペカフヤ | 742~740 |
18 | エホヤキム | 609~598 | X | 18 | ペカ | 740~732 |
19 | エホヤキン | (在位3ヶ月) | X | 19 | ホセア | 732~722 |
20 | ゼデキヤ | 597~586 | X | 20 | ||
21 | ゼルバベル | 〇 |
エドムの歴史
詩編137篇・・・バビロン捕囚の中で歌う悲しみと決意の歌。
「主よ 思い出してください。エルサレムの日に『破壊せよ 破壊せよ。その基までも』 と言った エドムの子らを。」
バビロン捕囚前は、エドムは南ユダと同盟を結んでいた。ところが、・・
バビロンがエルサレムを攻撃すると、バビロンに加担し、裏切った。
更に捕囚された後のエルサレムに入り、自分の土地だと主張し喜んだ。
それを見たバビロンはエドムを罰するために攻めた。
その後、BC5世紀にアラブ系のナバテヤ人がエドムを攻め、ボツラから追い出し、 ボツラはナバテヤ人のものとなり、エドム人は西のイドマヤに移る。
更にこのイドマヤ人はユダヤ地方に移り住み、ユダヤ教に改宗させられた。
時が流れて、BC47年には、イドマヤ人アンティパテル2世はユダ、サマリヤ、ガリラヤの行政長官となり統治した。
彼の息子が、ユダヤの王に任じら、それがヘロデ大王である。彼はイエスを抹殺しようとした人物である。
ヘロデ大王は、エドムの末裔である!!
その後、66年にユダヤの反乱が勃発。イドマヤ人も戦うが、70年にイドマヤは民族として表舞台から姿を消す。(離散した者があったようだが・・)
エドムのイスラエルへのいじめは、神への反抗であり、犯行である。
エゼ35:5~15を通して、神の怒りを知ろう!
こうして旧約と共に存在を消すエドム
イスラエルは現在、国として存在しているが、エドムは存在していない。
こうした情報を踏まえ、エドムの罪について学びます。
8節:その日には、―主のことば― わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。
「その日には、」・・主の裁きの日。これは、「主の日」とは異なる表現で、エドムを裁く日に限定している。これは将来の患難時代の予表である。
英知・・それは神の知恵、神の民の兄弟としての絆による祝福は取り去られる。
9節:テマンよ、おまえの勇士たちは気をくじかれる。虐殺され、エサウの山から一人残らず断ち切られる。
10節:おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。
「テマン」・・・エドムの一つの町。テマンの町も防御にはならず、皆殺しにされる。
その原因は、神が恥ずべきと見る、兄弟として相応しくない行動のためであり、永遠に裁かれることになる。
11節:他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。
敵(連合軍)がエルサレムを攻める時、見ぬふりをしていた。まるで、その一員であるかのようであった。(兄弟部族でありながら)
※くじ引き・・一国で攻めたのではないことがわかる
12節:おまえは兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜んではならない。その苦難の日に大口をたたいてはならない。
兄弟筋であるにもかかわらず、イスラエルの民の災難、そしてその滅びを喜び、大口を叩くとは、何たることか。
13節:おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。
エルサレムのわざわいの日にその門に入り、その破滅の日にそれを眺め、さらにその財宝を我がものとする。
14節:その逃れる者を断つために、別れ道に立ちふさがってはならない。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡してはならない。
逃れようとする者たちを助けるどころか、その逃避を邪魔し、それらを捕まえて捕虜として売り渡すようなことをする。
ペリシテ、アッシリヤ軍、またネブカデネザル王の侵略時に、このように動いたエドム。
むしろ、血族同士、小国同士なら助け合えばよいのだが・・・
血によって深いはずの絆が、他国にないほどの陰湿な態度となっている。
オバデヤ15節~21節
15節:なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
オバデヤは実際のエドム民族の滅亡と共に、メシア的王国に至るまでのエドムの滅びを見せられている。近未来と遠未来が重なるヴィジョン。
人の目には、エドムの裁きは70年に終わっているように見えるが、神の目線では、終わっていない。エドムの地にかかわる裁きが継続している。
エドム、モアブ、アンモン人などの子孫は、今のアラブ人に吸収されたとされる。
エドムのようなイスラエルへの呪い(嫌がらせ)は神への呪い(反抗)である。
アブラハム契約の存在
あなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう
エドム民族は歴史から姿を消したが、エドムの地、セイルの山は残り、そこに根付く民が存在する。恵みの時代になり、ディスペンセーションは進展したが、あの陰険な行為をするエドムに対する、神の裁きは終わっていない
この個所は「主の日」であり、患難時代を指している。その時裁かれる諸国の中にエドムがいる。つまりエドムのように振る舞う諸国。(もしくはエドム人の血を引くリーダーの国の存在など)この時、自分たちが行った仕打ちが自分たちに降りかかる。(箴言26:27)神の報いが彼らに下される。
16節:おまえたちがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする。彼らはまるで、いなかった者のようになる。
大患難時代には、エドムのような諸国がエルサレムで勝利の美酒を飲むが、それは実は神の怒りの盃である。神の怒りの盃を飲むことは、裁きと滅亡を意味する
17節:しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。
大患難時代の最後に、イスラエルの逃れる者(残れる者・レムナント)がエルサレムに戻ってくる。
ヨエル2:31~32 主が再臨され、神による統治が始まる!ハレルヤ!!
この時、イスラエルの民の土地(領地)が明確にされる。つまり、約束の地が完全に与えられ、これはアブラハム契約(土地の契約)の成就を意味する。
栄光の身体による復活は語られてはいないけれども、新たな世界が始まることが預言されている。
18節:ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」主がこう告げられたのである。
イスラエルの復興は火の如く、そしてエドムはその火に焼き尽くされる。
イザ34:9~10・・「エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わる。その地は燃えるピッチになる。それは夜も昼も消えず、その煙はいつまでも立ち上る。そこは代代にわたって廃墟となり、もうそこを通る者はだれもいない。[千年王国の間、ずっと燃え続け、くすぶり続ける状態]
勝者と敗者が明確に区別される。エサウを筆頭とするエドム人の如く、神に反抗し続ける者はすべて、患難時代、千年王国後に裁かれ滅ぼされる。(永遠の死へ)
19節:ネゲブの人々はエサウの山を、シェフェラの人々はペリシテ人の地を占領する。また彼らはエフライムの野とサマリヤの野を占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。
20節:イスラエルの人々に属する、この一群の捕囚の民はカナン人の地をツァレファテまで占領し、セファラデにいるエルサレムからの捕囚の民はネゲブの町々を占領する。
オバデヤは、実際に分けられる土地の状態(約束の地)を見せられている。つまり「メシア的王国の実現」を目の当たりにしている。
・ネゲブの人々―――→シメオン属 エサウの山(セイルの山地)を支配
・シェフェラ(低地)の人々―→ユダ属 ペリシテ人の地を支配
―→エフライムとサマリヤの平野を支配
・ベニヤミン族―――→ヨルダン川東部のギルアデを支配
・捕囚から戻る民―――→ツァレファテ(レバノンの町)を支配
・セファラデ(スペインの町)からの捕囚民―――→ネゲブ(南の町々)を支配
約束の地がイスラエルに与えられる時が来る!
21節:救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主のものとなる。
救う者たち・・・この預言では明確ではないが、イエス様を含む天の軍勢。
奥義のため、この時代イエス様は示されていないが、これはイエス様の再臨。
エサウ、つまりエドムの子孫や同類の悪魔に同調する者たちを裁き、エルサレムに神の王国が建ち、神、すなわちイエス様による統治世界が始まる。
ミカ1章1節
1節:モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。
預言者ミカについて:
「ミカイヤ」の短縮形で、「誰が【主】のようであろうか」と言う意味。
活動時期はユダの王「ヨタム」、「アハズ」、「ヒゼキヤ」の時代に跨って活動する預言者。
同時期に活動した他の預言者は、ホセア、イザヤ。中川先生によれば、イザヤとは親交があったとのこと。ホセアとも繋がりはあったと想像する。
出身地は、エルサレムから南西30キロの「モレシェテ」(所有の意)出身。
地名などの意味を用いて語る、言葉遊びのような、表現力(文才)がある。
時代背景
ヨタム王の時代 Ⅱ歴27:1~9
ヨタムは「主は完全」の意。
ウジヤ王の勢いに乗り、ウジヤ王の敬虔さに従い、ウジヤ王の如く善王と されるが、民は偶像礼拝にいそしみ、市中では神の教えは軽視されていた。
暴利を貪る利己主義(商人)の横行 → 正義と公正の衰退
城壁、城塞、やぐらを数多く建設。
アンモン人に勝利し、3年間、高額の朝貢を得ていた。
アハズ王の時代 Ⅱ列16章、Ⅱ歴28章
アハズは「彼は握っている」の意。
偶像(バアル)礼拝、人身御供など、北イスラエルに倣う。悪王。
北イスラエルのペカ王と、ダマスコのレツィン王が反アッシリヤ同盟を組むが、 アハズはその同盟入りを拒否。イザヤはこれを奨励。(イザ7:1~メシア出生預言)
ミカ書にも、イザヤ書にも、救い主の来臨に関する記述があることに注目!
イザヤの助言に従わずアッシリヤに助けを求め、難は逃れたが、アッシリヤへの 朝貢の厳しさ、偶像礼拝の強制(神殿の改築)など、かかる重圧は過酷となった。
ヒゼキヤ王の時代 Ⅱ列18~20章、Ⅱ歴29~32章、イザ36~39章
「主は(私の)力」という意。
律法への不従順が原因で捕囚となった北イスラエルを見て、父アハズの偶像礼拝を徹底的に排除し、政治的に反アッシリヤ姿勢となる。善王。
反アッシリヤ秘密同盟の締結のため、バビロンの使節に宝物倉をすべてを披露。イザヤはこの時、ユダがバビロン捕囚となると預言。(Ⅱ列20:12~19、イザ39章)
アッシリヤのセンナケリブ王は、反乱鎮圧のため遠征し、ユダのラキシュを占領し、ヒゼキヤはアッシリヤに朝貢するが、アッシリヤはユダを包囲。イザヤの奨励によりヒゼキヤは神に信頼し、その結果、一夜にして18万5千人が死に、撤退した。
病気となったヒゼキヤは、回復して15年の延命。(イザ38:1~9、日時計の証)
ウジヤ王の時代に勢力拡大は図れたが、その後アッシリヤが勢力を拡大し、ついには北イスラエルが、攻め滅ぼされる事態となる時代。
いつの時代も、リーダーの資質、見識、統率力が国家の存亡に大きく影響する。特に、アハズ王の諸行は、神の目に余る。そのような中でのメシア出生預言は、今後の厳しい道のりの表明ともとれる。
ウジヤ王が築き上げた勢力は、みるみる削ぎ落されて行く南ユダ。神への信頼が益々失墜して行くきっかけの時代。こんな時代を背景として、ミカは神の預言を語った。イザヤ、ホセアと言う二人の預言者と重なって存在していたことにも注目。
ミカ1章2節~16節
2節:すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。
3節:見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。
イスラエルをはじめとする全諸国民へ!全人類へ!神はこう語られている!!
ここまで黙しておられたが、今、法廷で、神が証人となって語られるその言葉を聞け!
3節の「見よ」は裁きを見よ!の意。証言と言うよりは、判決と裁きと言う意味。
法廷にて、判決が下される場面である。神は裁きを実施されるお方である。
全世界に対して、イスラエルの裁きを示し、判例として残している。
これは、バビロン捕囚、そして大患難時代の予表である。
4節:山々は主の足もとに溶け去り、もろもろの谷は裂ける。まるで、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。
人が高き所と崇めるところに降りて来られ、そこを踏みつけられる。すると、
山々は溶け、谷は裂ける。溶けた山々は火の前のロウソクのように溶けて、水のようになり、流れて行く!
あっと言う間に、攻められ捕囚される様子を指している。
近未来と遠未来の預言が語られていることに注目!
5節:これはみな、ヤコブの背きのゆえ、イスラエルの家の罪のゆえだ。
「ヤコブの背きとは何か。サマリヤではないか。ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。
6節:わたしはサマリヤを野にある瓦礫の山とし、ぶどうを植える畑とする。その石を谷間に投げ込んで、その基を暴く。
ヤコブの背き・・偶像礼拝。
イスラエルの家の罪・・神の教えを守らず(エルサレム神殿を無視した礼拝)、高き所を築き、おかしな犠牲を捧げる姿。
その裁きはサマリヤを瓦礫の山にし、その後ぶどう畑にする。その町の基となる石も谷に投げ捨て、跡形もなく、再生の機会も与えない!(エレミヤ26:18に記載あり)
7節:その刻んだ像はすべて打ち砕かれ、儲けはみな火で焼かれる。わたしはその偶像をすべて荒れすたらせる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに戻る。」
偶像も、利得で得た財産もすべて打ち砕き、焼きすてる。
偶像礼拝は姦淫であり、相手は遊女(サタン)。神殿娼婦との関わりは、サタンとの関わりであり、裁かれる対象である。
8節:このゆえに、私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。私はジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣く。
9節:まことに、その打ち傷は癒やしがたい。それはユダにまで及び、私の民の門、エルサレムにまで達する。
ミカはこの裁きが南ユダにも及ぶがゆえに、嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。(ジャッカル、だちょうは、廃墟などに住みつく動物の象徴。)
南ユダが北イスラエルと同様に攻められるビジョンを見て、ミカは神の御心を知り、嘆き悲しんだ。それは、民の神に対するあまりにふしだらな態度への悲しみ。
北イスラエルの傷は瀕死の重体に至る。そして、その痛みはすぐに南ユダ王国にも及ぶ。
(しかし、この時、南ユダ王国は攻められるも、既(すんで)の所でその裁きを免れる)
アッシリヤは北イスラエルを捕囚し、ユダの町々を攻め、捕囚し、エルサレムを囲んだ。
ヒゼキヤ王・アッシリヤ(センナケリブ王)の戦い。一夜にして、主が18万5千人を殺害し、アッシリヤは撤退。何とか命拾いした南ユダ・エルサレム。ヒゼキヤ王の病死の延命と重なる。
10節~16節まで神のみことばが語られる。アッシリヤ攻撃の状況説明。
次々に攻められ征服される町々。その町の名が持つ意味を用いる表現手法。
言葉遊び(パロノマジア・paronomasia)
〈中川先生の例文〉
阪神大震災の被災を受けて➡「神戸の街よ。なぜあなたは神の祝福を迎える戸ではなく、悲劇を招く戸となったのか!」
10節:「ガテで告げるな。決して泣いてはならない。ベテ・レ・アフラでちりの中を転げ回れ。
「ガテ」はペリシテの町で、その意味は「告げる」。ユダの町々の崩壊を、ペリシテに、また諸国に伝えるな!ペリシテをはじめ、諸国が喜ぶから。つまり、滅ぶということ。
「ベテ・レ・アフラ」の意味は「ちりの家」。攻められ塵のように打ち砕かれる場所で悲しめ。
11節:シャフィルに住む者よ、裸になって恥じながら通り過ぎよ。ツァアナンに住む者は出て来ない。ベテ・エツェルの嘆きは、あなたがたから、立つところを奪い取る。
「シャフィル」の意味は、「美しい」であり、とても美しい町。その町に住む者たちは、裸にされ恥じて通り過ぎる。これは捕囚されて行くということか。
「ツァアナン」の意味は「出て来る」。自分が攻められても恐れて、出て来ない臆病者。
「ベテ・エツェル」の意味は、「隣の町」。隣の町ながら、援助、約束を反故にする者。
12節:まことに、マロテに住む者は、病むほどに幸せを待ち望む。エルサレムの門に、主からわざわいが下ったのだ。
「マロテ」の意味は「苦い」。エルサレムが攻められるのを見て苦々しい思いになる。それは苦々しい思いで幸いを待ち望むことと同じである。
13節:ラキシュに住む者よ、戦車に早馬をつなげ。そこは娘シオンにとって罪の始まり。実に、イスラエルの背きが、あなたのうちに見出されたのだ。
「ラキシュ」の意味は「速く走るラクダ」。そんなラクダのように、戦車に早馬を繋いで逃げる準備をせよ。ひどく、速やかに裁かれるからだ。何故なら・・ユダの罪となる偶像礼拝を真っ先に取り入れた町だから!
14節:それゆえ、あなたは別れの贈り物をモレシェテ・ガテに与える。アクジブの家々は、イスラエルの王たちにとって欺く者となる。
「モレシェテ・ガテ」の意味は「贈り物、遺産」。攻められるラキシュが、贈り物を添えて、助けに来てほしいと懇願することになる、の意。地名の意味である贈り物という言葉を用いている。
「アクジブ」の意味は「欺き」。これらの町は期待に応えてくれる町ではない。
15節:マレシャに住む者よ、わたしは再び、侵略者をあなたのところに送る。イスラエルの栄光はアドラムまで行く。
「マレシャ」の意味は「贈り物、遺産」。マレシャに、侵略者が送られる。マレシャが 敵への贈り物となる。その栄光、つまり神の民族としての栄光は失せる。
「アドラム」の意味は「主はたたえられる」。・・・マレシャからアドラムに主の栄光は移る。新共同は、「行く」を「に去る」と訳す。しかし、アドラムも攻め落とされることになる。
16節:頭を剃れ。あなたが喜びとする子らのために、その剃ったところを、禿鷲のように大きくせよ。彼らは捕らえられて、去って行くからだ。」
「頭を剃れ、髪を剃り落とせ!」とは、悲しみの表現を示すものである。ここで、「あなたが喜びとする子らのために」とあるのは、自らの愛しい子供たちを表すとともに、ここまで語られた町の名はすべて南ユダを支える子らであるということ。
こんな風に、攻め取られた町、捕囚されてゆく民のために悲しむがよい!と言っている。
この16節は、アッシリヤのユダ攻撃の預言と共に、いずれ来るバビロン捕囚の予表である。
「去って行く」は預言的完了形と見る。
ヒゼキヤの信仰心のお陰で、アッシリヤの捕囚からは免れた南ユダ。しかし、不信仰へと下降して行く南ユダを留める術はない!!
ミカ2章1節~9節
1節:わざわいだ。 不法を謀り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。
2節:彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々を取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。
「わざわいだ。」・・最悪だ!裁かれて当然だ!落胆の「あー」と同じ。
1章で、裁きの主原因は偶像礼拝とされた。ここで更に、上層指導部の悪事(権威)を指摘する。
律法の根底にある「公正」が完全に無視されている。神の民としての価値がない。
寝床の上で悪を図る→(一日を神に感謝しない)→人の畑を奪い、家を奪う算段。
神の定めた掟を守らず、利得のために、権威、権力で貧しい人々から奪うことに熱中。
3節:それゆえ、主はこう言われる。「見よ。わたしはこういう氏族に、わざわいを下そうと考えている。そこからあなたがたは頭をもたげることもできず、胸を張って歩くこともできなくなる。それは、わざわいの時だからだ。」
神はこのような利得至上主義の上層指導者にわざわい(裁き)を下す。
それは、アッシリヤ、そしてバビロン捕囚と思われる。(大患難時代も想定されている)
胸を張って歩くことができない状態となる。(国がなく、捕囚されることの意味)
と同時に、大患難時代の契約の反故・裏切りの状況も示している。
こうした利得の追及は、時代がどんなに変わっても必ず存在する。
それは、暗躍するサタンの思う壺である。
4節:その日、あなたがたについて嘲りの声があがり、嘆きの歌が起こって言う。「われわれはすっかり荒らされてしまった。私の民の割り当て地は替えられてしまった。どのようにして私から移され、われわれの畑が背信の者に分け与えられたのか。」
5節:それゆえ、主の集会には、あなたのためにくじを引いて測り綱を張る者がいなくなる。
その日・・裁かれる日(近未来)を指しているが、大患難時代(遠未来)の予表でもある。
ミカは言う。「嘲りの声が上がり」・・人々(敵、異邦人)が自分たちを嘲り、上層部に「嘆きの歌」が起こる。
貧しい者をだまして手に入れた土地が、すべて敵国に奪われたことを嘆くことになる。
それ故、土地の分割や相続における、土地の測量士は不要。これは律法に従って歩む術がないということである。・・律法(正義と公正)がない。つまり、神が存在しない。
神の民としての存在感が無くなり、自分たちが滅ぶということを預言する
6節:「戯言を言うな」と彼らは戯言を言う。「そんな戯言を言ってはならない。辱めを受けることはない。」
「戯言を・・」、「そんな戯言を・・、辱めを受けることはない。」は、彼ら(上層指導部、偽預言者)の言葉。ミカの預言を戯言であるという。民はその影響を受ける
7節:ヤコブの家がそんなことを言われてもよいものか。主がこれを我慢されるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、まっすぐに歩む者に益とならないだろうか。
7節はミカの心情と見る。
神を信じる者たちには、そんな預言は下されないはずだ。
主はこんな悪い状態をいつまでも我慢して放ってはおられないはずだ。
こんな律法に従わない状態が、神のみわざであろうはずがない!
この私が預かったことばは真の信仰者(残れる者)には有効に働くものである!
常に神に信頼し、純粋に預言を語り、それが残れる者の道と確信するミカ
8節:「近ごろ、わたしの民は敵として立ち上がった。あなたがたは、豪華な上着をはぎ取る。安心して通り過ぎていく者、戦いから帰って来る者たちから。
9節:あなたがたは、わたしの民の女たちを、その楽しみの家から追い出し、その幼子たちから、わたしの誉れを永遠に取り去る。
わたしの民は、異邦人のような戯言を言う者になった。奪い、搾取し、虐げる者に。⇒これは上層指導部の者たちに向けて、語っている。
彼らは、黙って従う者たちや、戦いから帰って来た者たちから、上着をはぎ取るなどして、彼らを虐げ、搾取する。(神の公正、神の御心を裏切る行為)
そうして、その民の女たちをその家、国から追い出し、それらの子供たちから、神の栄光、神の偉大さ、すばらしさ、教えのすべての誉れを取り去ってしまう!
