エズラ記8章1節~23節
1節:アルタクセルクセス王の治世に、バビロンから私と一緒に上って来た一族のかしらと、その系図の記載は次のとおりである。
2節:ピネハス族からはゲルショム。イタマル族からはダニエル。ダビデ族からはハトシュ。
3節:ハトシュはシェカンヤの孫。パルオシュ族からは、ゼカリヤと、系図に記載された同行の者、男子百五十人。
4節:パハテ・モアブ族からは、ゼラフヤの子エルエホエナイと、同行の男子二百人。
5節:ザト族からは、ヤハジエルの子シェカンヤと、同行の男子五十人。
7節:エラム族からは、アタルヤの子エシャヤと、同行の男子七十人。
8節:シェファテヤ族からは、ミカエルの子ゼバデヤと、同行の男子八十人。
9節:ヨアブ族からは、エヒエルの子オバデヤと、同行の男子二百十八人。
10節:バニ族からは、ヨシフヤの子シェロミテと、同行の男子百六十人。
11節:ベバイ族からは、ベバイの子ゼカリヤと同行の男子二十八人。
12節:アズガデ族からは、ハ・カタンの子ヨハナンと、同行の男子百十人。
13節:アドニカム族からの者は最後の者たちで、その名はエリフェレテ、エイエル、シェマヤ、および彼らと同行の男子六十人。
14節:ビグワイ族からは、ウタイとザクルと、同行の男子七十人。
キュロス王時代→第1次帰還(BC536年頃)
アルタクセルクセス王時代→第2次帰還(BC458年)
⁂約80年経している
第2次帰還民のリスト・・・第1次に較べとても少ない。
新共同では、セカリヤはゼカルヤ、3節の「孫」は「一族」となっている。
「部族の長」たち18名。
その同行者1496名。
家族数(3~4人)を考えると、総数5,200人程度。第1次の約1/10である。
帰還民の規模が小さい理由は、神殿再建ではないという事と多くの人が、地元に馴染んだからと思われる。召集は難航だった!
15節:私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間宿営した。私はそこに民と祭司たちを確認したが、レビ人は見つけることができなかった。
アハワ川→中川先生はユーフラテス川の支流、新共同はバビロン付近の町アハワを流れる川と説明があるが、場所は不明である。
帰還民が集合し、3日間宿営したが、レビ人の姿が無かった。
レビ人の働きは、神殿での活動で、ささげものが中心となる生活である。
そうした生活は一変(世俗化)。かつて、イスラエルの民のささげものであったレビ人であったが。
エズラは、神の民となるうえで、レビ人と働くことに大きな期待があったと想像する。
神の律法に従い、忠実に神殿の働きをサポートするレビ人の存在
律法を研究し、忠実にそれを守るための指導、教育の人材としての存在
その働き手が、いない!一人もいない!!
16節:それで私は、かしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、
エズラが信頼する「かしら」と称するサポーター11人。7章28節。
17節:カシフヤ地方のかしらイドについて、彼らに指示した。すなわち、イドとその同僚、またカシフヤ地方にいる宮のしもべたちに対して、私たちの神の宮に仕える者たちを送ってもらうためには何と言えばよいか、彼らにことばを授けた。
かしらたちを、カシフヤに派遣。
カシフヤ→新共同:現バグダッド近辺で、チグリス川沿いのクテシフォンとの説。不明。
この町には、レビ族の人たちが集まっていた可能性がある。その地のかしらはイド。
イドをはじめ、同僚に対する説得理由について、細かく指示し派遣した。
律法違反が捕囚原因となり、現在に至る。目指すは律法に忠実な神の民。
神の民のレビ人としてのアイデンティティと、その役割の重要性を示したのではないだろうか。
18節:私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子のうちから賢明な者、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八人を私たちのところに連れて来てくれた。
19節:また、ハシャブヤとともに、メラリの子のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十人、
20節:および、ダビデとその高官たちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮のしもべたちのうちから、二百二十人の宮のしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。
神の御手が働いていることをエズラは明示している。
マフリ→レビの子メラリの子…レビの孫の氏族。メラリ族に属する。
イスラエル、レビ、マフリの子孫の賢明な人材と、シェレベヤとその子ら、兄弟たち18人。
ハシャブヤ、エシャヤとその兄弟たちと子たち20人。
更に、ダビデの時代に、レビ人に奉仕するよう任命された宮のしもべ220人。
彼らは、エズラのことばに信頼し、自ら出てきた者たちと考えられる。
指名された・・というよりは、記録された者という称賛の意味であろう。(新共同)
捕囚とは、神の民としてのアイデンティティを奪って行くもの。
神はエズラを通して、その再興に働いておられる。
21節:私はそこ、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。
アハワ川で、断食を布告。
神の御前にへりくだり・・・謙虚さを失わないという意思の表れ。
《目的》帰還民と帰還民が所持する持ち物(運搬物)が無事にエルサレムに到着する事、そのために道中無事である事を祈禱する。
22節:それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。
それは、エズラのことば「神は、神を尋ね求める者に幸いを下し、神を捨てるすべての者に怒りが下る」と、王たちに語っていた手前、道中の護衛を求めなかった。
見栄を張ったのではない。意図があった。神の民として、神に全幅の信頼を置く姿勢の表れであり、「恐れるな!」と励ます神のことばに応答した結果と考える。
23節:そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。
アハワ川の断食祈祷は、重要な実践である。
これから後の、帰還民の心に大きな影響を与える。
この表現は、すでに終わった内容について語っている。つまり、うまくいったという事。
大変な祈りが聞かれた!ということが、後の神の民の心を建て上げることの暗示。
祭司、そして学者であるエズラは、北イスラエルや南ユダが偶像に走った歴史を知る。
イスラエルの民がモーセの律法から離れてしまったことが、南北の捕囚の原因、つまり神の怒りの原因と痛感していた。
彼は徹底してモーセの律法に信頼する生き方実践し、考え方を指導していたと思われる。
それゆえ、王に旅の助けを求め、恐れを示すことは出来なかった。
護衛を求めないことは、一般の人には愚かな選択に見える。
何故、王の武力にすがらないのか?・・と。
彼は7章28節で、神の御手の働きを十分に感じ、奮い立っている。
護衛をつける権限は十分にあったが、こうした決断の方が、神の栄光を示すものと考え、この決断へと導いたと考える。
自らが、神に全幅の信頼を置く生き方を示す覚悟!をしている。
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」マタ10:28
真に恐れるべきは、大きくて、緻密で、愛ある私たちの神です。
エズラを参考に、クリスチャンライフを見直してみましょう!