エレミヤ書15章1節~10節
1節:主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。
2節:彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』
・モーセ、サムエルのように祈っても無駄。モーセ、サムエルでも不可。この民を立ち去らせよ!
※モーセは3回祈りが聞かれた。(出32:11~14、民11:1~2、14:13~20、)
※サムエルは2回祈りが聞かれた。(Ⅰサム7:7~10、12:18~25)
・民は「立ち去る先」をエレミヤに聞くだろう。その時の答えは4つ。
①死、②剣(争い)、③飢饉、④捕囚と答えよ。それぞれの定められた裁きの道へ。
・注目点・・①~③はすべて絶滅を意味するが、④の捕囚は人が残るという事を示す。
神は必ず最悪の中に愛を秘めておられる。⇒歴史的観点からそれが分かる。
3節:わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。
4節:わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。
・神は、彼らの罰についての決定事項を宣告する。
①剣による死、②引きずる犬、③食いつくす空の鳥、④食い尽くす地の獣。
・彼らの運命は、侵略され、その後の死体が食い尽くされるという結末。
私見:「引きずる」・・は捕囚を連想する。死者はハゲタカ、ジャッカルの餌か。
・神はこの処罰を、世界に示す恐怖、見せしめとするとした。
・この根本原因はマナセ王によるエルサレムでの偶像礼拝にあることを示される。
霊的姦淫の罪の結果である
5節:エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。
・エルサレムに対して、哀れみ、嘆き、安否を尋ねる者はいない。
・いつの間にか消えて行く民族と同じになってしまうということ。
・国を失う神の民の悲劇。
6節:おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。
・その原因は、民が神を捨て、退き、離れたこと。だから裁きが下される!
・神は、民をあわれむのに疲れた、と言われる。
※民は悔い改めなければならないが、偽の悔い改めしかしない。
※神に疲れるということは無い。民の頑固さ、愚かさに対して呆れた様子を示す。
7節:わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。
・「この地の町囲み」・・(英)in the gates of the land・・「各城門で」の意味。
・「熊手」・・ほし草用の三又、熊手。
・熊手を使って麦の風選の時のもみ殻のように、民をまき散らす。→離散させる。
※エルサレムとその住民の破壊を意味する。→子孫が残らない状態(14:5、16)
※離散とは、仲間からも引き離され互いに慰めることもできない状態。
・「立ち返らなかった」・・悔い改めることなく、自分勝手な生き方を続けてきた。
厳しい裁きであるが、厳しい気付きの促しである事を覚えよう!
8節:わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。
・侵略によって、神はやもめ(未亡人)の数を激増させる。
・「若い男の母親」・・新共同:「若者の母親」・・「若い男を育てる母親」の意。
※更に言えば、母なるエルサレムを指す。
・「真昼に」・・大胆に、堂々と攻め入る。凌辱するという事。
・神は破壊者を大胆に攻め入らせ、若者の母親(エルサレム)を苦痛と恐怖に陥れる。
9節:七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」
・「7人の子を産んだ女」・・子は祝福を意味するが、敵前で恥と屈辱が下される。
・若者の母親・・エルサレムは瀕死の状態。→イスラエルの滅びゆく状態。
・「彼女の太陽」→自分の太陽→自分の栄光(エルサレムの栄光)が沈む。
・「残りの者」とは、この場合、母親の若者たち、つまり神に従わない者たちを指す。
10節:ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。
・「悲しいことだ。」→民の争い、口論の相手となっていること。
・母の胎の時からの定めではあるが、何故生まれてきたのだろうか?
・イスラエルの民として生まれながら、イスラエルの民と争う者として生まれてきた。
・イスラエルの民は、エレミヤの預言に対して苦情を言い、反抗の態度を示す。
・「貸しも借りもないのに」→法的トラブル(争い)は全く発生していないのに。
感情的な爆発が見られる:フルクテンバーム博士の見解⇒エレミヤは自分の内面感情や個人的経験を明確に示している点で、他の預言者と異なるユニークな存在である。
『神の好み』
・神の民として、他の民族の手本となるはずが、捕囚という厳しい裁きを受けることになったユダヤの民。ここに、我々聖徒として、神の期待に応えることの重要性が見えてきます。
・イスラエルが神の民として相応しくない時でも、必ずその中にエレミヤや、ダニエル、モルデカイなどの良い手本は存在しています。そして神はそれらの人々を守られます。
・私たちも、世の中がどうなろうと、聖書に書かれている神のみこころを探り求め、真摯に受け止め、神の民として相応しくあるように歩むことが最優先と知ることが出来ます。
・世は、頭脳の明晰さを崇めたり、富の大きさをうらやましがらせますが、それらを脇に置き、常に神と繋がり、日々謙虚さを積み重ねる人を神は好まれます。
「神は馬の力を喜ばず、人の足の速さを好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」詩編147:10~11