ミカ書2章10節~13節
10節:さあ、立ち去れ。ここは憩いの場所ではない。ここは汚れで滅ぼされるからだ。それはひどい滅びだ。
上層部(偽預言者)に支配されている人々(残れる者たち)への警告。
神、そして民を裏切り、人々を苦しめて、自分は「憩いの場所」であると思っている上層指導部(偽預言者)の元にいてはいけない。すぐにここを立ち去れ!
常に、神を見上げる位置、神に従う位置、そして in Christ の位置を確保しよう!
神の期待を無視する汚れた者たちを、神は徹底的に裁かれる。
近未来の捕囚を指すと共に、遠未来の大患難時代を指している
こうした近・遠未来の預言は、人間の愚行の反復性を示すと共に、この繰り返しが、「残れる者」の選別であると知るべきではないか!
これは、今も私たちへのメッセージとなっている!
11節:もし人が風の赴くままに歩き回り、『私はあなたがたに薦めよう。ぶどう酒と強い酒を』と偽って言うなら、その者は、この民に戯言を言う者だ。
風の赴くままに・・とは、「神と共に」ではなく、自分の思い(世の流れ)で歩き回る。
「私はあなたがたに薦めよう。ぶどう酒と強い酒を」と言って、この世の生き方を勧め、神の期待に沿わない虚言者こそ、偽預言者である。⇒反キリストをイメージさせる
アモス2:11~12、すでに同様の預言が示されているが、このように人間の罪の繰り返の中で、残れる者の選別がなされている。
ここでは、近未来というより遠未来の預言である。終末の事態を、神は人々の前に示されている。全人類に示す法廷判決である!
12節:ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。
10~11節において、「人の心をたぶらかす様な、戯言を言う者が現れたなら、立ち去れ。滅ぼされるから。」と神は語る。その民とは「残れる者」である。ゼカリヤ書によれば、それはイスラエルの3分の1の人数。(ゼカリヤ書13:8)
冒頭に「ヤコブよ」と語る神の目には、残れる者、真の礼拝者が映っている。
その「残れる者」を、神は必ず呼び集めると言われる。それは逃れの地を指す。
終末における「逃れの地」とは、どこか?
イザヤ:33:16「岩の上の要害」
ダニエル11:41「ヨルダンの東側の地域」
マタイ24:16「山に逃げる」
黙示録12:6「荒野に逃げた」
「逃れの地(町)」が明確に示されているのがミカ書である。
「囲いの中の羊のように」は、町の名前を“言葉遊び”的に表現したものとみる。
文中の「囲い」とは、ヘブル語で「ボツラー」であり、ボツラの羊・・と訳せる。
ヘブル語「ボツラー」は、エドムの地のボツラを指し、現在のペトラにあたる。
ミカの言葉遊びという表現法で書かれた。
そして、羊と言う「信仰の群れ」の暗示がある。
一つに集められた民(残れる者)はどうなるか?⇒ゼカリヤ書13:9
この時、イスラエルの民はメシアを信じ、一つの共同体となる。
「こうして、人々のざわめきが起こる」・・(再臨の)メシアの暗示!
13節:打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」
「打ち破る者」とは、メシア(再臨のイエス・キリスト)を指す。
キリストを信じた者たちの勝利の行進である。
彼らはその包囲を打ち破り、囲い(ボツラ)を出て進んで行く。主(再臨のイエス様)が、その先頭を歩み、水先案内人の如く、彼らを導く。
イスラエルの民が、真の神に信頼し、メシアを王として崇め従う姿が浮かぶ。
1~2章を一つのくくりと考えるとき、神の冒頭の言葉が印象深い
全人類に示した判決は、大患難時代であり、またメシア的王国の到来である
人は戯言と言うが、これが御国の福音である!!
ミカ3章1節~12節
1節:私は言った。「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を知っているはずではないか。
再び目に余る行動をとるヤコブのかしら(上層指導部)たち。
上層指導部には王も含まれると見る。
神の民と言いながら、神の律法の教え、すなわち公正と正義はどうしたのか?
神の民とは、神に信頼し、神の教えに従うことで、人間としての手本を示すもの
このような状態になることを、神は既にご存知であった(Ⅰサム8:10~18)
2節:あなたがたは善を憎んで悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その骨から肉をそぎ取る。
3節:わたしの民の肉を食らい、皮を剝ぎ取って、骨を打ち砕き、鍋の中のもののように、また大釜の中の肉切れのように、それを切れ切れに裂く。」
悪を愛し、人々から剥ぎ取り尽くす指導者たち。公正と正義は消え失せている。
前回は上着だが、今回は皮、肉、骨、食らう如き搾取を強いる。(更に激化)
北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの勢いは、多大な脅威。その恐れが、アッシリヤへの朝貢となり、属国となり下がる原因である。民に重い負荷(重税)をかけ、自分たちは影響なし。南ユダは、一体何に頼るのか?
4節:そのため彼らが主に叫んでも、主はかれらに答えない。そのとき、主は彼らから顔を隠される。彼らの行いが悪いからだ。
彼らが、表面的な礼拝をしても、主は答えない。
彼らの行動、行為が最悪の状態だからだ。(霊的位置にいない状態)
5節:預言者たちについて、主はこう言われる。「彼らはわたしの民を惑わし、かむ物が歯にあれば『平和があるように』と叫ぶが、口に何も与えない者には聖戦を布告する。」
偽預言者に対する叱責。彼らは利得を優先し、利得なき場合は敵対すると布告する。
真の預言者としての自覚なし。自己中の利得優先主義。
6節:それゆえ、あなたがたには、夜にも幻がなく、暗闇にも占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。
幻どころか、夜に見る幻(夢)さえ、見ることが無くなる。暗闇になって、先行きを知るための占い(託宣)、つまり神の導きの言葉もない。
太陽も・・新共同訳「預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。」 ⇒未来が失せる。
預言者と名のる偽預言者は、ついには人生の闇を味わうことになる。
7節:先見者たちは恥を見、占い師たちは屈辱を味わう。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。
先見者、占い師(偽預言者たち)は、自分の占いが外れることで、恥と屈辱を受ける。
口ひげをおおう・・恥を受けている様子を示す言葉。
8節:しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げる。
本物の預言者ミカ→主の霊の力。
神、そして律法への従順が、公正と正義に満ちる。それは生きる勇気を与える祝福!
利得ではなく神に信頼して生きる者の強さがある!
私たちも、聖霊をいただく身。イエス様の律法に従い、愛神愛人に満ちて生きよう!
己の利得の前に、神の義、神の愛を優先する生き方を目指そう!
自信に満ち満ちたミカは、南ユダ上層指導部の堕落を宣告する!!
9節:これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。
10節:流血でシオンを、不正でエルサレムを建てている。
明らかに王を含む指導者層への言葉である。
神が期待する公正を忌み嫌い正義が曲げられている ⇒完全に神を無視!霊的堕落は異邦人!
本来なら、公正と正義で建て上げられるべきシオン、エルサレムが、流血と不正で建て上げられている。神の目には裁きの対象にしか映らない!
神の御心の把握力!
私たちの学び ⇒自らが聖書にある神の御心をしっかりと受け止め、
神様との正しい関係をつくり、教会というイエス様の身体を建て上げる!
11節:そのかしらたちは賄賂を取ってさばき、祭司たちは代金を取って教え、預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主を当てにして、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上に及ばない」と言う。
上層指導部の体たらく。
上層部では賄賂の横行!・・不正がまかり通る。
祭司が代金を取る。・・神の権威の喪失、失墜。
金銭目当ての預言者。・・預言ではなく占いをする。
それでいて主を当てにする。神は私たちの中にいると言う偽者。北イスラエルとは違う!と言う戯言。実際には、神はもう、そこにはおられない!
12節:それゆえ、あなたがたゆえにシオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。
神の民でありながら、神を蔑ろにする者たち。その心と行いが災いを招く。
シオン、つまり神の国は畑のように耕される。つまり、無視され荒らされる。
エルサレム、神の神殿がある場所は、荒らされ(侵略され)瓦礫の山(廃墟)となる。
神殿は破壊され、その丘に人の気配がなく、木々や植物に覆われ、埋もれてしまう。
国は攻められ、荒らされ、民は捕囚され、国を失い路頭に迷うこととなる。
上層指導部の裁きは良いが、なぜ下層部の国民まで裁かれるのか?
イスラエルは、民族として神と契約関係にある。 契約の民と言われる。
王制となることの問題点が、事前に神によって指摘されている。それを押して、民は王を求めた。(Ⅰサム8:6~20)
自分で考えることを放棄し、リーダーの言葉にしか反応しない状態。常にリーダーは?であり、思考して、行動する状態にない ➡ リーダーコンプレックス
ミカ4章1節~5章1節
1節:その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。
2節:多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
3節:主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
この個所と同じ内容の預言がイザヤ2:2~4にある。
同時期に、二人の預言者に同じ預言が与えられている。微妙な違いはあるが、神が、聴取者に対して、この預言の重要性を示す意図であったと考える。
1節:その終わりの日(その日の終わり)・・とは、メシア的王国の成就を指す。ミカは、初めにメシア的王国の成就を示している。遠未来の預言である。
「主の家の山」・・エルサレムが一番高い位置となる。それは、大患難時代に、天変地異が起こり、地形が変わり、エルサレムが一番高い山となるという意味。
更に、統治する機構(再臨のイエスの統治)があることを示している。
もろもろの民‥大患難時代を通り過ぎた異邦人たちが、そこに流れて来る。新共同訳では、大河のように民(異邦人)が流れて来る、としている。
2節:大挙して異邦人の民がエルサレムに訪れるのは何故か?目的は?
「ご自分の道を私たちに教えてくださる」・・これは主が直接、その異邦人の民に指導されるということ。彼らは、メシアを受け入れはしたが、肉の命を持った異邦人である。メシア的王国での生き方を直接彼らに指導される。
大患難時代を経た異邦人たちは、その時、実際の神を見て、心底、喜びに満ちる。
エルサレムから神のことばが出るということは、エルサレムが全世界の中心的存在となり、それは神中心の世界(神による統治世界)を示す。
神の価値観が世界に浸透して行く!
3節:主は多くの民族、国々を管理され、問題を処理され、これまでの争いはなくなる。
従って、彼らに武器は必要なくなる。その武器や、武器を造る知恵は第一次産業に 回り、食料の不足はなく、それを奪い合う争いも起こらない。
4節:彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の主の御口が告げる。
経済は潤沢に回り、安定した食料事情の元、各国民が「平和」の名のもとに生活する。
これは主が約束してくださるメシア的王国のことである。
5節:まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。
そんな王国において、異邦人は自分たちの神(都合)で歩む者も出て来るが、イスラエルの民は、いつまでもこの神の約束を信頼して歩むのだ!
メシア的王国では、イスラエル人はだれも神を裏切らない。
6節:「その日―主のことば― わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。
7節:わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。
その日・・とは、大患難時代を指す。(詳細に見ればメシア再臨を指す)
足を引きずる者・・迫害を受けた者と共にヤコブ(足に支障)、つまりユダヤ人を指す。
離散しているイスラエルの民の残れる者を強い国民とする。主が彼らの王となって 永遠に統治する。それは、神が約束された御国の成就を意味している。
8節:あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」
羊の群れのやぐら・・原文では「ミグダル・エデル」で、ベツレヘム(近郊)のこと
(創35:19~21)参照
娘シオンの丘・・エルサレム
メシア的王国の時、この両地は栄光の地となる
9節:今、なぜあなたは大声で叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの助言者は滅び失せたのか。それで、子を産む女のような激しい痛みがあなたをとらえたのか。
目線は大患難時代の後半期に移っている。(産みの苦しみ・・一般的に大患難時代を指す)
大声で叫ぶのは何故か?出産の痛みに似た激しい痛みの原因は何か?
王がいない! 助言者がいない!(中川先生:議官、新共同訳:参議)
政策の失敗により、信頼できる上層指導部の存在(感)が無くなる。
リーダーコンプレックスの影響もあり、イスラエルの民は指標を失う。この事が、真の救い主の求めへと繋がることになるのではないか。
10節:娘シオンよ。子を産む女のように、身もだえして、もがき回れ。今、あなたは町を出て野に宿り、バビロンまで行く。そこで、あなたは助け出される。そこで、主があなたを敵の手から贖い出される。
イスラエルの民は虐殺され、更に連行、捕囚されて行く。
その地は、バビロン(黙示録:大きな都バビロン)。当時の世界の中心地。
多くの異邦人国家がユダ・イスラエルを攻める。
町、家々は荒らされ、婦女は犯され、町の半分の人が捕囚されるが、半分は残る。➡ゼカ12:2~5、ゼカ14:1~2
その時、主がイスラエルの民を敵の手から守られる。
10節~5章1節にかけて、ハルマゲドンの戦いの状況が語られている
11節:今、多くの国々があなたに敵対して集まり、そして言う。「シオンは汚されるがよい。われわれはこの目でじっとそれを見ていよう」と。
異邦人諸国が反キリストの号令の下、メギドの平原(イズレエルの谷)に集結し、イスラエルに攻め上る。→シオンが、滅びと言う恥辱を受ける目撃者となるために。
12節:しかし彼らは主の御思いを知らず、その御計らいに気づかない。主は、打ち場の麦束のように彼らを集められたのだ。
その異邦人諸国は神の最終的なご計画に気付いていない。結局、異邦人諸国の集結は、神の裁きのためである。
13節:「娘シオンよ、さあ、脱穀せよ。わたしが、あなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅 とする。あなたは多くの国民を粉々に砕き、彼らの不正な利得を主のために、彼らの財宝を全地の主のために聖絶する。」
異邦人諸国にたいして果敢に戦いに応じるイスラエル。神はイスラエルを励まし、神の民はその存在意義を示そうとして戦うのだが・・。
ミカの時代は、神の民としての意味が重要。
5章
1節:今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。包囲網が私たちに対して設けられた。彼らは、イスラエルをさばく者の頬を杖で打つ。
しかし、残念なことにイスラエルの軍は、完全に包囲されてしまい、敗戦する。
敵がイスラエルの管理者の頬を杖で打つ。→古代中近東の勝利を意味する象徴的行為。
ハルマゲドンの戦い(大患難時代)において、最終的に名ばかりの神の民が生き残ることはないことが示されている重要な預言である。
ミカ5章2節~15節
2節:「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
「ベツレヘム・エフラテ」‥ユダの山地にあるベツレヘム。イエス様出生の地。
ベツレヘムはゼブルン族の地にもある。エフラテという言葉が付くことで区別。
5章1節では、「イスラエルをさばく者」をエルサレムと見て、対照的にベツレヘムに救い主メシアが生まれることを示している。→壊滅的破壊の中に神は希望を示されている。
それが、メシアの誕生であり、更に出生地を示すことで、より具体性を示している。
メシアの出生は、昔から定まっている決定事項。→メシアの神性と人性の表現
神の民はその恵みに与れるということを認識させている
3節:それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。
彼ら→イスラエルの民を指す。
産婦が子を生む時まで→これはメシアの出生を言っているのではない。
イスラエルの民が真の信仰に立ち返ることを、お産(産みの苦しみ)に例えている。
そのとき、→真の信仰に立ち返ったとき、の意。彼の兄弟→ユダ族の兄弟部族の意。つまり、イスラエルの残れる者と共に、皆が一つになるということ。
この時、メシア(再臨のイエス様)が地上に降りて来られる
ボツラでの出来事が暗示されている!
4節:彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。そして彼らは安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。
彼→メシア(再臨のイエス様)を指す。
そのメシアによる統治の世界が始まる。メシアがイスラエルの民の真の牧者となる。
メシア的王国の成就である。
神による、真の平安な世界が実現する。
主の権威が全世界におよび、主の栄光が全人類に輝き渡る。
5節:平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。
6節:彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。
メシア的王国の成就までのプロセスが語られる。
アッシリア・・反キリストの軍勢。その軍勢がエルサレムを占拠し、更に宮殿、神殿を踏みにじる時、神の民には対抗するリーダーが立てられる。
これまでリーダーが不在だったような民にしっかりとしたリーダー(牧者(内)、指導者(外))が、完全な状態で立つ。[七は完全数、八はそれ以上と考えられる]戦うというより、導く存在となるのではないかと考える。
ニムロデの地・最初の帝国主義・・アッシリヤの地・反キリストの本拠地:同義である。
帝国主義(人間統治)の消滅を示す。アッシリヤ(反キリスト)を打つのはイエス様。
その後イスラエルの民がアッシリヤ(異邦人諸国)を管理することになる。
7節:そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。
イエス様の力により、イスラエルの民は、大患難時代の最後において、神に信頼する民となったことを目撃する異邦人の善き手本となる。選民としての働きが成就。
8節:ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎるときには、踏みにじり、かみ裂けば、助け出す者はいない。
一方、イスラエルの恥を見たいと願って争った異邦諸国にとっては、イスラエルの民の主が、徹底的に裁かれる。助ける者はいない。反キリストも助けにならない。
9節:あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。
神は、イスラエルに敵対する者に御手を上げ、それらの敵は皆、滅ぼされる。
10節:「その日―主のことば―わたしはあなたのただ中から、あなたの馬を滅ぼし、戦車を打ち壊し、
11節:あなたの国の町々を絶ち滅ぼし、要塞をみな破壊する。
12節:わたしはあなたの手から呪術者を断ち、占い師をあなたのところから絶やす。
13節:わたしは、あなたのただ中から、刻んだ像と石の柱を断ち切る。あなたはもう、自分の手で造った物を拝まない。
14節:わたしは、あなたのアシェラ像をあなたのただ中から根こそぎにし、あなたの町々を滅ぼし尽くす。
15節:わたしは怒りと憤りをもって、わたしに聞き従わなかった国々に復讐する。」
敵国がどのように滅ぼされるかが語られる
敵国の軍隊を壊滅させる。武器や争う道具は完全に消え失せる。
国の町々、要塞を全て破壊する。武装の必要がない状態になる。
呪術者、占い師は完全に断ち滅ぼされる。信頼すべきは神のみである。
偶像礼拝を完全に排除する。当時はアシェラ、大患難時代は反キリストである。
神に信頼しない者には、獅子が噛み裂く如き厳しい裁きが下る。
それまで信頼していたものが音を立てて崩れて行くことになる。
ミカ6章1節~16節
1節:さあ、主の言われることを聞け。立ち上がれ。山々に訴えよ。もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。
2節:山々よ、聞け。主の訴えを。変わることのない地の基よ。主がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される。
全地を法廷とし、今神がご自分の民を訴える。
証人は山々、もろもろの丘、地の基。人間と較べると不動の存在。
だからイスラエルの民よ!神の言われることに反論してみよ!
被造物の中で、人間は良く変化する存在である。それは心の問題。
法廷と言う状況に置くことで、民の客観的な判断が期待できる。
3節:「わたしの民よ、わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。わたしに答えよ。
わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにして煩わせたというのか。
全知全能なる神が、ここまでへりくだって、民に尋ねている姿に注目!
契約の神は、自らの責務を果たす。問題は人間側の責務が果たされていない。
人はその実行が出来ず、その度に神は助けの手を差し伸べられている。
その助けの手にも気づかない人間を、神は問い詰めておられる!
神は、その愛をもって、間違いなく人を救いに導こうとされている。
4節:わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを贖い出し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリアムを送った。
5節:わたしの民よ、思い起こせ。モアブの王バラクが何を企んだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは、あなたが主の正しいわざを知るためであった。」
神が良くしてくださったことを提示される。
出エジプトの出来事:奴隷からの解放
モーセ、アロン、ミリアムの存在:神の民としての在り方
モアブの王バラク、ベオルの子バラムの出来事:呪いを祝福に変えた
シティムからギルガルまで・・:40年間の荒野放浪の時の御業
神はイスラエルの民を選ばれ、契約を結び、手を差し伸べている。
しかし、民は的外れな(罪)応答しかできない!
6節:何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
7節:主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。
神の御前にどのようにひれ伏そうか。1歳の子牛の全焼のささげ物がいいのか?
それとも、あの怒りには幾千の雄羊、幾万の油か?
それとも、わたしの胎の実である長子を捧げなければならないのか?
偶像礼拝の思想に浸っている姿が見える
神の怒りに対する民の応答は、全く神の期待に反している
神の怒りのポイントがここにある!正義と公正は何処へ行ったのか?
8節:主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
6章の注目すべきことば!神の期待を代弁するミカ!
神があなたがたに、示して、教えてきたことは、正義と公正を守ること!
人がなすべき善きことは、公正と誠実 ➡ 律法に従い、歩むこと
神の期待していることは、へりくだって、神と共に歩むこと ➡ 神を恐れ、全信頼を置き、常に、正義の道を歩む
現代は「神を愛し、隣人を愛せよ」であり、いつの時代も公正と正義の実践は変わりがない!
9節:主の御声が都に向かって叫ぶ。 ―あなたの御名を恐れることは英知だ― 「聞け、杖のことを。だれがその都を指定したのか。
都・・エルサレム(南ユダ)に向かって神が語られることば。
主を恐れることは知恵のはじめであり、それをミカは、英知であると言う。
そんな素晴らしい英知をあなたがたは受け取らず蔑ろにしているのだ!
杖(牧する者・権威)のことを。➡ 杖は権威の象徴であることから、神が指摘することを聞け!となる。
だれが都を指定したのか。➡ 神は都を指定した権威あるお方
⁂新共同訳:「聞け、ユダの部族とその集会よ」(その他の聖書の訳はこちらが多い)
10節:まだ、悪しき者の家には、不正の財宝と、のろわれた升目不足の升があるではないか。
11節:不正な秤と、欺きの重り石の袋を、誤りなしとすることが、わたしにできるだろうか。
10~15節までは、特に商人(不正をする者)に対する指摘と見る。(上層部)
神が実際に采配を振るう時期(アッシリヤ捕囚)に至っても、不正はある。
不正の升で商売し、不正な財宝を所有し、ため込んでいる者たち。
律法を無視する彼らの不正の秤、欺きの重り石を、神は見逃しはしない!
12節:富む者たちは不法で満ち、住民は偽りを言う。彼らの口の中で舌が欺く。
不正をして、豊かになる。人々は、その不正の利得を隠し、虚偽を示す。
豊かな者もそうでない者も、それぞれに嘘をつきまくる。
自己中心的な考え方が蔓延 神が嫌悪する人々の心 正義と公正の欠如
13節:わたしも、あなたを打って痛めつけ、あなたの罪のゆえに荒れ果てるままにする。
おまえたちが自己中で、神に応答するから、神はそれにふさわしい応答をする。
それは、・・神の祝福がない状態となる。→至るところに神の恵みがあったのに。
14節:あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。取っておいても保つことはできず、保っていたものは、わたしが剣に渡す。
食卓に満足感がない。経済的に回復しない状態。
取っておいたものの一つは、この世の名声、権威など。これらは神の前では無に等しい。もう一つは、物質的なもので、それらはすべて断罪され処分される。
15節:種を蒔いても、刈ることがなく、オリーブを搾っても、油を身に塗ることがない。新しいぶどう酒も、それを飲むことがない。
神の裁きが下れば、いくら生産しても生産物が収穫できない状態となる。
仮に収穫して加工しても、自分たちが使うことはできない。奴隷状態。
16節:あなたはオムリの掟と、アハブの家のすべての慣わしを守った。あなたがたは、彼らのはかりごとに従って歩んだ。それは、わたしがあなたを恐怖のもととし、住民の嘲りの的とするためだ。あなたがたは、わたしの民へのそしりを負う。」
オムリ・・北イスラエルの悪王(二ツ星)。金の子牛の礼拝を用いた王。
Ⅰ列16:25~26
アハブ・・北イスラエルの悪王(三ツ星)。イザベラと組んでバアル礼拝を奨励。
Ⅰ列16:30~33
新共同訳:お前はオムリの定めたこと アバブの家のすべてのならわしを保ち そのたくらみに従って歩んだ。そのため、わたしはお前を荒れるにまかせ 都の住民を嘲りの的とした。お前たちはわが民の恥を負わねばならぬ。
南ユダの上層指導部(王も含む)たちに語り掛ける神のみことば。
オムリやアハブのとった行動に従うようにされたのは何故か?
自分たちで、偶像を選択したと思っているだろうが、実は神がそう導いた。
あなたが恐怖の元となり、住民を嘲りの的とするためである➡気付きの促し
この結果をもたらした者としてあなたがたはそしりを受けることになる➡これは近未来に確実に起こるバビロン捕囚を語っている。
ミカ7章1節~10節
1節:ああ、なんと悲しいことだ。私は夏の果物を集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる時のようになった。食べられる房は一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。
「ああ、」絶望的、最悪の状態を見て、思わず漏れることば。
夏の果物を集める・・とは、残りの物を集めるという意味か。→新共同訳では、「わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。」と訳されている。
この果実畑は?➡イスラエルの国を指している
となると、果実は?➡ぶどうも初なりのイチジク(おいしいらしい)もない。→つまり、真の信仰者である残れる者が全くいない状態を示している!
今、ミカが語っているビジョンは、携挙が終わった後の患難時代である!
2節:敬虔な者はこの地から消え失せ、人々の間に、心の直ぐな者は一人もいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。
敬虔な者はこの地から消えて居ない。(滅びる、消滅する)人々の中に「義」なる者は存在しない状態となる。➡「携挙」発動直後の状態
世界には自己中心的な思いがはびこり、それは互いに人を殺し合い、捕囚するような時代である。
明らかに、国同士の争いが起こり、敵を殺し、捕虜とするようなことが日常の世界。
3節:彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人もさばき人も賄賂を求める。有力者は自分の欲するままを語り、こうして事をねじ曲げている。
4節:彼らのうちの善良な人も茨のようだ。心の直ぐな者も茨の生け垣に劣る。あなたを見張る者の日、あなたの刑罰の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。
地上に残った者たちの手は悪事を行うのに秀でて、不正を取り締まる役人や 裁判官などが法の網をくぐり、賄賂を求めて不正を平気で行う。
有力者、すなわち影響を与えるような存在感のある人物も、好き勝手なことを語り、神には触れず、嘘を真実のように語る。
善良な人、正しい人も肉的なもので、彼らに隣人愛のかけらも無く、霊的価値の無い存在となり、こうして刑罰の日(DKNJ)が来る。(心の直ぐな者はいない)
神の裁きであるDKNJは、速やかに訪れる。そして、その裁きを見た者は大混乱することになる。
5節:あなたがたは友を信用するな。親しい友も信頼するな。あなたの懐に寝る者からも、あなたの口の戸を守れ。
6節:子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。
相互の信頼関係が壊れる世の中になる。殺伐とした、利己的社会。
それは、夫婦の間でもそのようになる。
親子関係が崩れ、家族関係が崩壊。
互いが敵であるかのような疑心暗鬼な社会。
➡おもに内面的、霊的な崩壊が取り上げられている。➡解決策はイエス様!
かつて中国で、小さな子供が親の反共主義を告発し、親は処罰され、政府はその子を称え上げた➡見習いましょうと!
公正と正義、つまり愛のない世界は、殺伐とした荒野に一人生きるようなもの。
7節:しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。
「しかし!」・・・絶望の中に光る希望。信頼が生み出す活力。決して衰えぬ信仰心。
「私」とは、ミカであり、またイスラエル民族の代表的な表現。更に言うなら、イスラエルの残れる者、真の信仰者を指すと考えられる
「待ち望む」・・・ボーっとではない。絶対に救いがあると確信して待ち望む信仰心。
「私の神は・・・」が新共同訳では「わが神は、わたしの願いを聞かれる。」
私たちの待ち望む姿勢を、今一度吟味してみよう!ミカのように、パウロのように!
8節:私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。
ミカは、患難時代の裁きについて、その原因を知り、また、悔い改める者が出ることを 信じている。これは確信に満ちた信仰の表明である。その信仰が言わせる言葉。
私の敵よ➡これは、勝利を目前にして喜ぶ、イスラエルの敵に対してのことば
闇の中に座しても、主が私の光だー! それはシャカイナ・グローリーとの一体感!
恵みの時代の私たちにとってシャカイナ・グローリーとは、光なるイエス様!私たちの希望!
神の子、光の子として、この信仰心を持ち続けようではないか!
これこそが、神が私たちに期待している真の信仰者、礼拝者。
神の絶対的主権を認め、全幅の信頼を置く信仰を確立しよう!ハレルヤ!
9節:私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。
DKNJという史上最大の裁きの渦中の状態。その原因をミカは知る。
その裁きは甘んじて受けなければならない。
最終的にイスラエルの民がイエス様を求めることで、民は義とされる。
「光に連れ出してくださる。」S/G(神の栄光)の元へ・・メシア的王国へと導いてくださる。(私たちのS/Gとは、キリスト・イエス!)
「私は、その義を見る。」・・イエス様の姿が現れる。神の義なる世界が目前に広がる。
10節:私の敵はこれを見て恥におおわれる。彼らは、私に向かって「あなたの神、主は、どこにいるのか」と言った者たちだ。私の目は、確かに見る。今に、敵は道の泥のように踏みつけられる。
かつて「あなたの神、主はどこに・・・」と嘲った敵は、メシアを目の当たりにして、驚愕する。信じられないことが起こったからだ!
実際には、DKNJの最終局面であるメシアの再臨を指していると考えられる。
再臨のイエス様がその力を示されるとき、敵は真の恐れを体験することになる。
ミカは確実な勝利を見せられている。これはミカにとっては事実である。
アッシリヤの如き大国が、あっと言う間に主に打たれる映像が、未来と重なる。
ミカは叫んでいる!私のように、神に信頼せよ!神は本物であり、真実であり、現実である!
ミカ7章11節~20節
11節~13節まで「」はないが神のみことば
11節:あなたの石垣を建て直す日、その日、国境が広げられる。
バビロン捕囚後の神殿再建と思われがちだが、16~17節に結びつかない!
このことばは、メシア的王国を指す。DKNJ以後の回復、拡張を示している。
この11節に至る「DKNJ」の部分が、まだ表現されていない。(イザヤ28:14~22に記載がある)
12節:その日、アッシリアとエジプトの町々から、エジプトから大河まで、海から海まで、山から山まで、あなたのところに人々がやって来る。
この個所と同じ表現をする箇所がイザヤ書にある。イザヤ11:11~16
離散していたイスラエルの民が集められ、その地に住まう。(人々とはイスラエルの民)
イザヤ27:13、ホセ11:11、ゼカ10:11~12
13節:しかし、その地は、そこに住む者たちのゆえに、彼らの行いの実によって荒れ果てる。
しかし、その地は、・・・→しかしその前に、その地は、・・・と言う意味合い。
11~12節でメシア的王国の成就を、神は示された。そして13節で、そこに至るまでの状況つまり、10節の「敵を泥のように踏みつける」事態であることを示していると見る。
彼らの行いの実とは、イスラエルの民の罪。
メシア的王国が立つ前に、イスラエルの罪により、地上のすべてが荒廃する。
イスラエルの罪のせいであり、そのことについて、既にミカは9節で述べている。
14節:どうか、あなたの杖で、あなたの民を、あなたのゆずりの群れを牧してください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。どうか、彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。
林の中、果樹園の中、と言う表現は、メシア的王国の建つ以前、イスラエルの民は離散の状態であることを示している。離散したイスラエルの民を、あなたが集め、牧してください。あの繁栄していた時のように。どうか彼らが、豊かな土地で豊かに育まれますように、という意味。
この時ミカは、かつてのイスラエルの繁栄の時、ダビデ、ソロモンの時のように、北から(バシャン)から南(ギルアデ)まで、つまり、土地の回復と約束の地を見ている。
15節:「あなたがエジプトの地から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼らに見せる。」
あなたが・・神に信頼する者たち、残れる真の信仰者たち。
彼らに・・異邦諸国(異邦人たち)に神は、御業を示される。
その御業は、出エジプトの時の如く、支配されていた国から解放されるように、全てにおいて、不思議なわざを示される。
イスラエルの民は、神に立ち返る。(イエス様に信頼する生き方に変わる)
16節:諸国の民は見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなります。
あなたの神は何処にいるのか?と嘲った諸国の民(反ユダヤ主義者たち)は、大いなる恥を見る。
あまりの事実の凄さに、何も言えなくなる状態。
彼らの耳は聞こえなくなる。・・と言う裁きか?
17節:彼らは、蛇のように、地を這うもののように土をなめ、震えながら自分たちの洞穴から出て来ます。そして、私たちの神、主のみもとで、おじ惑い、あなたを恐れます。
裁きを恐れる異邦人諸国。蛇(サタン)に従っていたことを暗示しているようだ。
真の神の存在を知ったとき、悔いと悲しさ、虚しさに襲われる。マタイ25:31~34
18節:あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。
ミカの名前の意味は?・・・「ミカイヤ」の短縮形で、「誰が【主】のようであろうか」
「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。」・・は、自分の名前と掛けている。
これは、言葉遊びと言うよりも、ミカの人生を掛けて証しているミカの思い!
ミカの人柄が見えてくる。
エジプト脱出後、モーセも出15:11で語っている。真の信仰者を目指そう!
神は必ず最後に、神の民として、残れる者を祝福される。決して怒り続けない神!
私たちの神は、恵みを与えることを喜ばれる神!
19節:もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。
10節で「敵は…踏みつけられる」とあり、また15節で神が語られた「あなたがエジプトの地から・・・」のことばの背景にある、エジプト軍が海の底に沈んだ大事件を思いつつ、全てはイスラエルの民の回心のためであることをミカは知ったうえで、神に祈っている。
敵を倒すというよりも、裁きを通して、イスラエルの民が、神の期待に応え、神の民、
真の信仰者として立ち返ることが最も重要。
ミカは契約の存在を認識している
20節:昔、私たちの父祖たちに誓われたように、ヤコブにまことを、アブラハムに恵みをお与えください。
ミカは、神のご人格も、そしてその御心(ご計画)をも、よく把握していた。
神は約束を守られるお方。ヤコブに約束され、そしてアブラハムに契約を示された。
出エジプトはアブラハム契約の結果であり、最終的にはDKNJ後に、その契約が果たされることになる。すべての契約が、そのときに成就するということ。
ミカは、心の底から、真の恵みがイスラエルの民に与えられることを祈ってやまない。
ミカはメシア的王国が来ることを見せられ、その到来を確信している。
私たちの信仰は、こうした預言者たちの証言、そして新約の使徒たちの証言に信頼し、
神を100%信頼する。
ハガイ1章1節
ハガイの名前は、ヘブル語の「祭り(ハグ)」から来たもの。父親は不明。
活動場所はユダ、エルサレムで、同時代の預言者は、ゼカリヤ。
活動期間は、「ダレイオス王の第二年」の3~4か月間。書自体も旧約では2番目の短さ。
「ダレイオス王の第二年、第六の月の一日」とは、BC520年である。
ペルシャの王キュロスのあと、カンビュセス2世、そしてこのダレイオス大王となる。
キュロス王がバビロン捕囚からの解放と神殿再建を許可!
「ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。」 エズラ記1:1より
・ハガイを通じて、神が語った相手は・・・
シェアルティエルの子ゼルバベル 総督 ⇒ 王族:政治活動担当
エホツァダクの子ヨシュア 大祭司 ⇒ 祭司:霊的指導担当
(エズラ3:2、5:2に記載あり エズラ、ネヘミヤ記は捕囚解放後の記録である)
バビロン捕囚に関わる聖書
預言書による近未来預言のバビロン捕囚であるが、その捕囚期間中、そして解放後について記されている書が、エズラ記、ネヘミヤ記、そしてエステル記である。
エレミヤ書には29:10において、『バビロンに70年が満ちるころ、・・』という記載があり、捕囚からの解放を預言している。預言者ダニエルもその書9:2でそれを認識していることが分かる。
では、捕囚期間の考え方は・・・二つの起点が考えられる。
捕囚解放から神殿建設までの経緯
イザヤ書44:28~45:13の預言 ⇒ キュロス王を用いてバビロン捕囚解放を預言している。イザヤの時代にすでにキュロス王の名が出ていることは、驚愕的事実。
エルサレムが陥落してから48年経過したBC538年にペルシャの王キュロスがバビロンを攻め(無血制圧)、同年、イスラエルの民にエルサレムへの帰還と神殿再建の許可が出された。
キュロス王は異邦人(ペルシャ人)でありながら、イスラエルの民を捕囚から解放し、神殿再建を許可する、神に用いられた人物。彼はエルサレム神殿再建のため、バビロンが略奪した宝物も解放して提供した。
キュロス王について①
Ⅱ歴36:22~23、イザヤ44:28、45:1~8、エズラ1:1他
預言書と言う観点から、注目しよう。
・メディア王国に属する小国の王が、後にメディア王国を倒し、アケメネス朝ペルシアの初代王として立つことになる。バビロンと異なる政治姿勢は、公正という点で特筆すべき点である。
・イザヤ書が書かれた時期はおよそ100年前であり、バビロン捕囚は勿論のこと、このキュロス王についても、名を上げて預言している。
・彼(BC600年頃 - BC529年)は、この地に生まれる前から神に用いられることが決まっていた。特に、「油注がれた者」と言う表現は、「救世主」と同じ語源であり、異邦人に用いられることは極めて珍しい。聖書に記載される記憶すべき異邦人である。
詩編139:13~
「あなたこそ 私の内臓を創り母の胎の内で私を組み立てられた方です。~」
キュロス王について②
歴史的発見→キュロス・シリンダ(キュロスの円筒)・・・キュロス王に関する記録。
1879年、イラク(バビロン)にて発見された。
・ある民族が故郷に帰還し、また「聖なる街」の再建を許可したと記されている。
キュロス王のこうした開放的な行動は、周囲圧制するバビロン方式ではなく、友好的、協調的関係を築く方式という彼の政治スタイルであったとされる。
神は、彼の気付かぬところで働かれ、結局神のみこころを行う結果となった。
ハガイ書を学ぶ上で
・長年のバビロン捕囚という経験から解放されたことは、出エジプトの経験に似る。
・モーセの時のような物理的奇蹟ではないが、人を動かす御業は奇蹟である。70年と言う期間も絶妙なのかもしれない。
・徐々に捕囚と言う身分に慣れて行く民を、神は放ってはおられなかった。
・これは神の想定内で、ペルシアのキュロス王を用いて神の民としての道へと導かれる。
・捕囚解放後の、民の立ち直りについて、神はその愛とあわれみをもって声をかけてくださる。その深い愛、約束に対する忠実さを感じ、絶対的信頼を持たずにはいられない。
・バビロン捕囚と言うイスラエルへの厳しい裁きの後、神は民をどのように回復されてゆくのか。またその後、民がどのような変化を見せるのかについて、私たちは見ておく必要がある。
ハガイ1章2節~15節
2節:万軍の主はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」
3節:すると預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
4節:「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」
5節:今、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
6節:多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
7節:万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
8節:山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。―主は言われる―
9節:あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。 ―万軍の主のことば― それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。
10節:それゆえ、あなたがたゆえに、天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめた。
11節:わたしはまた、日照りを呼び寄せた。地にも山々にも、穀物にも新しいぶどう酒にも油にも、地が産み出す物にも、また人にも家畜にも、手によるすべての労苦の実にも。」
12節:シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神、主の御声と、ハガイのことばに聞き従った。民は主の前で恐れた。
13節:主の使者ハガイは主の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる ―主のことば。」
14節:主が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。
15節:それは第六の月の二十四日のことであった。ダレイオス王の第二年、
ハガイ2章1節~9節
1節:第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
2節:「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者に次のように言え。
神の御声が発せられた月の翌月21日に、更にハガイを通して神のみことばがあった。
それは総督、大祭司、そして民の全員に向けられた言葉である。
3節:『あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
捕囚前の、ソロモンの神殿(第一神殿)を見たことがある者に聞け!その時の神殿と再建中の神殿を想像する時、その思いはどうか?
あまりに貧弱で、無いに等しく思うだろう。(経済的支援が乏しく、かつての神殿のような建設は無理!)
神殿再建に取り掛かっては見たものの、その出来の貧弱さに失望している様子が見える
内・外部から、昔の神殿に較べれば、何と貧弱な!と言われると思うと、士気が失せる。
周囲の諸国に対しても、威厳のある感じがしないのでは・・とか
4節:しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。 ―主のことば―
エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。
―主のことば―
仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。 ―万軍の主のことば―
神は、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、そして民を激励する。
「強くあれ!」と、それぞれに言葉をかけて励ます。
意気消沈しそうな皆を回復させることが、最優先事項であった。まず、神の民としての心のリセットを行うことが、神のご計画である。
周囲の声を気にせず、仕事に取り掛かれ!神の民としてのアイデンティティーを忘れるな!誰あろう、神であるわたしが、あなたと共にいるのだから!
5節:あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。』
エジプトから出てきたときに結んだ契約・・・シナイ契約・・出エジ19:5~6参照。
わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。・・・民11:16~17、25参照。
恐れるな!とは、そういう内・外部の声にたじろがず、また、建物の外見にもこだわらず、ただわたし(神)に信頼し、わたしのために神殿再建をせよ!という、強烈な励まし。
こうして徐々に、神は民の心を一新して、神に信頼する思いを芽吹かせている。
神の民としてのアイデンティティーを、神殿再建のように、神は建て上げている。
6節:まことに、万軍の主はこう言われる。『間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。
7節:わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。 ―万軍の主は言われる―
神はゴールのイメージを明確にされる。(目的意識の明確化)
天と地、海と陸を揺り動かす。・・・これは大患難時代を指している。
この天変地異は世界を揺り動かし、究極の裁きが行われる。
その後のメシア的王国において、国々からこの神殿に宝物がもたらされる。
神殿には、神の栄光が満ち溢れる。それがメシア的王国である。
だから、建設中の神殿がソロモンの神殿に劣ろうとも心配することはない!
先ずは、その先駆けとしてお前たちが神の民であることをしっかり意識せよ!
8節:銀はわたしのもの。金もわたしのもの。 ―万軍の主のことば―
9節:この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。 ―万軍の主は言われる―
この場所にわたしは平和を与える。 ―万軍の主のことば。』」
銀はわたしのもの。金もわたしのもの。・・・神と言う存在は、それらの世の富の上に君臨する絶対的主権者である。
大事なことは、豪華さや富ではなく、神の存在である!それらは、後について来るのだから。
この再建中の神殿の後の栄光・・メシア的王国
「先のもの」にまさる・・「ソロモンの神殿」よりまさる!
この争いの場所にわたしは真の平和を実現する!
この地上に神の王国が、イエス様により成就する!
「万軍の主は言われる」、「万軍の主のことば、」を何度も繰り返すハガイ。
今、神は緊急性をもって民の意識改革、目的意識の確立を図っている。
ハガイ2章10節~23節
10節:ダレイオスの第二年の第九の月の二十四日、預言者ハガイに次のような主のことばがあった。
11節:「万軍の主はこう言われる。律法について、祭司たちに尋ねよ。
12節:人が聖なる肉を自分の衣の裾に入れて運び、その裾がパンや煮物、ぶどう酒や油、またはどんな食物にでも触れた場合、それは聖なるものとなるか。」祭司たちは「否」と答えた。
13節:そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれかに触れたら、それは汚れるか。」祭司たちは「汚れる」と答えた。
同年9月24日に、ハガイを通して、祭司たちに神のことばがあった。それは、律法に関する質問。祭司には民に律法を教え、指導する役割があった。
「聖」と「汚れ」の転移についての質問
14節:それに応じてハガイは言った。「この民も、この国も、わたしにとってはそれと同じ。 ―主のことば― 彼らの手が作ったすべての物もそれと同じ。そこで彼らが献げる物も汚れている。
レビ6:25~29を参照
人(祭司以外)が聖なる肉をどうこうしても、何の役にも立たない!民は正式な手順(神に近づく方法)を忘れていた。
民数記19:11~22を参照
死人に触れれば汚れ、その人が触れるものは、すべて汚れる!汚れている者が作り出すものすべてが汚れる。それは神が受け取れるものではないことを知らない。
神の民ではなく、まるで異邦の民と同じ状態だったことを指摘
祭司に問うことで、その指導責任について再考させている ⇒民全体の問題
15節:さあ今、あなたがたは、今日から後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前、
16節:あなたがたはどうであったか。二十の麦束が積んであるところに行っても、あるのは十束。ぶどう酒五十杯を汲もうと石がめに行っても、あるのは二十杯。
「今日から後のこと」の原語「マーエラー」の解釈について。
「今日以前」と「以後」の両方の訳ができる。新改訳、新共同訳は後者を採用している。
中川先生は文脈から前者を採用。
「今日から以降、よーく考えなさい。(心に据えておきなさい)」
土台が完成後、神殿再建が中断した14~15年間のことについて思い返してみよ!
畑の収穫激減⇒20の麦束の予定が10束の収穫⇒50%減!
ぶどう酒の収量激減⇒50杯の予定が20杯の収量⇒60%減!
17節:わたしはあなたがたを、あなたがたの手が作ったすべての物を、立ち枯れと黒穂病と雹で打った。しかし、だれ一人わたしに帰って来なかった。 ―主のことば―
収穫減の原因は、神の怒りによるものである。
農作物を立ち枯れと黒穂病と雹で打った。実は気付きの促しだった
あなたがたは気付かなかったよね!
決して、民が全滅するような被害ではないところに、神の民を思う愛がある。
この事に気付かない祭司たちと民。これが神が言われる、異邦人化して死んだ民。
こうした異邦人化したともいえる民の心を、神は一新して建て上げようとしておられる。
民は思ったに違いない!あの黒穂病も雹もすべて神のなされた事だったのか~と。
改めて、自然を支配されている神の存在に気付いたに違いない!
18節:さあ、あなたがたは今日から後のことをよく考えよ。第九の月の二十四日、主の神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えよ。
19節:種はまだ穀物倉にあるのか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないのか。今日から後、わたしは祝福する。」
「今から先、よく考えよ!(どうあるべきかを)」と再度語られる神。
(中川先生の解釈ならば、以前のことをよく考えよ。そしてこれからどうするかを・・)
この9月24日の今日、神殿基礎完了から以降のことをよーく考えてみよ!
これは、心して考え、心に刻め!という意味合い。
やっと神の存在に気付き始めた民に対して、神は祝福と平安を与えておられる。
種はまだ穀物倉にあるか?不作が続けば、それを補うため種を蒔く量も増える。また収穫が減り、どんどん種が目減りして行くだろう。
ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木はまだ実をつけていないだろう。
でも心配するな!あなたがたがわたしに信頼するなら、今日から後、つまり次の収穫(来年)には、何倍にもしよう!
民の心の一新で、神は祝福してくださる
20節:その月の二十四日、ハガイに再び次のような主のことばがあった。
21節:「ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。『わたしは天と地を揺り動かし、もろもろの王国の王座を倒し、異邦の民の王国の力を滅ぼし尽くし、戦車とその乗り手を滅ぼし尽くし、戦車とその乗り手をくつがえす。馬とその乗り手は味方の剣によって倒れる。
同じその日、更に神の預言が総督ゼルバベル語られた。まるで念を押すように!!
6~9節までのことばを繰り返されている。
改めて神の裁き(DKNJ)について明言された。今度はゼルバベルに対してDKNJという裁きを示された。
その裁きが終わる時、異邦の民に対して、完全なる勝利となる。
それは、その後メシア的王国が誕生することを意味する。
味方の剣(再臨のイエス様の裁き)⇒反キリストを倒すハルマゲドンの戦い
23節:その日、 ―万軍の主のことば― シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、 ―主のことば― わたしはあなたを選んで印章とする。わたしがあなたを選んだからだ。 ―万軍の主のことば。』」
引き続き総督ゼルバベルに語られる預言。 「わたしのしもべ」と、敢えて語る神の思い。
大祭司ヨシュアも民も含まれず、総督ゼルバベルにのみ語られている。
「印章とする」の意味。⇒当時の印章とは王がつけていた指輪。いつも王と共にいる。保証と言う性質。
ゼルバベルはダビデの子孫であり、メシア的王国の王は、その子孫から生まれるイエス・キリストであるという文脈!彼はその実現のために選ばれた器である
中川先生は、この選びは千年王国において、キリストの統治下に存在するユダヤの政府に複数の首長たちがあり、ゼルバベルはその一人となることが約束された、と解説されています。
参考聖句:イザヤ32:1、エゼキエル45:8
このゼルバベルへの神の預言は、民のすべての前で語られたものと考えます。
ゼルバベルから新たな一歩が、後のメシア的王国に向けて踏み出された!!
神がそれを、公の前で宣言し、保証された。
ゼカリヤ1章1節~6節
ゼカリヤの人物像
ゼカリヤは、イドの子であるベレクヤの子。
若い頃に神にみことばを語られた預言者。
エズラ記(5:1、6:14)ではイドの子、と記されている。
→若い時、父と死別し、イドに育てられたとも推察されている。
*以下は不確定ですが、興味深い内容なので挙げておきます。
ネヘミヤ記(12:6)ではイド族の頭なる祭司ゼカリヤと同一人物の可能性あり。
ネヘミヤ記(12:4)にある第一回帰還者名簿のイドが祖父となる。
本書では預言者となっているが、ネヘミヤ(12:16)でも祭司となっており、本書の3-4章や7章3-7などから、祭司であったとも推察される。
ゼカリヤの名前は、「【主】は覚えている」の意味。
興味深いのは父と祖父の名の意味。
父ベレクヤは「【主】は祝福する」で、祖父は「彼の時」の意味。
「【主】は覚えておられ、その時(彼の時)が来たら、【主】は祝福される」となる。
彼は、エゼキエルやダニエルに似て、幻を見る預言者と呼ばれている。
「夢」と「幻」の違いについて中川先生の説明は、⇒寝て見るのが「夢」、目が覚めている時に見るのが「幻」、とのことです。興味深いですね。
幻は、一日も過ぎないうちに忘れるようなものではなく、明確に記憶されるもの。
彼の活動期間は50年(前520~前470)と言われている。(中川先生クレイより)
時代背景
当時の総督はシェアルティエルの子ゼルバベル。大祭司はヨシュア。
ダレイオス第2年に、ハガイに続きゼカリヤに預言があった。
当時、シナゴーグ(会堂)は盛んに建てられていたが、霊的には不十分であった。
ハガイの7月の預言は、民が、神殿の規模が過去と違うことを理由に、再建工事を 中断していることについて、神は、DKNJとMTOを語り、民の心を未来に向けられた。
次にゼカリヤに初めて預言があり、それは8月であった。過去をよく考え、過去と現在の預言者のことばに耳を傾け、悔い改めることを求めている
次に、ハガイは9月の預言で、民全員に悔い改めを求め、過去をよく考え、神に気付けと言い、更に、もう一度DKNJを告げて、総督と民全員を励ました。
ハガイの活動は短期間で終わるが、預言の働きが、ハガイからゼカリヤに繋がっているのがよくわかる。発信元は神お一人!二人の預言者の連動は珍しい!
1節:ダレイオスの第二年、第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。
2節:「主はあなたがたの先祖に激しく怒った。
ダレイオスの第2年、8月に、ゼカリヤにあった主の預言。
「主があなたがたの先祖に対して、激しく怒った」という過去がある。それはバビロン捕囚。バビロン捕囚は矯正的裁きである。
3節:あなたは人々に言え。『万軍の主はこう言われる。わたしに帰れ。 ―万軍の主のことば― そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。 ―万軍の主は言われる。』
ハガイへの7月の預言は、気落ちする民を励ます内容だった。
ゼカリヤへの8月の預言は、「神に帰れ。そうすれば、神もあなたがたに帰る。」という悔い改めと気づきの促しである。この後、9月にもハガイに預言し、民に悔い改めを促された。
4節:あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。『万軍の主はこう言われる。あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。 ―主のことば―
かつて、先の預言者たちはあなたの先祖に、神のことばを語っていた。
悪の道から、万軍の主に立ち返れ!と言っても、彼らは、神の元へは帰らず、耳も傾けなかった。
5節:あなたがたの先祖たちは、今どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きるだろうか。
先祖たちは既に滅んだか、捕囚の状態。預言者たちも死んだか、殺された状態。
結局、近い先祖たちは住まいを失くし、捕囚されている。預言者は死んだが、彼らの預言はすべて実現し、自分たちは捕囚となっている。神のことばは必ず成就すると、身に染みている先祖たちが目に浮かぶ。
6節:しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。それで彼らは立ち返って言ったのだ。
『万軍の主は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった』と。」
彼ら先祖たちは神に立ち返って、真剣に語った。
「万軍の主は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった。」
彼らは神の実在を体験した。神は見ておられ、神の民として相応しくなければ促しをされ、それでも無視するなら、必ず矯正的裁きがあるということを。
ハガイ書で繰り返された、「よく考えよ」のことばが心に浮かぶ!
過去を見て、先祖の堕落の道を歩まず、神に信頼することが最重要課題!
こうした切り口から、民に対する霊的覚醒(未来を見る目線)を促される神。
――――
重要なことは、神と民(人間)との正しい関係の認識である。
イスラエルの民が先祖の過ちに帰ることなく、新しい心で主に信頼して歩むように、神は民を導かれている。(それが根底にあるサタンとの戦い)
私たちも、過去の古い自分に帰ることなく、新たな神の子として、力強く歩む。神の教えは、いつの時代も同じであり、この思いに確実に応答することが神の子。
私たちも日々、霊的覚醒について意識しよう。それが聖書の示す重要な教えの一つ!
ゼカリヤ1章7節~21節
7節:ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。
8節:夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。
ダレイオス第2年、11月(シェバテの月)24日に、ゼカリヤに預言。【第一の幻】
赤い馬に乗るひとりの人・・第2位格の神の表現(受肉前のイエス様)。
谷底・・「低い地、窪地」の意味で、象徴的には異邦人世界。
ミルトスの木・・芳香常緑灌木。数メートルになるが建築材には向かず、謙虚・慎ましさの象徴。また、仮庵の祭りの小屋造りに用いられ、祝福を示す木で、終末的希望を意味する。エステル記のエステルのヘブル語はハダサであり、ハダサはミルトスの意味。
赤毛、栗毛、白い馬・・異邦人世界の統治役の天使たち。
9節:私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。
私(ゼカリヤ)は「主よ、これらの馬(赤毛や栗毛や白い馬)は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使い(受肉前のイエス様)が「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。
10節:すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされた者たちだ。」
すると、ミルトスの木の間に立っていた人(受肉前のイエス様)が答えた。「これら(赤毛や栗毛や白い馬)は、地を行き巡るために主が遣わされた者たちだ。」
*これらの馬⇒主が遣わされた者たち(異邦人世界の統治役の天使たち)
11節:すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」
すると彼ら(主が遣わされた異邦人世界の統治役の天使たち)は、ミルトスの木の間に立っている主の使い(受肉前のイエス様)に答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」
「異邦人世界を見て回りましたが、安らかで穏やかでした。」と答えるが、この穏やかさは、決して平和と言うわけではない!(15節と関連がある)
12節:それに答えて主の使いは言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」
受肉前のイエス様が、神に尋ねられた。
何故、エルサレムとユダの町々にあわれみを施さないのですか?
バビロン捕囚後、70年が経過しています。異邦人中心の世界でよろしいのですか?
⁂さて、なぜ70年なのか?
捕囚期間が70年と言う意味
エレミヤによって、捕囚期間が70年であることが預言されていた。
エレミヤ25:11~12
エレミヤ29:10
では、なぜ70年でなければならなかったのか。
出エジプト23:10~11に安息年の規定がある。7年目に土地を休ませなければならない。
イスラエルは、この規定を500年間無視してきた。
BC520年+500年=BC1020年・・・・サウル王就任の時、ユダヤの王制の開始年。
500年÷7≒70回(71.4回)となり、出エジプトの安息年の規定が取り戻された。
500年間に安息年を守っていたら、およそ70回、つまり70年は休ませなければならなかった年となる。
この事はレビ26:34~35、Ⅱ歴36:21にも記載あり。
13節:すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。
主は、私(ゼカリヤ)と話していた御使い(受肉前のイエス様)に恵みと慰めの言葉で答えられた。
14節:私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
私(ゼカリヤ)と話していた御使い(受肉前のイエス様)が語る。民に叫ぶほどに伝えよ!創造主なる神はエルサレムとシオンをねたむほどに激しく愛している。
そしてこのねたむほどの愛は、私たちにも同様に注がれている!!
15節:しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』
一方で、神は異邦人に対し激怒している。わずかしか叱らないと彼らは増長する。
やりたい放題の悪事を行う。つまり、反ユダヤ主義に走る異邦人諸国。
神殿再建は明らかに、異邦人世界に一石を投じることとなる。これは、サタンへの楔(くさび)とも考えられる。
16節:それゆえ、主はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。 ―万軍の主のことば― 測り縄がエルサレムの上に張られる。』
17節:もう一度叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」
神は明確に、神殿再建と言う事業を導かれた。民が行動するが、実際に導かれたのは神である。神が主権者である。
「測り縄が・・・」とは、測量が始まり神殿再建がはじめられたことを示す。
更にもう一度神は告げられる。神は「神が共にいる」ことを告げて、民を激励しておられる!
再建された町は良いものに満ち溢れる。
神は、そのあわれみで、エルサレムとイスラエルの民を選ばれた!
神殿再建は神の御心である。その背後には神の深い愛が示されている。
心折れることなく、確信をもって神殿再建に邁進せよ!と神は叫ばれている!
18節:私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。
新たな幻【第2の幻】が示される。それは「4つの角」であった。
19節:私と話していた御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角だ。」
私と話していた御使い(受肉前のイエス)に、これら(4つの角)は何かと尋ねる。
それは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角 ⇒ 南ユダ王国と北イスラエル王国と都エルサレムを攻め立てた4つの帝国 ⇒ バビロン、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマの4つの異邦人王国(ダニエル書に登場する)最後に出て来るローマとは、ローマに続く帝国主義国も含む。最終的には反キリストの支配となる。
20節:そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。
21節:私が「この人たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主は次のように言われた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかったあの角だ。この人たちは、これらの角を震え上がらせるために、やって来たのだ。ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためだ。」
主は4人の職人をゼカリヤに見せてくださった。
ゼカリヤが彼らの目的を聞くと、主は言われた。
ユダを散らそうとする先の4つの帝国を滅ぼす4人の人物。
1. バビロンを滅ぼしたキュロス王
2. ペルシャを滅ぼすアレクサンドロス王
3. ギリシャを倒し、ローマ帝国の基礎を築いた「ローマの将軍」
4. 反キリストによる帝国主義を打ち壊す再臨のイエス・キリスト
神は現れてくる大国に対して、神の御心の中に既に勝利の備えがあることを、この幻によって示された。
ゼカリヤ2章1節~13節
1節:私が目を上げて見ると、なんと、一人の人がいた。その手には、一本の測り綱があった。
2節:私が「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、彼は私に「エルサレムを測りに。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えた。
登場人物:一人の人(一本の測り綱を持つ人)⇒第2位格の神・受肉前のイエス様
私⇒ゼカリヤ
ゼカリヤは、幻【第三の幻】を通して、測り綱一本を持つ受肉前のイエス様に遭う。
測り綱(測量)は建設作業のスタートを示すもの。
ゼカリヤはその御使いに、「どこへ行かれるのか」と尋ねた。
受肉前のイエス様はエルサレムに行き、その大きさ(周囲)の計測のためと答えた。
3節:すると見よ、私と話していた御使いが出て行った。また、もう一人の御使いが、その御使いに会うために出て行き、
ゼカリヤと話していた受肉前のイエス様は、その場から離れて行かれた。
すると、もう一人の御使いが、受肉前のイエス様に会うために出て行った。
4節:彼に言った。「走って行って、あの若い者にこう告げよ。『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。
するとイエス様は、その御使いに命じられた。「走って行って(急いで)、若きゼカリヤに告げなさい。『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。』 ⇒ 防備が必要ない状態と、豊かさの実現は、外敵が存在しない状況を意味する。
第2神殿が完成した時は、エルサレムでは城壁が立てられている ⇒ こんな状態が実現するのは、メシア的王国のときである。
5節:わたしが ―主のことば― それを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる。
この豊かで城壁のない町とは一体何か、主なる神(第2位格の神)が、お答えになる。
神ご自身が火の城壁となる。火なる神ともいうべきイエス様が、統治して守るということが暗示されている。
決して神の目に相応しくない者は、入ることができない状態となる。
そして神は、町の中心で、栄光(シャカイナ・グローリー)を現わされる。
完全なる神の支配が成就していることが示されている。
6節:さあ、すぐに、北の国から逃げよ。 ―主のことば― 天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたのだ。 ―主のことば―
7節:さあ、シオンに逃れよ。娘バビロンとともに住む者よ。』
北の国とは、「敵」を指す言葉であり、過去のバビロン、そして未来の大バビロンを暗示している。(エレ1:13~14、ヨエル2:20)
黙示録18:1~5から、民が大患難時代に大バビロンの地に住むことが分かる。
イスラエルの民に、バビロンから逃げるように命じている。大患難時代の預言がここで語られている。神は、イスラエルの民を散らしたが、今は民を集める!
シオンに向かって逃げよ!と、バビロンに住んでいるイスラエルの民に促している。
新共同訳では、「バビロンの娘となって住み着いた者よ。」となっている。
8節:あなたがたを略奪した国々に主の栄光が私を遣わした後、万軍の主がこう言われたからだ。『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。
登場人物:「主の栄光」と「万軍の主」→同一で、第1位格の神。
私→第2位格の神(受肉前のイエス様)・・神に遣わされたお方。
「あなたがた」→イスラエルの民
「触れる者」→敵(将来の反キリストに就く諸国)
9節:見よ、わたしは彼らに手を振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちに略奪される』と。このときあなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知る。
神はイスラエルを苦しめる者たちを叩くためにイエス様を遣わされた。再臨のイエス様、そして裁かれるイエス様(火の如き裁き)を指している。
10節:『娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。 ―主のことば―
再臨のイエス様の勝利の宴会。喜び歌え、楽しめ。→神の栄光を称える姿。
神が民の中心に住む。→神が統治する平和な世界が開始。
11節:その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知る。
その日は、異邦諸国の民も主に繋がり、主の民となる。
アブラハム契約の成就をイスラエルの民は目の当たりにする。
民が呼び求めたイエス様が神によって遣わされたことを再認識する。
この再臨のイエス様は、勝利と祝福と、すべての約束の成就を実現される。
12節:主は聖なる土地で、ユダをご自分の受ける分とし、エルサレムを再び選ばれる。
13節:すべての肉なる者よ、主の前で静まれ。主が聖なる御住まいから立ち上がられるからだ。」
「聖なる土地」→「約束の地」を意味する。かつての土地の約束の成就。
エルサレムは、改めて神の住まわれる町としてリスタートする。
エルサレムを測ろうとされたという意味は、こういう未来のご計画を示すものである。
更に、神殿再建は神の民としてのアイデンティティ維持のために、建て上げられなければならないことを知らせるメッセージ!
この時、肉なる者(DKNJを通り過ぎた人類)は、主の前に静まることになる。
また、その当時の全人類(肉なる者たち)に語っている言葉ともとれる。
この幻を通して神は、神殿再建中の民を力強く励まされた!!
ゼカリヤ3章1節~10節
1節:主(第一位格の神)は、主の使い(第二位格の神、受肉前のイエス様)の前に立っている大祭司ヨシュアを私(ゼカリヤ)にお見せになった。サタン(糾弾する者)が彼(ヨシュア)を訴えようとしてその右手に立っていた。
場所は、法廷である。【第四の幻】
この法廷でサタンは、神に大祭司ヨシュアを裁くよう訴えている。
それは、ユダヤの民を糾弾しているということ!
2節:主(第二位格の神、受肉前のイエス様)はサタンに言われた。「サタンよ、主(第一位格の神)がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主(第一位格の神)が、おまえをとがめる。この者(ヨシュア)は、火から取り出した燃えさしではないか。」
すると神は、「糾弾するサタン、お前の方を責める。民は火から取り出された燃えさしだ。もう、十分ではないか!」と逆に責める。
「エルサレムを選んだ主」・・捕囚の間も、神はエルサレムを見ておられた。
「火から取り出された」・・十分に裁かれたという意味。故に燃えさしなのである。
3節:ヨシュアは汚れた服を着て、主の使い(第二位格の神)の前に立っていた。
「汚れた服を着て」と表現し、捕囚時代の厳しさを示されている。
大祭司でありながら、神殿がないためにその働きが出来なかったのであろう。
4節:御使い(第二位格の神)は、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼(ヨシュア)の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」
5節:私(第二位格の神)は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使い(第二位格の神)はそばに立っていた。
神の戒めは終了したことを受けて、イエス様は、彼に仕える者たちにも命じ、そして宣言する。「古い服を脱がせ、新しい礼服(義の衣)を着させる。」「ユダヤの民の咎は除かれた!」
更に、聖いターバン(かぶり物:イザヤ62:3)を被らせた。そして、イエス様はそばでそれを見守り、喜ばれていると想像する。
神の御前に、ヨシュアの大祭司としての職責が認められ、民が回復したことを示す。
これは、改めてヨシュアを中心とする神の民となったことを示している。
イスラエル民族に霊的祝福が示された。
6節:主の使い(第二位格の神)はヨシュアを諭して言った。
「諭して言った」・・これは相当に強く、念を押すように言われた。
7節:「万軍の主(第一位格の神)はこう言われる。『もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す。
受肉前のイエス様は神の御心を伝える。
8節:聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼ら(あなたたち)はしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝(メシア)を来させる。
神はヨシュアとその同僚たちに諭される。
あなたと彼らは、7節に述べたことが完全に実行できるイエスのしるしとなる。
これは、「しるしとなれ!」と言うニュアンスと考える。霊的リーダーとしての役割
そして、若枝と表現されるメシア(イエス様)を地上に来させる。
9節:見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。 ―万軍の主のことば― 一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。
ヨシュアの前に置いた石は、第2位格の神。
それには7つの目がある。7は完全数である。
すなわち、全知と遍在の、完全なる大祭司イエス様のことである。
「若枝」、「石」とは、メシア(救い主)を象徴することばとして用いられる
文字を彫るとは、名前を刻むという意味。
このメシアの来臨が記念となるイメージ。
メシアはこの時、その地の咎を1日のうちに取り除く。
それは、救い主による地上の悪の完全な裁き。
イスラエルの民がイエス様を求める時が、メシア的王国の成就となる。
10節:その日には、 ―万軍の主のことば― あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木といちじくの木の下に招き合う。』」
ぶどう、いちじくの木の下・・・豊かさと平安の象徴である。(他にも引用あり)
自分の友・・この当時は南と北のユダヤの民であり、恵みの時代の目線では、ユダヤ人と異邦人ということである。(既に2章で示されている)
招き合うという言葉に、神の期待に応答する人類の姿が見える
ゼカリヤ4章1節~14節
1節:私(ゼカリヤ)と話していた御使い(受肉前のイエス様)が戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。
2節:彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
3節:また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。
【第五の幻】
上記を絵にすると、
ここに出て来る燭台は、メノラーと言うことではない。
ゼカリヤは、何か日常的ではない物をみたのである。
金製の明かりを置く台座に、鉢が載っていて、更にその鉢の上(縁)に、7つのともしび皿が置かれている。
7つのともしび皿には、7つの管があり、鉢と繋がっている。鉢には 燃料(純粋なオリーブ油)が入ってる。
7つの管は、油の完全なる供給を示し、神との完全なつながりを示す。
その鉢の左右に、一本ずつオリーブの木がある。
金の燭台はイスラエルを象徴。
この燭台が放つ光は、諸国の光となるという意味を持つ。(イザヤ62:1~2)
更に、この光を照らす燭台は、メシアをも象徴している。(「世の光」ヨハネ8:12)
ゼカ4:12では、オリーブの木の枝から金の油を注ぎだす金のパイプが鉢と繋がっている。
「7つの・・」について
・3章の「7つの目がある石」・・全知偏在の大祭司イエス
・4章の「7つのともしび皿」・・全知偏在の聖霊
・4章の「7つの管」・・十分な油の供給手段、繋がり
真の神の民 + 三位一体の神 = シャカイナグローリー(世の光)の輝き
4節:私は、私と話していた御使いに言った。「主よ、これらは何ですか。」
ゼカリヤは、この幻が意味するところを知りたかった。
5節:私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらがなんであるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
6節:彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。
当時の神殿再建の状況は、他国(特にサマリヤ)の妨害やら、人々のやる気の停滞があり、滞っていた。
リーダー(ゼルバベル)の立場としては心苦しい状況だった。そこに励ましの言葉が与えられる!
神殿建設は、人の権力や知恵とか、人間的な能力によるのではなく、すべて神の力、聖霊の力によって実現するのだ!
あなたには、他の民とは違う素晴らしい力が共にある!そのことを忘れるな!
何故なら、あなたがたは世に神を示す神の民なのだから!!
神の民としてのアイデンティティを思い起こさせる神の励まし!
7節:大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」
更に神はゼルバベルを励ます。
「山」は、権力、国、王を象徴することば。この場合はペルシャ王国や敵国。
邪魔する敵国は、山に見えても神が平地にされる。神に信頼することの重要性を伝える
このゼルバベルの神殿再建は、メシア的王国への道となる。
つまり、かしら石なるメシアの血筋に当たるゼルバベルが神殿再建を実現すると、「恵みあれ!」という喜びの叫び声が上がる。
「かしら石」とは、建設の最後に据える石。(メシア来臨、イスラエルの救い、MTO)
原語では、「叫び声が上がる」は複数形であるため、その叫び声は、ゼカリヤと言うより7つの目(聖霊、御使いたち)の喜びの声と考えられる。
8節:また、私に次のような主のことばがあった。
9節:「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。彼の手がそれを完成させる。』そのときあなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知る。
10節:だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。これら七つは、全地を行き巡る主の目である。」
更に神のことばが続く。「ゼルバベルが神殿再建に着手し、そして完成させる」
神がそのことをとても喜んでおられる表現。
神殿完成が、メシア的王国の完成へと繋がる第一歩。(リスタート)
ゼルバベルは、ダビデの血筋。その子孫に救い主キリストが約束されている存在。
そういう意味からも、神殿再建は神の期待に応答する行為である。
そしてその時、今目の前で語る御使い(受肉前のイエス様)が、神によって遣わされた救い主であると知ることになる。
「そのときあなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知る」という言葉は、ゼカリヤ2:9,11にて、メシア的王国の始まりに語られたものと同じである。
例え神殿再建の始まりが小さい事でも、例え完成した神殿が小さくとも、だれが馬鹿にできようか。それは後に主がメシア的王国となさるのだ。
今、神殿再建(重り縄)に尽力するゼルバベルを見て、民は未来を確信し喜ぶ。
と同時に、メシア的王国が完成した時、人々はゼルバベルの功績を喜ぶ。
ゼルバベルはダビデの血筋であり、その先にメシアが誕生する血筋である。
「これら7つ」・・は7つのともしび皿、すなわち全知偏在の聖霊を指し、それは全地を最終的に支配する絶対的主権者の目である。(三位一体の神)
7つの目、7つの皿とは、「わたしの霊」を指し、全知全能の神の存在を示す。
⇒『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』
11節:私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12節:そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
13節:すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらがなんであるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
14節:彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」
ゼカリヤは、2本のオリーブの木と、その枝から金の油を注ぎ出す、2つの金の管について質問する。(意味は?)・・(いずれ将来は光り輝くS/G)
当時の目線では、この2本のオリーブの木は総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア。
恵みの時代の目線で見れば、王であり大祭司であるイエスである。(預言的)
未来目線では、黙11:3~13に登場する二人の証人である。(預言的)⇒イスラエルの民族的回心につながる!
ゼカリヤ書に登場する二人の証人は、大患難時代の重要な位置づけ。
7年の大患難時代の前半3年半の間、預言と悔い改めのことばを発する。彼らは預言と共に、口から火を吐き、敵を焼き尽くし、自然(災害)を支配する力を持つ。しかし時が来て、彼らは反キリストに殺されてしまう。世界の人々は苦しめられていたから大喜びし、反キリストに従い、礼拝するようになる。
彼らの死体は、エルサレムに3日半さらされるが、聖霊の力によって復活し、雲に包まれて昇天。敵も味方もそれを目撃する。
その時、大地震、大災害が発生し、都(エルサレム)の10分の1が崩壊、7千人が死ぬ。
これを目撃したイスラエルの人々は神を恐れ、崇め、ここに、民族的救いが起こる。
ゼカリヤ書のオリーブの木の預言の成就!
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』
『権力によって、能力によって』生きるとは、この世の生き方である。
問題は、手段ではなく、優先順位!何を最優先するか!
霊的領域にしっかり足を置くこと!それは、位置的真理を実践すること!
私たちも、この神のみことばをしっかりと受け止めて、日々をクリスチャンとして力強く生きることが期待されている!
ゼカリヤ5章1節~11節
1節:私が再び目を上げて見ると、なんと、一つの巻物が飛んでいた。
2節:御使いは私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻物を見ています。その長さは二十キュビト、幅は十キュビトです。」
先ほどの明かりの幻を見た後、すぐに幻が示される。
それは飛んでいる巨大な『巻物』。【第六の幻】
御使い(受肉前のイエス様)が尋ねる。
何を見ているのか?その意味を知るように!
長さ20キュビト(8.9m)、幅10キュビト(4.45m)。
この幻も、非日常的なもの。
飛んでいる巨大な巻物である。
3節:すると彼は私に言った。「これは全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はみな、一方の面に照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はみな、もう一方の面に照らし合わせて取り除かれる。」
「全地の面に出て行くのろい」・・地上に示される律法違反者を裁く機能。
大きく拡げられた巻物は、皆の目に分かりやすい。
飛んでいるということは、人々の目に留まると同時に、違反者を探している。
その表と裏の面にそれぞれ、のろい・・律法違反者の裁きが書かれている。
『盗む者』・・・ 第8戒の違反者 ⇒第8戒は、第6戒~第10戒の真ん中
『偽って誓う者』・・・第3戒の違反者 ⇒第3戒は、第1戒~第5戒の真ん中
⁂よって、この巻物は律法全体を指す
この巨大な巻物が、律法違反者を取り除く
*申命記27:26「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」
*エレミヤ11:3「イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」
*パウロは、ガラテヤ書3:10~13で、律法とのろいについて述べている
裁きからは逃れられない!
4節:「わたしがそれを送り出す。 ―万軍の主のことば― それは盗人の家に、また、わたしの名によって偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまって、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。」
その巻き物は、万軍の主、神が送りだすものである。
第8戒の違反者である盗人
第3戒の違反者である、神の御名によって誓いながら、それを破る者
これらの家(律法違反者の家)にその巻物は入り込み、彼らを断ち滅ぼす!
盗む者には、隣人を愛する心がない!
神に偽って誓う者には、神への愛がない!
⁑正義と公正をしっかりと守る者となれ!
二人のリーダーへのメッセージに続き、この幻は、民全般に対するメッセージの幻
将来が約束されている神の民として、神の契約に従って、律法に忠実に歩め!という神の期待がある
5節:私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」
6節:私が「これは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これは、出て行くエパ升だ。」さらに言った。「これは、全地にある彼らの目だ。」
引き続き第2位格の神がゼカリヤに語り掛ける。
「出て行く物」が何かを見よ。新共同訳:「出て来る物」【第七の幻】
「出て行くエパ升」、新共同では「出て来るエファ升」。
エパ(エファ)とは、「かご」の意味で、転じて重さの単位となった。
麦、粉などの乾物の計測用で、容量は23L。1/10ホメル=1エパ。
*モーセの律法・・正しいエパの使用が命じられている(レビ19:35~36)
しかし、商売人たちは不正な秤(売り升、買い升)を用いていた。
神は公正を無視する姿勢を裁かれる
「これは、全地にある彼らの目」、新共同「それは全地を見る彼らの目」。
全地にある者(不正な者)たちの興味の的(関心事)がここにある!
7節:見よ。鉛のふたが持ち上げられると、エパ升の中に一人の女が座っていた。
8節:彼は、「これは邪悪そのものだ」と言って、その女をエパ升の中に閉じ込め、エパ升の口の上に鉛の重しを置いた。
エパ升の鉛のふたが開けられると、その中に一人の女が座っていた。
「女」とは、堕落を意味するもので、罪や偶像礼拝を象徴する。
つまり、全地の不正な者たちは、罪を犯し、偶像礼拝することが関心事である。
彼(第2位格の神)は、邪悪そのものと言って升の中に閉じ込め、鉛の重しをした。
*二つの視点(近未来と遠未来の目線)
近未来➡完全なる偶像礼拝からの脱却。捕囚以降、イスラエルが偶像礼拝に走ることは無くなる。
遠未来➡黙示録18章の状況が端的に示されている。メシアが来臨し、大バビロンを裁くということ。
エパ升を通して意味するものは何か?!⇒『偶像礼拝という悪』、すなわちサタンは、いずれ滅びることを示す。
9節:それから、私が目を上げて見ると、なんと、二人の女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、あのエパ升を地と天の間に持ち上げた。
10節:私は、私と話していた御使いに尋ねた。「この人たちは、エパ升をどこへ持って行くのですか。」
11節:彼は私に言った。「シンアルの地に、あの女のために神殿を建てるためだ。それが整うと、そこの台の上にその升を置くのだ。」
二人の翼を持った女の出現。(神の命令により行動)
これらは、悪霊である。天使は女性の姿になる事はない。
彼女たちが、このエパ升を空中に持ち上げ移動させる。
重しまで乗せられたエパ升が運ばれる先はシンアルという地。
シンアルの地とは、ニムロデに関連するバビロンを指す。(創10:10、11:1~4)
彼女のための神殿と、そして閉じ込められたということから、黙示録18章にある大バビロンの裁きが暗示されていると考える。(大患難時代の後半、ゼカリヤ2:6との関連)
18章1~8節(DKNJの後半)ゼカリヤ書の第7の幻が暗示する内容と合致している!
「大バビロン」・・世界統一された背教の教会と世界統一支配政府を指すが、DKNJの後半は後者。その統一国家のトップが反キリスト。
バビロンは反キリストが再建し、世界の都市。ここで世界の経済、政治を3年半支配。
地上の王たち、ビジネスマンたちが反キリストの悪の支配に加担し、そこから地位と富を得る。
しかしついには、大バビロンに滅びの日が来る。そこは廃墟となり悪霊どもが住まわされる(千年王国の期間)。反キリストは倍の罰を受ける。
その裁きは瞬時に下る。(黙8:8→ゼカ3:9)
バビロンにいるユダヤ人たちは、避難する(ゼカ2:6~7)
ゼカリヤ6章1節~15節
1節:私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来た。山は青銅の山であった。
2節:第一の戦車には赤い馬が、第二の戦車には黒い馬が、
3節:第三の戦車には白い馬が、第四の戦車には斑毛の強い馬が、数頭ずつつながれていた。
エパ升に続き、幻【第八の幻】が見える。
2つの山・・モリヤの山とオリーブの山
その間には、キデロンの谷(ヨシャパテの谷)がある。異邦人の裁きを示す(黙14:20)
青銅・・裁きの象徴
二つの青銅の山の間、キデロンの谷から4台の戦車が出て来た。
第1の戦車・・赤い馬
第2の戦車・・黒い馬
第3の戦車・・白い馬
第4の戦車・・斑毛の強い馬
4節:私は、私と話していた御使いに尋ねた。「主よ、これらは何ですか。」
5節:御使いは答えた。「これらは天の四方の風だ。全地の主の前に立った後に、出て行くことになる。
ゼカリヤが尋ね、受肉前のイエス様が答える。
天の四方の風・・時代の流れのニュアンスが含まれている。
天の四方の風・・この表現は、ダニエル7:2~にもある。重要。
主の前に立った後に・・主の号令を聞いたうえで、出陣することになる状態。
神のみこころでは、既に裁き(出陣)がご計画されているというニュアンスが含まれている。
6節:そのうちの黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬は西へ出て行き、斑毛の馬は南の地へ出て行く。」
この4つの馬と、ダニエル書7章の4つの獣が関連している。
黒い馬は北の地・・バビロンへ、白い馬は西の地・・メド・ペルシャへ、
斑毛の馬は南の地・・ギリシャへ出て行く。
これらは、既に裁きの対象として、神の想定内。
その馬たちは、その時代(帝国主義)を裁きに行く時を、今か今かと待っている。
7節:強い馬たちが出て来た。それらは地を駆け巡ろうとしていたので、彼が「行って、地を駆け巡れ」と言うと、それらは地を駆け巡った。
強い馬(第一の戦車の赤い馬)は、それから以降の反キリストによる帝国主義が対象。
そして、御使い(受肉前のイエス様)が、号令を出すと、それらは地に出て行った。
御使い(受肉前のイエス様)のゴーサインが出て、それらはその時代に出て行く。
8節:そのとき、彼は私に叫んで、次のように告げた。「見よ、北の地へ出て行った馬を。これらは北の地で、わたしの霊を鎮めた。」
ここで御使いはゼカリヤに叫んでいった。(雷鳴のような声だと想像する)
「北の地に出て行った馬を見よ!この馬たちは、わたしの霊、すなわち神の怒りを 鎮める働きをしたのだ!」
これは、既に終わっているバビロンの裁きを指し、すでに過去となったことを示して、未来の預言も、同様に実現することを示している。
恵みの時代に生きる私たちには、どれほどの証拠が示されているだろうか。
今の時代では、ペルシャ、ギリシャ(ローマ)が終わっている。
残るは、黙示録にある反キリストの帝国主義である。
見せられた幻は、キデロンの谷という、神に抗う異邦人の断罪の場所である。
八つの幻のまとめ
第1の幻:赤い馬に乗る人と、3種の毛の馬。
第2の幻:4つの角と4つの職人。
第3の幻:測り綱を持つ御使い(受肉前のイエス様)。
第4の幻:法廷での、神、御使い(第2位格の神)とサタンと大祭司ヨシュア。
第5の幻:金の燭台と器具と、2本のオリーブの木。
第6の幻:飛行する巨大な巻物。
第7の幻:エパ升とそこに閉じ込められる女、そして羽のある2人の女。
第8の幻: 地を巡る4台の戦車。繋がれた馬の毛色は、黒、白、赤、そして斑。
神は、そのみこころ(ご計画)を、民に示し、明確な目的意識を持つようにされた!
9節:また、私に次のような主のことばがあった。
10節:「捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取れ。その日あなたは行って、バビロンから帰って来た、ゼパニヤの子ヨシヤの家に入れ。
11節:銀と金を取って冠を作って、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、
幻は終わり、主のみことばがあった。
①3人の捕囚から帰還した人物(ヘルダイ、トビヤ、エダヤ)から、金銀を受け、
②その日に、帰還民のゼパニヤの子ヨシヤの家(金物職人)に行き、ささげ物の金と銀で、冠を造れ。
③その冠を大祭司ヨシュアに戴冠させよ。
本来、冠は王が受けるが、大祭司が受けているというところに注目!
この戴冠が意味するところは何か?
12節:彼にこう言え。『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を建てる。
戴冠式の時、神はゼカリヤに、神のことばを宣言するよう命じる。
後の歴史において、若枝、すなわち一人のメシア(15節の遣わされた人)が現れる。
彼は、イスラエルから始まり、最終的に主の神殿を建て上げる。(真の信仰者を生む)
13節:彼が主の神殿を建て、彼が威光を帯び、王座に就いて支配する。その王座の傍らに一人の祭司がいて、二人の間には、平和の計画がある。』
その神殿はメシア的王国であり、シャカイナグローリーに満ち、王国を支配する。
「その王座の傍らに一人の祭司がいて、・・」の意味は、王座と祭司の二人の存在は、この両方を司ることを意味し、真の平和を成就する。
王はユダ族から、祭司はレビ族からとなっていた。兼務は不可能。
イエス様はユダ族出身であり、レビ系ではなくメルキゼデク系の祭司である。つまり、イスラエルだけの祭司ではなく全人類の大祭司である。
神が人間にはできない真の平和な世界を実現される。メシア的王国の預言である。
14節:その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿の中に残る。
ヘルダイ「力ある者」、トビヤ「主は慈しみ深い」、エダヤ「主は知り給う」
ヨシア「神の寵愛」
真の信仰者(残れる者)、今後の信仰の手本となる人達と考えられる。
その記念としても、冠は神殿に残される。神の民としての存在感を、神は期待している。
15節:また、遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建てる。このときあなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わしたことを知る。もしあなたがたが自分たちの神、主の声に確かに聞き従うなら、そのようになる。」
中川先生は、この個所(14~15節)を近未来預言としてとらえている。
「遠く離れていた者たち」とは、神殿再建に携わらなかったディアスポラの人たちもいずれは神殿再建に携わるようになる。
その時、ゼカリヤが預言者として遣わされたことを知るようになる。
これは、ゼカリヤが語ったすべてが、神からの預言であることの証になると推察する。
遠未来の預言
「遠く離れていた者たち」とは、異邦人を指す言葉として用いられることが多い。
つまり異邦人も、神殿建設に参加する時代になる。
それは、メシア的王国の成就を意味する。何故なら、その時人々は、神が遣わされたメシアなるイエス様を目撃するからである。(12節の若枝なるお方)
その実現は、イスラエルの民が「自分たちの神、主の声に聞き従うなら、そのようになる」ということであり、DKNJの終わりの、民が主に立ち返るとき、に実現する。
「このときあなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わしたことを知る。」と同じ表現が2章9節、2章11節、4章9節、そしてこの6章15節にある。ここでの私は受肉前のイエス様であり、メシア的王国の預言となっている。
王と祭司の両面を持つメシアなるイエス様の到来預言を記念するものとして、この冠に意味があると考える。
ゼカリヤ7章1節~14節
1節:ダレイオス王の第四年、第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。
2節:そのとき、ベテルは主の御顔を求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを遣わして、
3節:万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
ダレイオス王の第四年9月。8つの幻(ダレイオス王の第二年11月)から約2年経過。
ベテルから、質問のためにサル・エツェルとレゲム・メレクとその従者たちをエルサレムの神殿で働く祭司、預言者たち(ハガイ、ゼカリヤ、その他の預言者たち)に遣わした。
『ベテル』はかつての北イスラエルにおける、偶像礼拝の都市であったが、この時点では偶像礼拝はなく、真の神を崇める姿勢になっていたと分かる。(人物名という意見もある)
『サル・エツェルとレゲム・メレク』という名は、バビロンの名であることから、彼らはバビロン生まれのユダヤの新しい世代の人たちである。
その質問は、「今まで続けてきた『第五の月の断食』をして、泣かねばならないでしょうか。」
エルサレム神殿が崩壊したのが第五の月の9日(ティシャ・ベ・アブ)。神の命令による贖罪の日(ヨム・キプール)の断食に次ぐ重要な断食として、民が自ら始めた断食。
【断食について】
贖罪の日(ヨム・キプール)の断食。第7の月の10日。律法にある断食の日。つまり、神の命令による断食はこれのみ。それ以外は民の自主的な行為。
*第10の月の10日(テベットの月の10日)BC588 エルサレム包囲された日
*第4の月の9日(タンムズの月の9日)BC586 エルサレム城壁が破壊された日
*第5の月の9日(アブの月の9日)BC586 神殿崩壊された日
*第7の月の9日(ティシュリの月の9日)BC586 ユダの総督ゲダルヤ暗殺を悼む
すべてが、バビロン捕囚に関する悲しみの表現と、記憶のためと思われる。
捕囚によってどれほど民が猛省したかが伝わって来る。
そんな民を、神は正しく、神の民として導こうと積極的に働きかけられたのである。
4節:すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。
5節:「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、本当にこのわたしのために断食したのか。
6節:あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。
この質問に対して、ゼカリヤに神のみことばがあった。叱責を含む問い。
この国の・・これはイスラエルの民全体に対することばである。
70年・・つまり捕囚以降の第5、第7などの断食の嘆きは、一体誰のためか?
本当にこのわたしのための断食なのか?
捕囚を悲しみ反省した民の自発的思いはあったが、神に対するものではなかった!
単に、自分たちが飲み食いするのと同じ、自己満足感のためだったのである!
断食とは、聖なる会合の日であり、贖罪を喜ぶ日であり、神の民であることを思い起こさせ、また、民に公正の心を持つことを思い起こさせる神の期待がその根底にある。
7節:エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げたことばは、これらのことではなかったのか。」
エルサレムとその周辺、ネゲブ、シェフェラ(低地の意)⇒この表現は、バビロン捕囚前の状態を指している
その時、数々の預言者を派遣し、告げたことは何だったのか?まさに、正義と公正を守れと説いたのに、お前たちはそれを無視した!
まだまだ民は、霊的には「よちよち歩き」の状態。偶像礼拝や世の習慣にどっぷりつかった汚れは、なかなか落ちはしない。
神は反省を促し、気付きを期待しておられることに注目!
8節:それから、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。
9節:万軍の主はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。
10節:やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」
また主のことばがゼカリヤにあった。それは、7節の預言者たちに託した言葉の意味の解説である。
「真実のさばき」、「誠意とあわれみの共有」・・公正の実現を目指しなさい!
やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者、それらの弱い者を虐げてはならない。
人を思わず、自己中心的な考えを持って、悪を行ってはいけない!
神はいつも同じ思いで民を、私たちを導いておられる。旧約の時代は律法をもって、神の民として相応しく歩むための道を示し、更にその根底に、自己中心を捨てた愛を期待しておられた。
11節:ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。
12節:彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。
11~12節は、ゼカリヤのことば。
神は様々な預言者を通して、神の期待するところを示してこられた。
しかし、既に神の民はその心を失い、傲慢になり、みことばを聞こうともしない。
『金剛石』・・ダイヤモンドの如く心の頑な(高慢)な民に、みおしえとみことばが入る余地なし。最後は、厳しい裁きによる気付きの促ししかない。
神は考えられないほどの忍耐で民を導かれたが、民は自分のために人を欺き、蹴落とし、引きずり落とし、自分だけの幸せを追求した。自分の欲望の確立が最優先課題であった。
この最優先順位を神とするのがクリスチャンである!!
13節:「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない――万軍の主は言われる――。
14節:わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」
わたし(神)が、あれほどに忍耐して導いたにもかかわらず、お前たちは無視した。
従って、あなたがたがその裁きの時にわたしを呼び求めても、お前たちがわたしにしたように、お前たちの声を無視する。
遣わした預言者の言葉に、熱心に聞き従う姿勢を求められていることに注目。
目的、目標が一致していれば、神のことばを語る正しい預言者も分かるというもの。
このみことばは、私たちにも当てはまる。神の導きに応答しない者の最後は、取り返しのつかない結果となる。
こうして、神は事前に予表を示し、ついには最終的な裁きをなさる。
私たちの神は愛の神であり、決して突然に、史上最悪の裁きをなさるお方ではない!
この時の裁きは『バビロン捕囚』であり、民族の離散。民は散り、国を荒れ廃らせた。神の民として、相続地を守れなかった
イエス様も、熱心にモーセの律法と口伝律法の違いを解説された。そして、神殿の崩壊、離散となる。
ゼカリヤ8章1節~23節
1節:次のような万軍の主のことばがあった。
『断食』にからめて、また神のことばがゼカリヤにあった。
2節:万軍の主はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。
神は民を愛しているという宣言。
私たちも、このねたむ激しい愛に応答しなければならない!
ゼカ1:14にも同様の表現。叱責しても、神のイスラエルへの思いは変わることはない!
3節:―主はこう言われる― わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。
近未来:神殿再建を実現すれば神がそのただ中に住むから、神殿再建に励め!
遠未来:メシアの来臨(再臨)を示す。真実の都、聖なる山とはメシア的王国を指している。
神殿の再建は、未来のメシア的王国へと結びつく重要な存在となる。
4節:―万軍の主はこう言われる― 再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。
5節:都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。
近未来:エルサレムの広場に老若男女、いっぱいの子供たちが集まる。国の繁栄。
遠未来:メシア的王国において、長寿の者と子供たちが共に住む世界ができる。百歳以上の長寿者が当たり前の世界。(イザ65:20~23)(千年王国)。
6節:―万軍の主はこう言われる― もし、これがその日に、この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には、不思議に見えるだろうか。―万軍の主のことば。」
近未来:そんなに豊かになるのは、この時点での残れる者たちには不思議に思える光景。
遠未来:長寿が当たり前の世界を見た残れる者たちは不思議を見る。(メシア的王国)
しかし、全知全能の神には何の不思議もなく、当たり前のことである。
人間の目線で神を見て、神を引き下げてはいけない!
7節:万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の沈む地から救い、
近未来:バビロン捕囚で離散した民を世界から呼び集める。(当時の全世界)
遠未来:全地球規模の離散している民を呼び集める。(メシア的王国(千年王国))
8節:彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」
近未来:エルサレムが回復し、神の民が回復する。
遠未来:心から神に立ち返った民をエルサレムに住まわせ、神と民との完全な和解が成立し、神による王国、メシア的王国が成就する。
9~17節の「主はこう言われる」は近未来目線へと変わる。
9節:万軍の主はこう言われる。「勇気を出せ。万軍の主の家である神殿を建てるために基が据えられた日以来、あなたがたはこれらのことばを、預言者たちの口から聞いてきたではないか。
10節:その日以前は、人の働きに報酬がなく、家畜の働きにも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安がなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。
勇気を出せ!神殿建設に尽力、集中せよ!
かつて預言者はこう言った。神殿再建の基礎が完成して以降、働いても報酬はなく、いつも敵に備え、守らねばならない状態であった。平和とは程遠い世界!
それは神が実行された。民が神殿再建を最優先としないから。
11節:しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して、かつての日々のようではない。 ―万軍の主のことば―
しかし今! 神は、民の心が神の民として相応しくなっていることを知り、方針を変更!
神の愛ある励まし、導きにより、民にアイデンティティ、目的意識が芽生えてきた!
神のために働く預言者達やエズラ、ネヘミヤなどの功労があることを忘れてはならない
12節:それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地が産物を出し、天が露を滴らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを受け継がせる。
農業が回復する。地の平安は、民の平安。人は経済が満ちることで安心を得る。
それをもたらすのは神である。だから神に信頼することを最優先することが重要。
13節:ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」
かつて南北のユダヤの民が争っていたが、それは神の望むところではない。
13節の「同様に」の意味は、14、15節で説明される。
南北というより、12部族の救いが神の目指しているところである。
かつての神の民としての歩みをせよ!恐れるな!勇気を出せ!神の民として!
バビロン捕囚前の状態に戻ってはならない、という神の思いが伝わって来る!
14節:まことに、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと決意し ―万軍の主は言われる― わたしは思い直さなかった。
15節:そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決意した。恐れるな。
先祖の民が、わたし(神)を無視して、異邦人の如く歩むのを見て、神はバビロン捕囚となる裁きを下そうと決意した。
同様に、今、わたし(神)はエルサレム(北の諸部族)とユダ(南の諸部族)に対して、幸いを与えることを決意した。恐れず、神の民として、神殿再建を最優先事項として取り組め!
神殿の再建が進めば、神の民として幸いがあるように、神がなさるという約束である。
16節:これがあなたがたのなすべきことだ。あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばきを行え。
17節:互いに心の中で悪を謀るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むものだからだ。 ―主のことば。」
神の民としてなすべきこと⇒隣人への真実∔真実と平和をもたらす公正=国家体制
してはいけないこと⇒自己中心的考えと神の忌み嫌う行動の禁止。
公正と正義(愛神愛人)を守れ!神の期待は、正義と公正、愛神愛人の精神行為である。
18節:さらに、私に次のような万軍の主のことばがあった。
19節:万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」
第10の月の10日(テベットの月の10日)BC588 エルサレム包囲された日
第4の月の9日(タンムズの月の9日)BC586 エルサレム城壁が破壊された日
第5の月の9日(ティシャ・ベ・アブ 「アブの月の9日」)BC586 神殿崩壊された日
第7の月の9日(ティシュリの月の9日)BC586 ユダの総督ゲダルヤ暗殺を悼む
彼らは泣いていた。 ヨム・キプール以外の断食は、民の自主的行為だった。
大事なことは、過去にとらわれ過ぎないこと。
断食のような悲しみや苦しみは無くなり、楽しみと喜びの例祭がなされるようになる。
「だから、自己満足になることなく、ただ真実と平和を愛しなさい」
メシア的王国の預言に信頼せよ!
20節:万軍の主はこう言われる。「再び諸国の民がやって来る。多くの町々の住民が。
21節:一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ行って、主の御顔を求め、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
22節:多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の御顔を求めるために来る。」
真実と平和を愛するなら、最終的にはエルサレムが中心となり、そこに多くの異邦人 たちが集うようになる。
神に信頼する異邦人が別の町の異邦人を誘い、連鎖して行く。(イザヤ2:2~3)
こうして、多くの異邦人が主を尋ね求め、全人類が神に信頼する時代が来る
ユダヤ人✙異邦人=メシア的王国(千年王国)の成就!
この時代に、異邦人のことが語られていることに、この預言の力強さがある!
背後にアブラハム契約の存在が明確で、神は、契約の民・神の民としての存在感を期待する。
23節:万軍の主はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」
「外国語を話すあらゆる民のうちの10人」・・異邦人全員を示す。
「ユダヤ人の裾を固く掴む」・・ユダヤ人に、より頼む姿勢であることを示す。
異邦人たちは言う「あなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたと共におられると聞いたから」と。
ユダヤの民は、神の民としての本分を成就することを示す。
本来のイスラエルの民のあるべき姿とは?⇒「神の民」としての存在意義を忘れてはならない!⇒その思いを持って、神殿再建にアグレッシブに邁進せよ!
私たちにも同様の神の期待が、注がれている!
ゼカリヤ9章1節~17節
1節:宣告。主のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、それがとどまる場所。主に向けられるのは、人々の、そしてイスラエルの全部族の目。
2節:これに堺を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。
宣告その1。諸国の裁き。
アレキサンダー大王による諸国の裁きが示される。
*わずか10年間に、世界帝国を築く人物(BC356~BC323年)。
BC331年にペルシャを滅ぼし、翌年地中海諸国を征服。
「ハデラク」・・シリアの都市。アレッポとハマテの間にある都市と言われている。
「ダマスコ」・・シリアの首都。
「ハマテ」・・シリヤ領の要塞都市(ハマト)
「ツロ(ティルス)」、「シドン」・・フェニキアの都市
主はこれらの地を裁くためにアレクサンダー大王という器を用いられた。世界の人々、そしてイスラエル全部族が注目する!
3節:ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。
4節:見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。
ツロ(ティルス)は地中海沿岸の都市。貿易が盛んで、当時としては世界商業の一大中心地。また、アッキ貝から取れる高級な紫色の染料は有名。
ツロは、海に面した島に難攻不落の砦があり、海洋貿易により経済も豊かであった。
ツロはその豊かさ、強さにより傲慢であった。
シドン、ツロ共に、BC332年に滅ぼされる。
*イザヤ23章、エゼキエル28章、アモス1章に、同様の記載あり。
「海に打ち捨て・・」「火で焼き尽くされる」の表現通り、その末路は、殺され、奴隷にされ、町は焼き滅ぼされた。
5節:アシュケロンは見て恐れ、ガザも大いにもだえる。エクロンもだ。自分たちが頼みにしていたものが辱められたからだ。ガザから王が消え失せ、アシュケロンには人が住まなくなる。
6節:アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを断ち切り、
7節:その口から流血の咎を、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。
アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデ・・ペリシテの4大都市
北のフェニキアがアレキサンダー大王に征服されて行くのを見てに恐れた。頼みの綱のエクロンが打たれ、ペリシテ人は征服される。
アシュドデには、混血の民が住み、もう、ペリシテの誇りは消える。彼らの偶像は取り払われる。
エクロンはエブス人のように、神の民の一員となる。それはペリシテ人の残りの者が神の民となる事である。
エブス人はかつてのエルサレムの住民であった。神はダビデを通して、ユダに吸収させるという過去がある。(Ⅱサム24:16、Ⅰ歴21:18参照)
8節:わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。
この預言は、近未来と遠未来の預言の要素を含んだものである。
近未来:神が自ら神の家であるエルサレムを行き来する者を見張り、管理する。
つまり、アレキサンダー大王には、エルサレムを攻めさせないという預言である。
遠未来:実際には、最後の帝国主義が最後の攻めであり、虐げる者がそこを通らないということが実現するのは、メシア的王国時代である。
神はかつて、異邦人キュロス王を用いてバビロン捕囚の解放して見せた。神は預言通りのことを実現して見せ、更に神の民として再構築された。
その時代のユダヤの民の関心事は、当面の異邦人の王であり、イスラエルを悩ます諸国の裁きが実現することは、神の民として立ち上がったことの喜びとなる。
9節:娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
近未来預言(メシアの初臨)
ユダヤに王が来る。これはメシアの来臨を指している。
その御性質は、①義なる者、②勝利、③柔和、というメシアの表現。
柔和は「抑圧された」という意味があり、まさに受難のしもべを思わせる。
雌ろばの子に乗って、ユダヤの民の所に来る。(マタイ21:1~11で成就する)
高貴な者がろばに乗る 馬は戦士が乗るもの ➡平和の君としての存在
「ろば(ウーイ)」には、「盲目にする」、「目を覚ます」という意味があるとのこと。初臨のイエス様については、メシアであるということに『盲目』で、のちに『目を覚ます』という風にもとれる。
10節:わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。
遠未来預言(メシアの再臨)
エフライム・・北イスラエル(の諸部族)。エルサレム・・南ユダ(の諸部族)。
神は、全ユダヤに対して武器の必要がない状態にする。
8節bの内容の成就が示されている。それは、メシア的王国である。
このメシアが再臨のイエス様である。
再臨のイエス様は、諸国に平和を宣言。全世界の統治、メシア的王国が始まる。
詩編72:8に同様の内容の記載あり。神による全地の支配が完成することを示す。
海から海:死海から地中海 大河から:ユーフラテス川(北の国境)から
11節:あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。
12節:望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。
13節:わたしは、ユダをわたしの弓として引き絞り、これにエフライムをつがえたのだ。ヤワンよ、おまえの子らに向かって。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ、あなたを勇士の剣のようにする。
「あなた」・・ユダヤ人。「契約」・・アブラハム契約。「水のない穴」・・牢獄。
アブラハム契約に則り、牢獄の如き離散の地から、解放されるユダヤの民。
帰還のユダヤの民は長子の権利、つまり2倍の相続を受ける。イザヤ40:2
神はユダとエフライム、つまり全部族を強い神の民として回復させた。神は民を、ヤワン(ギリシャ、エピファネス王)すなわち、未来の反キリストに立ち向かわせる。
信頼すべきは神(イエス様)であることを確信する。
ユダヤの民は、神により力強く回復するとき、敵にひるむことがない。
実際に敵の異邦人を打つのは神であることを忘れずに!
私たちも、神に信頼することを一番に設定しておく事を忘れてはいけない。
恐れず、たじろがない心を持つ、神の子となれるから!
14節:主は彼らの上に現れ、その矢は稲妻のように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。
15節:万軍の主が彼らの盾となる。彼らは石投げの石で滅ぼし、踏みつける。彼らは血をぶどう酒のように飲み、沸き返る。鉢のように、祭壇の四隅のように、満たされる。
DKNJの最終時点で、主(再臨のイエス様)が現れ、異邦人に対する裁きが決行される。稲妻のように矢が放たれる。(稲妻が矢のように放たれることかもしれない)
南の暴風・・天変地異の一端が書かれているかのようである。
ユダヤ人は神に守られ敵は倒される。
新共同訳:15節「放たれた石は敵に食らいついて倒し、」。まるで主が天変地異により異邦人世界を潰しているかのような表現。
DKNJの様子が伺える。(石はメシア(イエス様)に例えられる事がある)
裁かれた者の大量の血が流される。
ここに真の勝利が実現する!!
16節:その日、彼らの神、主は、彼らをご自分の民の群れとして救われる。まことに、王冠の宝石がその地できらめく。
17節:なんという主のいつくしみ。なんという主の麗しさ。穀物は若い男たちを、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。
ユダヤの民が主を受け入れたとき、民は神の民として救われる。
そして、メシア的王国が始まる。
「王冠の宝石」・・6章9節~で登場した王冠を指しているのではないか。大祭司であり王であるイエス様によるメシア的王国の成就が示されている。
17節の平安は、神によってのみ実現される真の平和な世界。
人々はそのことに、心の底から感謝し、王国の幸せを満喫する。
経済の不安が無くなる世界。生きるという内容・価値観が大変革する。
神が備えてくださっている未来は想像を超えた素晴らしいところ。
未来の約束が与えられていることに感謝せずにはいられない!
ゼカリヤ10章1節~12節
1節:主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。
9章17節の流れから見ると、この個所は、メシア的王国時代のことと想像できる。
だから、メシア的王国となったときには、「マター」と言って普通の雨を求めるように願えば、神はそれ以上に多くの恵みをもたらす大雨を降り注ぐ。それがメシア的王国である。大雨は野の草を育み、地は豊かになる。→経済の豊かさを暗示している。
雨は聖霊に例えられる。
恵みの時代にあって、この雨を考える時、先の雨がペンテコステと考えられる。
後の雨の時とは、メシア的王国(千年王国)の時代である。
ヨエル書2:23
「主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。」
イエス様によって義が示され聖霊が与えられる時代。大雨とは、イエス様が開いてくださった聖霊傾注という恵みの時代の救い。主は義の教師。
後の雨とは大患難時代の終わりにイエス様が再臨してイスラエルの人々に与えられる恵みの時代の最後の聖霊傾注。
ゼカリヤ書の後の雨と重なる!
2節:テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。
話題はメシア的王国から、大患難時代の最終段階へと変化する。
テラフィム・・家の守り神(占いや霊媒などに使用)。大きさは様々。
その当時、占いや、無意味な幻を見て語る偽預言者があり、嘘を語る。
そんな世になり、正しいリーダーがおらず、民は混乱する。
3節:「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」
万軍の主は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。
そんな状態のリーダーを、神は、怒られている。(雄やぎ→リーダー)
神は、ユダの家の人々を戦場の馬の如く奮い立たせる。
ユダの血筋はイエス様に繋がっている。メシアの予告か。馬は「赤い馬」を連想させる。
4節:この群れからかしら石が、この群れから杭が、この群れから戦いの弓が、この群れからすべての指揮する者が、ともどもに出て来る。
このユダの一族の群れから、次の四つが出て来る。混乱した状態に必要。
①かしら石 →救い主
②杭(テント張り) →国を安定させるリーダー
③戦いの弓 →主の戦いの武器
④指揮する者 →指揮者
5節:彼らは勇士のようになり、戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。主が彼らとともにおられるからだ。彼らは馬に乗る者どもを辱める。
主が共にいる時、彼らは本来の勇気を持ち、戦い挑んだ敵の軍勢を辱める。
神の存在が明確になり、結局、異邦人は自分の愚かな選択と行動を恥じることになる。
6節:「わたしはユダの家を力づけ、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。」
ユダ族を励まし、ヨセフ族を救う。
神に祝福される者となる。民が神の期待に応答し、神がその結果を示す。
ユダヤの民がメシアを受け入れ、民の応答(立ち返り)に神が対応したということ。
7節:エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。
エフライムを含む全イスラエルの民がメシア的王国を目撃し、歓喜する。(聖霊に酔う)
イスラエルの民は、以降、完全なる神の礼拝者として立つことになる。
DKNJは、ユダヤの民に与えられた最後の救いの機会であり、その患難を乗り越えて、神の約束(アブラハム契約)が成就する!ハレルヤ!!
8節:「わたしは合図をして彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数を増す。
9節:わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、彼らは遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る。
「合図して」‥羊飼いの口笛。羊を集めるがごとく、神は離散していた人々を集める。
それは、イスラエルの民がイエス様を求めて、神に立ち返ったからだ。
世界に離散しているイスラエルの民も、神に立ち返り、約束の地に帰還してくる。
彼らはその子孫となる子らとともに帰還してくる。
10節:わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリアから集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。
エジプト・・奴隷の象徴、アッシリヤ・・捕囚の象徴。これらの苦難からの解放。
ギルアデ・・ヨルダン川の東北部で、放牧に適する地。レバノン・・約束の地の北限。
この約束の地にイスラエルの民は住むが、土地が狭くなってしまう。
11節:彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、ナイル川のすべての淵を涸らす。アッシリアの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れ去る。
苦難の海を渡る・・とは、まさにイスラエルの苦難の歴史が終わることを意味する。
海を打ち破り・・とは、彼らを迫害する異邦人との戦いに勝利することを意味する。
その時代のアッシリヤ、エジプトという異邦人の迫害の力は全て主によって打たれる。
大患難時代の天変地異まで起こる事態に、紅海は打たれ、ナイル川は枯れる。物理的にもイスラエルの帰還を妨害するものはなくなる。
12節:わたしは主にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。―主のことば。」
わたし・・これは第二位格の神イエス様。再臨されることは民を励ますこと。
これから以降、民は、真の神の民として歩み続けることになる。ハレルヤ!
メシア的王国の始まりである。
選ばれし民の苦しみの歴史が終わり、新たな時代が始まる。
ゼカリヤ11章1節~17節
ゼカリヤ11章の構成
1節:レバノンよ、おまえの門を開け。火がおまえの杉の木を焼き尽くす。
2節:もみの木よ、泣き叫べ。杉の木は倒れ、見事な木々が荒らされたから。バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。深い森が倒れたから。
預言の場面は、70年の第二神殿の崩壊を示す。
レバノンは、立派な杉、もみの木で有名。この杉材が神殿の内装に多用された。
「レバノン」・・神殿を指している。
「門を開け・・」とは、内部が攻められ杉材、もみの内装が火で焼き尽くされる光景。
「バシャンの樫の木・・深い森」・・民間の家々、つまりエルサレム全体を指す。神殿が破壊され、エルサレムが打たれてしまう光景が預言されている。
3節:牧者たちの嘆きの声がする。彼らの見事な木々が荒らされたから。若い獅子の吼える声がする。ヨルダンの茂みが荒らされたから。
「牧者」・・「イスラエルの指導者たち」が、神殿、エルサレムの滅びを見て嘆く。
「若い獅子」・・(中川先生は、「王子たち」と考えられている)「獅子」は時には神、そして時には敵を指す。いずれにしても、領地のヨルダン地域にまで敵の侵略が及んでしまう。
この描写は、70年のローマ軍による神殿崩壊を預言している。神殿再建した民に対して、信じがたい預言である。それほどに重要なメッセージということ。
4節:私の神、主はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。
5節:これを買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく、これを売る者も、『主がほめたたえられるように。私は豊かになった』と言う。その牧者たちは羊をあわれまない。
神はゼカリヤに、屠られる羊の群れ(ユダヤの民)の霊的指導を命じられる。(1回目)
屠られる羊・・これは滅びが予定されているという意味。ゼカリヤにより、神の御心を教えられる民は、屠られる時、自らの罪深さを知ることになる。
この羊を買い、ほふる者・・とはローマ人のことである。彼らに罪責感はない。
これを売る者・・自国の民を売り渡すユダヤの指導者たち。ローマと組む指導者。
彼らは民をあわれまず、自分の利得ばかりを考える。(ヨハネ19:15)
6節:それは、わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ ―主のことばー。見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」
神のあわれみがないゆえに、ユダヤの民はローマに渡され、民は世界に離散となる。
7節:私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。
「私」・・ゼカリヤである。
「羊の商人」・・ヘブル語では「貧しい羊」となり、中川先生は貧しい羊で解説。(新共同訳の欄外説明でも、同様に解説している)
更に、羊の商人は、貧しい羊・・つまり残れる者(レムナント)を指している。
羊を飼うための杖二本・・慈愛(神の守り)と、結合(民の一致)という二つの教え。
8節:私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。
反抗する三人の牧者の出現で、ゼカリヤは指導を止める。これはパリサイ人、サドカイ人、律法学者を指している。(イエス様に反抗する存在)
神と民との関係がギクシャクする。
ゼカリヤは、イエス様の予表と見ることができる。
9節:私は言った。「私はもう、おまえたちを飼わない。死ぬ者は死ね。滅びゆく者は滅びよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」
ゼカリヤの教えが終わったことを意味すると共に、切実な悲劇の暗示である。「残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい」は、悲惨な戦争が見える。
10節:私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。
一本の慈愛(神の守り)の杖を折り、ゼカリヤは異邦人からの攻撃の防壁を取り去る。神に願っていた諸国に対しての防御の約束を取り払ってもらうということ。
11節:その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。
その日、約束は破棄され、ゼカリヤから指導を受けていた残れる者は、私(ゼカリヤ)のことばが神からのことばであったと知った。
イエス様の時代においては、マタイ12:22で起こるベルゼブル論争を指している。
70年のローマ軍の包囲開始の時、全メシアニック・ジューはペラに非難し助かる。
12節:私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
13節:主は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。
14節:そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。
ゼカリヤは、「自分の働きが価値あると思うなら賃金を払えという。しかし、価値がないと思うなら払うな!」と民の指導者たちに言った。
払った代価は銀30シェケル・・殺された奴隷の値段と同じ(出エジプト21:32)。侮辱! ゼカリヤは預言者であり、この侮辱は神に対する侮辱である。
神はその銀30シェケルを「陶器師に投げ与えよ」と言われ、ゼカリヤは渡した。
神殿の近くに陶器師の地区がある。陶器師と創造主。将来の預言的行為。
イエスは銀30シェケルで売られた。そのお金で、陶器師の畑が買われた。(マタイ26:14~16、27:3~10) ゼカリヤはイエス様の予表。
結合(民の一致)の杖が折られる。ユダ(南ユダ王国)とイスラエル(北王国)の兄弟関係が崩れる。(70年頃は熱心党がローマのみならず、ユダヤ人とも争ったとのこと)
*寄り道
マタイ27:7~10について
ユダが返した銀貨30シェケルで買い取った土地。
この9節でエレミヤが語ったとされる内容は、
エレミヤが語ったヒノムの谷にあるトフェテ(虐殺の谷)に関する内容(7:31、19:11)と、ゼカリヤ(11:12、13)の両方を含めたもの。
そのヒノムの谷の土地を、イエスを買い取った代価で購入したということである。(血の地所)➡アケルダマ
15節:主は私に言われた。「もう一度、愚かな牧者の道具を取れ。
16節:見よ。それは、わたしが一人の牧者をこの地に起こすからだ。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものを癒やさず、衰え果てたものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。
ゼカリヤは、神に命じられます。(2回目)
「もう一度。愚かな牧者の道具を取れ。」の意味は、慈愛と結合の杖を折ってしまったから、もう一度指導せよとの事と思われる。
神は愚かな牧者をこの地に起こされる、といわれている。(真の牧者に反する者)
正しい教えをすれば、人は反対を行ってしまうがゆえに、愚かな牧者の道具となる。
愚かな牧者・・迷い、散ったものを探さず、傷ついたものを癒さず、衰え果てたものに食べ物を与えない。獣(羊)を食べ、ひずめを裂く。まるで野獣のように、自分の欲のために貪る。➡慈愛も結合もない最悪の状態となる。
中川先生は、この預言(15、16節)は132年のバルコクバの乱を預言していると解説。
132年、ラビ・アキバがバル・コクバをメシアと宣言し、ローマ軍に反乱を起こした。
バル・コクバの乱 【第二次ユダヤ戦争】
エルサレムを占領するまでに至ったが、大軍と装備にまさるローマ軍は、135年にはエルサレムを陥落。反乱軍は殺され、残りは奴隷。その大量の奴隷は安値で取引。本格的な離散の開始である。バル・コクバは戦死。ラビ・アキバは処刑。58万人以上が戦死。ローマ軍も大損害を受けたため、弾圧は熾烈であった。
メシアニック・ジューはこの時、バル・コクバをメシアと認めず全員助かったため、両者の間の分裂が更に進んだ!
ユダヤ人のエルサレム立ち入りは厳禁となり、破れば死罪であった。これが4世紀まで続いたが、その後、年に一度、有料によりアブの9日に立ち入り可能となる。こうして嘆きの壁で泣くようになる。
17節:わざわいだ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕と右の目を打ち、その腕はすっかり萎えて、右の目の視力は衰える。」
15~16節の愚かな牧者の末路が示されている。
救世主を語る者(反キリストも含め)の最後は哀れな滅びが示されている。
バル・コクバの乱を経て、ユダヤの民は救世主を受け入れることが難しくなってしまった。バル・コクバを『ほら吹き』と罵り、『バル・コゼバ』(欺瞞の子)と揶揄したとのこと。
慈愛と結合を失くしたユダヤの民は、今も多くの者がキリストを受け入れず、無視している。そして、史上最も愚かな牧者、反キリストが地上を荒らしまわる日がやって来る。
勿論、主が来臨して悪を裁き民を導かれるが、その苦難の歴史を思わずにはいられない。
ゼカリヤ12章1節~14節
ゼカリヤ書12章の構成
1節:宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。
宣告 その2・・重々しい預言
創造主なる神の存在、威厳、力を示している。人をも創造されたその神がイスラエルに対して預言する。それは、全人類への提示でもある。
2節:「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。
3節:その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。
わたし・・第二位格の神、イエス様である。
杯・・神の裁きの暗示。重い石・・その石を担ぐと重くて自分が潰れてしまう石。ユダのイスラエルをそのようなものにすると言われる。敵が攻めるに困難な状況を想像する。
その日・・神の裁きの日であり、中でもハルマゲドンの戦いを指している。
ユダのエルサレムが包囲され、更に攻めようと取り囲むが、たとえどんな民族(軍隊)が攻めてきても、神は、それらの力を奪い、エルサレムを守られる。
4節:その日―主のことば―わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。
その日・・同じくハルマゲドンの戦いの日。
主は、ユダを攻める敵の、すべての馬が盲目になり制御不能となるように、その時の軍隊を制御不能状態とする。(視界が奪われる状況)
神はユダの家の上に目を見開き、・・というのは神の守りであり、神はユダを守りつつ敵を制御・統率不能状態とする。
5節:ユダの首長たちは心の中で言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主によって私の力となる。』
ユダの諸族の首長たちは、エルサレムの回復、奮起を見てこう言う。「エルサレムの回復と勝利は神によるのであり、よって私たちユダ諸部族も神の力によって回復し勝利するのだ!」
さらに言えば、エルサレムを守っておられる神の力は、そのまま、信仰者である現代の私たちにも、十分に及んでいる。ハレルヤ!
6節:その日、わたしはユダの首長たちを、薪の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。
その日・・同じくハルマゲドンの戦いの日。(すべてが短期間に展開)
主は、ユダの諸部族の首長たちを、耐えることなく燃え続ける火鉢のように、また麦束のように燃え立たせる。その炎は包囲するすべての敵に及ぶ!(それは神の力)
しかし、エルサレムに被害は及ばず守られ、そこにとどまり続ける・・神に守られ続ける。
7節:主は最初にユダの天幕を救う。ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えが、ユダ以上に大きくならないようにするためである。
ハルマゲドンの戦いの展開
はじめにユダの天幕を救う→避難した地で天幕生活。ボツラに避難した人々を指す。
『最初にユダの天幕を救う』・・ダビデの家、エルサレムという上層指導者階級たちを優先するのではなく、イスラエルの民全体におよぶ、・・という神の配慮が示されている。
8節:その日、主はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。
その日・・同じくハルマゲドンの戦いの日。(すべてが短期間に展開)
続いて、エルサレムの住民をかくまい、かつてのダビデのように立ち上がらせる。上層指導部の人々も神とともに力強く、民の先頭に立つことになる。
戦いに挑むダビデというよりも、神に信頼する従順な信仰の民として立ち上がる。
9節:その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。
神はエルサレムに攻めて来るすべての異邦人諸国を根絶やしにする!→ヨシャファテ(ケデロン)の谷の裁きで、ハルマゲドンの戦いは決着する。ヨエル書3章参照。
10節:わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
ハルマゲドンの終盤に、二つの霊がイスラエルの民全体に注がれる。
恵みの霊 → 恵みとは「救い」、それをもたらす霊。
嘆願の霊 → 嘆願とは「強い悔い改めと祈り」。それをもたらす霊。
この二つの霊は、聖霊を表す。後の雨(春の雨)である。聖霊傾注の御業!(ゼカ10:1)イスラエルの民全体の救いの完成(ヨエル2:28~32)
自分たちが突き刺したわたし(第二位格の神) → 十字架にかかられるイエス様
来臨のイエス様を見て、心の底から悔い改めて、激しく泣く姿が表現されている。
救いの3要素を信じる上で、求められることは、神に対する裏切りを心の底から悔い改めて信じることである。そこに導いてくださるのが聖霊である。ハレルヤ!
11節:その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。
「メギドの平地のハダド・リンモンのための・・」・・(聖書中、ここだけ)
中川先生は、メギド近郊のハダド・リンモンで戦死したヨシヤ王を嘆く時と同じように激しく泣く、と解説。(2歴35:22~25)
新共同訳では、ハダド(アラムの偶像神)、リンモン(ダマスコの偶像神)が習合されたものの祭り(タンムズの祭り)で、乾期で死んだ神が、人々の嘆きによって再び甦るとされている。(2列5:18、エゼ8:14)
嘆きの激しさが語られている個所。
エルサレム全体が、嘆き一色に染まる感覚。
まさに、大号泣の状況を示している。
12節:この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
13節:レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
14節:残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
エルサレムでは、すべての氏族が一人一人嘆く。これは民全体の嘆きである。
ダビデの家の氏族、その妻たちも一人嘆く。王家の最小であるナタンの氏族と妻たちも同様。王家の最大から最小まですべてという表現。
レビの氏族、そしてその妻たちが一人一人嘆く。シムイはレビの子のゲルションの子。シムイはレビ族の祭司の中で最小(民3:17~18)。その氏族と妻たちが一人一人嘆いた。祭司の最大から最小まですべてという表現。
残りの全氏族においても、上から下まで全氏族とその妻たちが、嘆いた。
これほどまでに深い、心からの悔い改めが、イスラエルの民全員に起こる。個人的な信仰の救いが示されている。
後の雨、すなわち聖霊傾注の御業!
ゼカリヤ13章1節~9節
13章の構成
1節:その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
「ダビデの家とエルサレムの住民のために」、とは聖霊傾注が終わった民のためか、それとも終わっていない民のためか?
*中川先生は、12章から続くと考えている。「罪と汚れ」とは、義認と聖化を示すとし、「一つの泉」とは、儀式的に用いられる泉の水であり、聖霊傾注を指すとする。嘆いた後、聖霊傾注されるということ。
*ユダヤの民の清めが終わり、次に続く、地上の汚れを清めるためと考える時、聖霊の働きにより、罪と汚れを取り除くため、一つの泉が開かれたとも考えられる。
12章からの流れを掴んでおけば、解釈に大きな支障は無い。
「ダビデの家とエルサレムの住民のために」という言葉のタイミングがどちらであっても、12~13章の文脈に影響はないと考えられる。
2節:その日―万軍の主のことば―わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。
偶像の徹底排除。と同時に、その偶像に与する偽預言者と汚れた霊、すなわち悪霊を地上から取り除く。
神の清め(裁き)は、ハルマゲドンの戦いの時、徹底して行われる。
3節:なお預言する者があれば、その人を生んだ父と母が彼に向かって言う。『あなたは生きていてはならない。主の名を使って嘘を告げたから。』彼が預言しているときに、彼を生んだ父と母が彼を突き刺す。
それでも預言する者は父と母に殺されることになる。
偽の預言とは、主の名を騙って、嘘の預言をすること。
これは、神の出現により、真の価値が明確になり、偽物の化けの皮がはがれること。この刑罰は、子にとっても親にとっても悲劇である。
4節:その日、預言者たちはみな、自分が預言する幻を恥じる。彼らはもはや人を欺くための毛衣を着なくなる。
その結果、偽預言者達は自分が語ってきた預言を恥じ、預言は語らなくなる。
毛衣・・預言者が着ていた外套(コート)。その時代はどのようなものか?
申命記18:20~22。預言した内容が成就しないなら、それは偽預言者。
真の神が現れ、それまでの偽預言者は、恥じ入ることになる。
5節:また彼は、『私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った』と言う。
自分は預言者ではなく、農夫だと偽る。私は人に買い取られたいわゆる奴隷である、と言う。(新共同では、自分が買った土地で・・となっている)
それは刑を逃れるための嘘である。
6節:だれかが『あなたの両腕の間にある、この打ち傷は何か』と聞くなら、彼は『私の愛人たちの家で打たれたものだ』と言う。
そんな偽りを言っても、誰かが彼の腕の間にあるうち傷に気付く。その打ち傷は、偶像礼拝の時に自らつけた傷跡だと察している。こうして問いただすが、愛人(中川先生は“友人”)たちの家で打たれたものと言う。こうして、偽預言者だったことを隠そうとする。
それほどにその刑が厳しいということに注目。
この時の、神の裁き、すなわち終末の裁きは容赦ないものである。
7節:剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ―万軍の主のことば―。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。
『剣』とは、死を伴う争いの意味。
その剣で、『わたしの羊飼い』に向かえ!と命じている。この羊飼いはイエス様。
『わたしの仲間』とは、神の同僚たる、第二位格の神、イエス様を指している。
死を伴うということから、肉体を持つイエス様、そして第二位格の神イエス様を指す。
明らかに、十字架にかかられるイエス様を示す預言。
その羊飼いを打て!と言われている。これが紀元30年。
そして世界離散が、紀元70年に起こっている。
わたしは、この手を小さい者たちに向ける。離散させるということも含めた試練。
70年の神殿崩壊と離散と言う悲劇は、子供たちにも及んだ。
132~135年のバル・コクバの乱により、更に離散は本格化した。
8節:全地はこうなる―主のことば―。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
全地はこうなる。→大患難時代の状況を指している。
イスラエルの3分の2は死に絶える。つまり殺されることになる。
残りの3分の1が、救いに与る人々である。マタイ24:15~21、黙12:6~17
黙12:6~17
12:6~18は、DKNJの後半を示しています。
更にこの中の7~12は、挿入句で、天で戦いに敗れ、地上に投げ落とされたサタンについて説明されています。その落されたサタンが、地上で猛威を振るうのがDNKJの後半の3年半ということです。
男の子を産んだ女・・とはイスラエルを指し、そのイスラエルは後半の3年半、守られますが、サタンは更に攻め、3分の2のユダヤ人が死にます。これが、ゼカリヤ書13:8が示すところです。
HMD(ハルマゲドンの戦い)とは、サタンが、その3分の1のユダヤ人の抹殺を図るものでもあります!
9節:わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」
残りの3分の1の民は、厳しい試練を通ります。
DKNJのなかの最終局面であるHMD!まさに火の中の凄惨な状況。
サタンにとっても最後の戦いであり、ゆえに前代未聞の過酷をつくります。
サタンの激烈な戦いを通して、彼らは練られ、試され、そしてメシアを受け入れます。
ここに、神との和解が成り、メシアなるキリストが来臨(再臨)します。
それは、メシア的王国の始まりの合図でもあります。
ゼカリヤ14章1節~11節
14章の構成
1節:見よ、主の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。
新共同訳:「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものがあなたの中で分けられる日が。」
HMDにおいて、エルサレムで奪われた物がエルサレムの中で分配される状態。
エルサレムが包囲され、略奪され、それらがその場で分配される。
屈辱的な状態は、敗北と感じてしまうほどの痛み。
2節:「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」
すべての国を集めてエルサレムを攻めさせる。(神がそれをお許しになる)
都市は陥落、略奪は家、女たちに及ぶ。結果、エルサレムの半分の民は捕囚されるが、残りの半分は都にとどまり、滅ぼされず、そこに残る。
3節:主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
そうした状態になった時、主が出て行かれる。
それは、12章にもあったように、ボツラ(ペトラ)でユダヤの民が神に立ち返り、その機を見て、神は出て来られるということである。(DKNJの後半にボツラへ避難する人達)
神は、ボツラで異邦人諸国を打ち、その後、エルサレムの住民のために戦われる。
明らかに12章の内容を理解していることが前提で、語られている。
4節:その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。
オリーブ山とは、エルサレムの東にある小山脈系の一山。
海抜800mで、エルサレム市街地より数十メートル高い。
イエス様が神殿を見て終末預言を語られた場所。
その山にイエス様が立たれる!
オリーブ山の東西に大きな裂け目ができる。
オリーブ山は南北二つの山となる。
天変地異が起こる。それは全地球上で起こる比類なき大震災。
大きな亀裂は、巨大な谷が出来たことを示す。
5節:「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。
この巨大な谷は、アツァル(場所は不明)にまで達する。
8節の内容から、この谷は東は死海、西は地中海に及ぶ巨大さ。
大地震の被害を避けるため生存者は、この谷へと逃げる。
その様子は、アモス1:1の大地震の時と同じ。(資料はない)
続いて、神が地上に来られるのと同時に、すべての聖なる者が、主と共に来る。
6節:その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
7節:これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。
光源が変化する。神の栄光の光が世界の光源になる。
その日・・主の再臨の日・・メシア的王国の始まり
光、寒さ、霜が無くなる。
昼、夜の区別が無くなる。これまでの太陽を光源としない世界。
夕暮れ時に光がある。→新共:「夕べになっても光がある」
従来までの光とは異なる、新たな神の光によって世界が覆われる状態となる
昼、夜の区別がないということは、メシア的王国はその時代が一日という世界である
千年が一日の王国が千年王国と言うことになる
8節:その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。
いのちの泉から大河となって流れる川が出現する。
エルサレム、すなわち神殿の敷居の下からいのちの泉が流れ出る。
この水の半分は東の海→死海に、もう半分は西の海→地中海に注ぎ込む。
この水(大河)が注ぎこむことで、その場所は最良の漁場となる。ヨエル3:18
この川は、ワジのように季節によって消えたりしない。エゼキエル47:1~12参照
9節:主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。
主が王国の王となられる。メシア的王国の始まり
全世界において唯一であり、統治されるお方となる。
全ての偶像が消え去り、神に反する者もこの時点では一切存在しない状態。
10節:全土はゲバからエルサレムの南のリンモンまで、アラバのようになる。しかしエルサレムは高くそびえ、ベニヤミンの門から第一の門のところを経て隅の門まで、またハナンエルのやぐらから王家のぶどうの踏み場まで、元の場所にそのまま残る。
地上の姿が激変する。
ゲバ(エルサレムの北10キロ)
リンモン(エルサレムの南西約56キロ)
アラバ(死海とアカバ湾を結ぶ地域)
ゲバ、リンモンと言う山地が、アラバのように平地になる。
こういう地形の大変革が世界で起こる。
しかし、エルサレムは高くそびえ、他は低くされ、世界で最も高い山となる。
イザヤ2:2、ミカ4:1~2、エゼキエル40:1~2
エルサレムは地理的、霊的に高められる。
新共:「・・。しかし、エルサレムはベニヤミンの門から昔の門の区域を経て、角の門に至るまで、またハナンエルの塔から王の酒ぶねに至るまで、その高い位置にとどまり、そこに人々が住み着く。」
新共によれば、次の通り➡ベニヤミンの門→北の城壁、昔の門の区域→不明、角の門→北西の城壁、王の酒ぶねの町→町の南東隅、ハナンエルの塔→ベニヤミンの門の近く
11節:そこには人々が住み、もはや聖絶の物はなく、エルサレムは安らかに住む。
エルサレムの平安の成就。
その地理的にも、霊的にも、祝福されたエルサレムに人々が住むことになる。
聖絶の対象はなく、つまり神の怒りは消え、悪(偶像)も汚れ(それを信じる者)も 取り去られ、エルサレムに、そして世界に神の平安が建ち、人々は安らかに住まう。
ゼカリヤ14章12節~21節
14章の構成
12節:これは、主がエルサレムを攻めるどの民にも加えられる疫病である。彼らの肉は、まだ足で立っているうちに腐る。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。
神の裁きが、疫病という形で行われる。これは一気に広がる。
肉があっと言う間に腐って行く。足が腐り、立って移動できない。瞼の中で眼球が腐る。舌が口の中で腐る。この疫病は一気に起こるので、人間には対応のしようもない。
この疫病は、明らかにイスラエルを攻める異邦人に発症する。
神に守られる民とそうでない者が明確に区別される。
13節:その日、主からの大いなる混乱が、彼らの間に起こる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いに殴りかかる。
イスラエルを攻める諸国に、仲間割れを起こさせる。その結果、彼ら自身が同士討ちし始める。実際に神が出現し、その力の絶大さを見て、彼らはそれまで信用していたものに失望し、その責任を転嫁し始める。自らの愚かさを恥じることになる。
14節:ユダもエルサレムで戦う。周りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。
ボツラからユダの人々がエルサレムに来て戦う。彼らは疫病から守られ、全員が一致・調和し、エルサレムを攻めた諸国と戦う。バックには神が居られる。
その結果、財宝、金、銀、衣服が多く集められる。14章1節の状況(奪われた戦利品が分配されていた)が、今は逆転。
明らかに神の民の勝利が確定し、神に反していた異邦人とは明確な差が見て取れる。
15節:馬、らば、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜にも、同じような疫病が臨む。
家畜への疫病→軍力・移動手段等の消失
人のみならず、家畜にまで疫病が広がる。
未来を想像してみよう チョット先の未来は、AIやロボットが人の働きの代わりとなる。
DKNJの兵器等はすべてコンピュータ(AI)であり、それを狂わせるのはウィルスと呼ばれる
これも異邦人諸国にのみ起こる事態と考えられる。
神が出現して、それを見て神の存在を認めても、何の意味もない。
ヨハネ20:29 『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。』
こうして神に敵対した異邦人諸国は、徹底的に打たれることになる。
異邦人の中に、善き異邦人とそうでない異邦人が存在し、それらが区別される➡アブラハム契約の成就
16節:エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
メシア的王国では、仮庵の祭り(秋の収穫祭)が催される。
仮庵の祭りは千年王国の象徴。それが、世界レベルで行われる時代。
異邦人諸国の民のうちの、神に信頼する異邦人(羊の異邦人 マタ25:31~)たちは、毎年、神を礼拝するため(イザ2:2~4)、仮庵の祭りに参加するためにエルサレムに上って来る。(各諸族の代表団が派遣される)
しかし、千年王国に、肉体を持って入った異邦人たちの子孫から、徐々に神に不遜な考えを持つ者が現れ始める。(メシア的王国では、サタンや悪霊がいないにも拘らず)
ユダヤ人は、メシア的王国以降、神に対する不遜者は全く発生しない
異邦人は、原罪の影響を受けて、神に不遜を抱く者が出て来る➡『白い御座の裁き』行きとなる
17節:地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
18節:もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つ疫病である。
19節:これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰となる。
仮庵の祭りのためにエルサレムに上って来ない異邦人諸部族には、雨が降らない。
神の祝福が与えられないということ。
雨が降らないという事→疫病が下るという事。仮庵の祭り、主の礼拝に来ない異邦人諸氏族への罪の刑罰となる。
エジプトが例として挙げられているのは、その可能性が一番高いからと考えられる。
『仮庵の祭り』は、エジプトからの脱出に関連し、荒野放浪を記念する意味合いがあり、収穫祭というような意味合いではなく、神による罪の赦しと贖いという概念に立つものである。
イスラエルにとっては喜びの祭りであるが、異邦人にとっては試される祭りである。
エジプトをはじめとして、礼拝と仮庵の祭りを拒む国には刑罰が科せられる。
20節:その日、馬の鈴の上には「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。
聖さが同一化し、普遍的となる。(イスラエルの民について)
その日→メシア的王国の時代。
「主への聖なるもの」→大祭司のターバンに付けられる金の銘板に刻まれていることば。
つまり、「聖別のしるし」である。(出エジプト28:36~37)
そのしるしが、馬の鈴の上に付けられる。→日常の全てが聖別された状態となる。
「主の宮の中の鍋」→いけにえを煮るための鍋(聖さ↓)
「祭壇の前の鉢」 →いけにえの血を入れる鉢(聖さ↑)
*二つには聖さの差があったが、メシア的王国では同一化される。
新共:「神殿の鍋」は特別に売られていた。それをもっていけにえを捧げていた。それらは単純に聖なる物となり、特に買う必要がなくなる。(商人は必要ない)
21節:エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。
主の宮に商人はいなくなる。
イスラエルの民全員の鍋が聖なるものとされる。従って、特別な鍋は不要。
世界から多くの諸部族の一団がエルサレムに来て、礼拝を捧げるとき、イスラエルの民が持つどんな鍋でいけにえを捧げても良しとされる。
「商人」とは、鍋を売ったりする人たちとも考えられ、そのような人は存在しなくなる。
また、商人の原語はカナン人とも訳せることから、道徳的、霊的汚れのない人たちで満ちている様子が浮かぶ。
イスラエルの民は、メシア的王国において、神の民として完成しその存在感を示す。
やはり選民イスラエルは、神の約束通り、神の民としてのポジションに就く!
ハルマゲドンの戦いについて
黙示録においては、第6の鉢の裁き、がこれに該当します。
時は、大患難時代の後半の、更に最終局面。
反キリストは、ユダヤの民3分の1壊滅のため世界規模の軍勢を集めます。
その地の名が、ハルマゲドン。
神がそれをお許しになり、エルサレム、そしてボツラへと攻撃が進んで行く!
(第1ステップ)
・ユーフラテス川が枯れる。
・反キリストの軍隊の召集。
・ハルマゲドン(イズレエル平原)に集結。
・これは、神の許しがあって、実現している。
黙示録16:12~16(第6の鉢の裁き)
(第2ステップ)
・政治的バビロンの崩壊。
・世界を支配しようとする統一政府(大バビロン)の崩壊。
・崩壊以降、千年王国の終わりまで悪霊群が住まう。
・反キリストは、この時には、ここにはいない。
黙示録18章、イザヤ13~14章、エレミヤ50~51章
(第3ステップ)
・反キリスト軍は、ユダヤ人の残りの1/3の壊滅へ。
・ハルマゲドンから南下し、先ずエルサレムを攻める。
・エルサレムの都は陥落する。
・都にいたユダヤ人の半分は生き残っている。
ゼカリヤ12章、14章
(第4ステップ)
・既に、1/3のユダヤ人はボツラに逃げている。
・ボツラはセイル山の山脈にあり、エドムの一部である。
・反キリスト軍勢は、ボツラのユダヤ人を総攻撃する。
黙示録12:6~17、マタイ24:15~22、イザヤ34:6
(第5ステップ)
・イスラエルによる国家的罪の告白
・メシア再臨を求める祈り
・ユダヤ人指導者はイエスのメシア性を拒否した罪に気付き、民を悔い改めへと導く。
レビ26:39~42、エレミヤ3:12~18、ゼカリヤ12:10、13章、14章、ホセア5:15、 6:1~3、イザヤ66:8
(第6ステップ)
・メシア(イエス様)はエドムの地、ボツラに再臨される。
・反キリストの諸国軍勢を滅ぼされる。
・主がお一人で戦われる。
・再臨のメシアは、次にエルサレムの住民を救う。
イザヤ34:1~7、63:1~6、ミカ2:12~13、ゼカリヤ12:7
(第7ステップ)
・ボツラの戦いの後、エルサレムの東壁へと進む。
・ケデロン(ヨシャファテ)の谷で戦いは終わる。
・流される異邦人の血は凄まじいものとなる。
ヨエル3:12~13、黙示録14:19~20
(第8ステップ)
・戦いが終わると、メシアがオリーブ山に立たれる。
・オリーブ山が南北に裂け、東西に巨大な谷ができる。(避難路となる)
・地球規模の地殻変動が起こる。
・エルサレムは3つに裂け、約55k(1タラント)の雹が降る。
・天変地異をもって、ハルマゲドンの戦いは、幕となる。
ゼカリヤ14:3~4、黙示録16:17~21、ヨエル3:14~17
マラキ1章1節~5節
マラキと時代背景
*マラキ・・『わたしの天使』、『わたしの使者』 という意味
*活動時期・・捕囚期以降に活動。手掛かりとして、1:8で使われる「総督」(ペハー)がヘブル語ではなくペルシャ語であるので、ペルシャ時代下にあることが分かる。また第2神殿が既に完成しているので、紀元前515年以降に活動したと考えられる。
1節:宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。
『宣告』・・ゼカリヤ書にも表記あり。重みのある預言。生死を決める重大事項。書置き。マラキ書自体が、そのような重みを持っているという事。事実、書としての預言は終わる。
2節:「わたしはあなたがたを愛している。 ―主は言われる― しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。―主のことば― しかし、わたしはヤコブを愛した。
愛している・・アハブ:偏愛的、寵愛的な愛。神の主権的な選び。無条件の愛。
ヘセド:合意に基づく契約の愛。条件が伴う愛。
ここでは、アハブが使われている。本来、長男のエサウが優先だが(長子の権利)、神はヤコブを選ばれた。神はヤコブを愛した。
私たちに対する神の愛は、まさに『アハブ』!この愛に応答しましょう!
世の中は、そんな私たちの目を神から引き離す要素が散りばめられているから、要注意!
3節:わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした。
『エサウを憎み、』・・冷遇する、選ばない、という意味合いが含まれる。
彼の山・・エドムの地を指す。ジャッカルの住処となり下がる。
エドムはバビロンにより滅ぼされ、再興を図ったが、立ち直れなかった。
既に、そういう兆候が見えていたと思われる。明らかに神殿再建のイスラエルとは異なる結果。→→神の決定事項であり、そこには神の愛による選別があるということ。
4節:たとえエドムが、『私たちは打ち砕かれたが、廃墟を建て直そう』と言っても、 ―万軍の主はこう言われる― 彼らが建てても、わたしが壊す。彼らは悪の領地と呼ばれ、主がとこしえに憤りを向ける民と呼ばれる。
神が「憎む」とは、再起の道がないことである
たとえどんなにあがいても、主は再起を許さない。
エドムは悪の領地と呼ばれる。神が永遠に憤りを向ける民となる。
神の絶対的主権の認識
5節:あなたがたの目はこれを見る。そして、あなたがたは言う。『主は、イスラエルの地境を越えて、なお大いなる方だ』と。」
既に当時、エドムの再起不能の兆候は見えていたと思われるが、私たちが見る歴史を見ても、エドムの再起はない。民は、エドムの衰退を見て、主は国境を超えてすべてを支配される絶大なる神と言うだろう。いずれ来るメシア的王国においては、エサウの子孫エドムの裁きを明確に見ることになる。それは、自分たちが神に愛されていたということに気付くことである。
神は、神殿再建後の民の心をご覧になり、その心が萎えていることを指摘している。
『主は、イスラエルの地境を越えて、なお大いなる方だ』と、果たしていつ言うのであろうか? 神の愛に信頼して待ち望む忍耐を神は求めておられる!
⁂口伝律法について
ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラーとは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法(口伝のトーラー)である。
ミシュナ 口伝律法 |
ソフリーム(BC6世紀~AD1世紀)と、タナイーム(1世紀~3世紀) のラビたちの、トーラーに関する注解や議論したもの。 本来は口伝だが、2世紀の末ごろに書物となった。 |
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ゲマラ | アモライーム(3~6世紀)のラビたちが ミシュナについて注解、議論したもの |
タルムード | 4世紀、5世紀にミシュナとゲマラが編纂されたもの |
この歴史は、ユダヤの民が神からどんどん離れて行く歴史である
マラキ1章6節~14節
6節:「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。 ―万軍の主は言われる― あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。
イスラエルの民は、神の民(主従関係)であり、神の子(親子関係)である。
神の子→ 出エジプト4:22、イザヤ1:2、63:16、エレミヤ31:9、ホセア11:1、参照
こうした関係は、神に尊敬の念、恐れの念があることが基本である。
神との関係を、律法を通して教え導くのは『祭司』の仕事の一つである
まさしく、その祭司を「わたしの名を蔑む祭司」と言って、叱責と共に、気付きを促しておられる神。お前たちは、外見上の祭司となり下がっている、名ばかりの祭司だ!
しかし、当の祭司たちは尋ねる。
どのようにして、あなたを蔑みましたか?私たちはきちんとやってますよ!
神はいつもその動機を見ておられるが、この祭司たちの動機は?
7節:あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。
神への日ごとの捧げものは、最上のものでなければならない。しかし、祭司たちはパンに限らず、ぶどう酒などすべてが最上でないものを捧げている。
それでも、祭司たちは汚したとは認めない!それどころか、主の食卓は蔑まれてもよいと、心の中で思っている!
レビ21:6「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。」
レビ6:12~18(祭司の仕事の一部)
*祭司の主な仕事
①聖所の務め→捧げもの(神への捧げものが律法にかなっているかを注意深く審査し、
すべてが規定通りであるように取り図る)、火を消さない
②民を祝福すること、きよめに関すること、ラッパの吹き鳴らし、律法やおきてを教えること
8節:あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。 ―万軍の主は言われる―
7節で「パン」と言ったが、それ以外でも汚れたものを平気で捧げている祭司。
職務怠慢!本来の仕事はホッタラカシである。どこにも『聖』は見られない。
『総督』に、そんな捧げものをするか?してみよ!彼はどういう態度を示すだろうか?
好意どころか、毛嫌いして近づけることさえしないだろう!
目に見える権威者には、真剣に、徹底的に捧げものを吟味して、ささげる。
しかし、神に捧げるときは、誠実さも忠実さもなく、無頓着にささげている!
人間の愚かさが露見している。目に見えるものに心が向いてしまう現実!
本当に大事なものを見失っている。特に祭司はそのストッパーなのに!
新約の時代にあって、私たちが祭司であることを認識しよう!
(Ⅰペテ2:5、9 ロマ12:1 黙1:6 )
9節:さあ、今度は神に嘆願したらどうか。『われわれをあわれんでください』と。このことはあなたがたの手によることだ。神があなたがたのうち、だれかを受け入れるだろうか。 ―万軍の主は言われる―
「今、『われわれをあわれんでください』と嘆願したらどうだ!」・・悔い改めたらどうだ・・ということ。
新共同では『今、神が恵みを与えられるよう ひたすら神に赦しを願うがよい。』
「あなたがたの手」・・つまり自分が蒔いた種、自分たちの行いの結果・・という意味。
悔い改めるという意味とやり方を知っているのか?知らないだろう!
10節:あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。 ―万軍の主は言われる― わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。
心から反省して、汚れた捧げものを止めるべく、神殿の扉を閉めて、祭壇に近づけなくするほどのような者が一人でもいるか?
神はこのようなイスラエルの民を喜ばない。よって神はその者たちのささげ物がいくら捧げられても受け入れることはない
当時、実際の王は存在していなかった。(ペルシャの支配下)
よって民のリーダーは、大祭司、祭司という図式だった。本来とは異なる特異な環境。
11節:日の昇るところから日の沈むところまで、わたしの名は国々の間で偉大であり、すべての場所で、わたしの名のためにきよいささげ物が献げられ、香がたかれる。まことに、国々の間で偉大なのは、わたしの名。 ―万軍の主は言われる―
神の存在感・・必ず神は全世界を治め、全人類(異邦人)が神を称える日が来る!
その時、率先してきよい捧げものをする神の民は素晴らしい祝福を受けるのではないか?
12節:しかし、あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。
13節:また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。 ―万軍の主は言われる― あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。 ―主は言われる―
それなのに「主の食卓は汚れ、その果実も食物も蔑まれている」と言って、不平を言うだけで何もせず、結果、神を汚し、更にそれに加えて、「ああ、面倒くさい!」と、軽視している。そして、かすめ取ったもの、病気のものを神に平然とささげている祭司たち。
そんなささげ物を、神は受け入れることはない。
本来の祭司の職務をどう思っているのか?!
大祭司や祭司は、外見は神に仕える姿勢を見せても、中身は世的。
大祭司エルヤシブ(大祭司ヨシュアの3代目)は、城壁再建の敵と融和(ネヘ13:4~7)
祭司の支配意識が職務怠慢を招き、民への悪影響となる。
導くリーダーの責任は大きい。神が上層部を叱る理由である
14節:自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。わたしは大いなる王であり、 ―万軍の主は言われる― わたしの名は諸国の民の間で恐れられているからだ。」
祭司の劣化は、一般の民の信仰の劣化につながる。ここは、一般市民への影響を指摘。
口では、「最上のものをささげます」と言い、実際に良いものがあるにも拘らず、ささげる物は汚れた傷物を捧げる一般の民。偶像礼拝はしていないが、完全に神の存在を軽視。
『ずるい者』→狡猾、偽り者。かつて神は、そのような不信仰を裁かれ、バビロン捕囚があったのに、そのことを忘れているかのようである。(従って、のろいの対象となる)
神は、かつて恐れられ、そして未来においても全人類に対して恐れられる存在となる。
ここに心の偶像礼拝へと転げ落ちて行くイスラエルの民の行く末が、既に指摘されている。こうした、目に見えない神を蔑ろにするという事は、それだけ自己中心的な考え方になっている証拠ではないか。人々の心に、果たして正義と公正(愛神愛人)の思いは育つだろうか?
マラキ2章1節~17節
1節:「祭司たちよ、今、この命令があなたがたに下される。
2節:もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら ―万軍の主は言われる― わたしは、あなたがたの中にこののろいを送り、あなたがたの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたがこれを心に留めないからだ。
祭司たちへの命令、すなわち『裁き』である。
気付きの促しに応答せず、神の栄光を称えること(祭司としてのあるべき姿)を忘れている。
本来の祝福は、『のろい』となる。否、もう『のろい』となっている。
神を忘れ、自らの使命を忘れ、目的意識をすり替えてしまった
決定事項である。もう祝福になる事はない。(心の偶像礼拝の預言と言える)
3節:見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともに投げ捨てられる。
祭司たちの子孫への責め。彼らと、彼らが執り行う祭りに対して糞をまき散らす。
家畜(いけにえ)の汚物(糞)は、律法によれば、宿営の外で焼かれて、捨てられる。(出29:14)
糞と同様、祭司も彼らの祭りも、宿営の外で焼かれて捨てられる→無意味なものとなる。
4節:このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。 ―万軍の主は言われる―
自分たちが、神に不遜な状態に気付いたら、過去、レビとの契約順守のために、祭司に対して与えた命令と、気づくことになる。(本来の祭司とその役割とは何か!)
*レビとの契約
出エジ32:23~29 ⇒26節:レビ族の中から真の礼拝者が選ばれたという事件。
民数8:5~19 ⇒レビ人の立場と役割について
民数18:16~29 ⇒レビ人の働きと収入について
申33:8~11 ⇒ (モーセのことば) 神との契約、任務について
5節:わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。
レビと神との契約の原則は『いのちと平安』である。つまり、民が真のいのちと平安に至る道。その道(律法)を彼に与え、彼はそれを恐れ(畏れ)と共に受け取り、主に信頼し感謝した。レビ(族)は真摯に、神の働きに精進した
私たちも、時流に流されず、神を恐れ、神に信頼する者の務めを実践する!それは、愛の実践!
6節:彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公平さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。
レビ(族)は、『正義と公正』という真理を貫き、不正を行わず、また人々に神の道を示した。神とともに歩み、多くの人々を不義から、悔い改めて真理へと導いた。
7節:祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ。
そうした行動は、祭司に受け継がれ、祭司はレビの言い伝えを守り、また人々も彼らに従って、神のみおしえを正しく守って歩んだ。
まさに祭司とは、『万軍の主の使い』だからだ!
今、神は私たちを祭司としてくださっている(万人祭司)
改めて、祭司としての役割と実効性について、見つめなおそう!
救われた者として、神の子として、神を証して歩む姿を、神は喜ばれる!
8節:しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。 ―万軍の主は言われる―
こうして続いてきた祭司の務めを、お前たちは蔑ろにしてその道から大きく外れた。
更に、多くの民に間違いを教え、彼らをつまずかせた。
その結果、神の民の存在価値は忘れ去られ、かつてのレビが心に抱いた神への恐れ (畏れ)は消え失せてしまった。
如何にリーダーの役割が重要であるかを指摘している神
9節:わたしもまた、あなたがたを、すべての民に蔑まれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守らず、えこひいきをしながら教えたからだ。」
彼らの不正は神の教えによらず、自分たちの判断(えこひいき)の教え。世的な支配。
まさに口伝律法がその象徴である。タルムードを見ると、良いことが書かれているが、目線は人間的である。⇒神から民の目を引き離す!
民が神にした(契約を損なった)ように、神は、彼らがすべての民に蔑まれ、軽んじられる者とすると決定した。歴史を見ると、相当に厳しい仕打ちとなっている。ここに、気付きの促しがあることを見逃してはならない。
10節:私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。
11節:ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。
私たちは、唯一の創造主なる神を崇める民ではないか?
それなのに何故、神の教えを守らず互いを裏切る支配関係を作り出し、また、神と先祖の約束(契約)を汚すようなことをするのか?(アブラハム契約)
ユダの裏切り→神に対する裏切り→律法の不順守
律法の軽視による汚れた行為。聖所を汚す行為。
それに加えて、異国の神を信じる異邦人の娘との結婚(エズ9:1~6、ネヘ13:21~27)
⇒律法違反:出34:15~16、申7:3
偶像礼拝はしないが、異邦の神の価値観が民の心に染み込んで来る