エレミヤ書8章4節~9章1節
ティシャ・べ・アブについて
神殿崩壊日
ティシャ・ベ・アブとは、「アブの月の9日」の意味で、エルサレム神殿の崩壊を嘆く悲しみの記念日。 8章13~9章22節は、その時の祈りの一部となっている。断食して、嘆きの壁に集って祈る。「アブ」の月は、太陽暦の7~8月。
伝承によれば、神殿崩壊が同じ日。イスラエルの悲しみの記念日
①バビロン捕囚による神殿崩壊
②ローマによるAD70年の神殿崩壊
更にミシュナには
③約束の地の偵察後に、消極的な報告をした日
④133年、ローマ軍が神殿の跡地を更地にした日
⑤135年、バルコクバの乱でエルサレムが陥落した日
同様に、断食して悲しむ日は、秋の祭りの「贖罪の日(ヨム・キプル)」である。これは、大患難時代を暗示する。ティシュリの月(9~10月)の10日
4節:あなたは、彼らに言え。『主はこう言われる。人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか。
5節:なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。
・人は、自然の現象として、倒れたら起き上がり、迷い離れたら戻って来るものではないか?
・なぜ、イスラエルの民は背信を続けるのか?偽り、欺瞞に固執し、神への回帰を拒否するのか?
・ユダの永続的な後退を意味している。タルムードに、イスラエルの民は預言者に抗う傾向があると記載あり。
6節:わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。
7節:空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。
・神は彼らを観察し、注意深く耳を傾けたがだれ一人、悔い改める者はなく、戦場に突撃する馬のようだ。
・コウノトリ、山鳩、燕、鶴などの鳥たち→帰巣本能があり、主の定めに従う姿勢。
・人は主の定めを無視する。神の目線では、人は鳥たちよりも劣っているように見える。
神は一時の過ちを赦してくださる一面が見える。イスラエルの民は神の寛容さに甘えすぎている状態。
8節:どうして、あなたがたは、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言えるのか。だが、見よ、書記たちの偽りの筆が、それを偽りにしてしまった。
9節:知恵ある者たちは恥を見、うろたえて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろうか。
・モーセの律法を、書記官を使って書き換えて、嘘にしてしまっているではないか!
・旧約のエレミヤ書にモーセの律法の意味を変えたことが記されている。禁止が許可され、許可が禁止された。
・それを企んだ、知恵ある者たちは後に恥を見る。捕囚され、結局、知恵などないことが分かる。
10節:それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
11節:彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。
12節:彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。
・これらの賢者とされる者たちの妻も土地も全てバビロンに与える。→神の決定事項。
・その理由が、
①全ての人が利益、富に貪欲である。→神が一番ではない。
②宗教指導者の上層部は偽預言者、偽祭司である。
③神の預言を無視した偽情報で人々をだます。
④偶像礼拝を恥と思わなくなっている。
攻め込まれて殺されるものと共に倒れ、処罰の時にさらによろめき倒れる。
(吉田私見・・永遠の刑罰を知ってうなだれ、よろめく姿を想像する。)
13節:わたしは彼らを刈り入れたい。──主のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」
・神は、実を摘み取りたいと考えてブドウ、イチジクの木を見るが、実がなく、葉が枯れている。
神は、2:21で木々の質の悪化、6:9で徹底した摘み取りの指示、そして8:13で実のない状態。これは、神によるイスラエルの荒廃の完了、すなわち徹底した破壊を示している。
14節:「何のために私たちは座っているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで滅んでしまおう。私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。
・何のために座っているのか?偽預言者に従った結果、窮地に追いやられ呆然としている。
・敵が周囲にいるので、城壁の中に入って、そこで静かにしていようか。
・主に罪を犯したがゆえに、結局のところ、毒水を飲まされることになる。もう、この期に及んでは全て手遅れ!
15節:平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」
・偽預言者の話に信頼し、平安を求め、癒やしの時を期待したが、結果、恐怖しか残らない状況。
16節:「ダンから馬の鼻息が聞こえる。その荒馬のいななきの声に、全地は震える。彼らは来て、地と、それに満ちているものを、町とその住民を食らう。
・ダン・・イスラエルの最北端の都市。聖書地図4、F:10。
北イスラエルの初代王ヤロブアムが、偶像を置いて礼拝地とした。
・馬の鼻息が聞こえる・・軍隊の大きさとスピード感が感じられる。
・イスラエルの偶像礼拝に染まった町から、侵略が一気に始まる。
17節:見よ。わたしがまじないの効かないコブラや、まむしをあなたがたの中に送り、あなたがたをかませるからだ。──主のことば。」
・まじないの効かないコブラやマムシ・・まじないとは裏工作、賄賂などを指すと考えられる。それが効かない!
・当時のバビロンに対する政治的、外交的な活動が、自国を苦しめる政策であったと想像する。
・フルクテンバーム博士は創49:17中にある、ダン族と蛇との関係で解説されている。
18節:私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。
19節:見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」
・エレミヤがビジョン(幻)を見たときの嘆き悲しみが表現されている。
・「・・そこにおられないのか」は民の言葉。イスラエルの民の声が遠くから聞こえてくる。
7:4で見た、神殿をお守りとする心が「神はシオンにいないのか、守られるはずではないのか!」と叫ばせる。
・「・・おこしたのか」は神の言葉。どうして偶像礼拝によって神の怒りを引き起こさせるのか?
裁きの原因は、民の行動(偶像礼拝、背信行為)の結果である
20節:「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」
21節:娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。
22節:乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。
・エレミヤは季節の収穫もなく、何の希望もなくなったイスラエルの民のビジョンを見た。
・エレミヤの心が深く傷ついた。悲しみと言うより恐怖と言った方が良いのかもしれない。神への恐れ。
・ギルアデ・・ヨルダン川東部(聖書地図4、F:6)。乳香→ギルアデに生息する木の樹脂から作られる鎮痛の軟膏。
・乳香も医者も何故イスラエルを治せないのか?・・それは彼らが偽者だから(Ⅱ歴36:14~16)
イスラエルの傷も病気も不治の病ということである。
9章
ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。
・もう避けることのできないイスラエルの悲劇を見たエレミヤは、その悲しみに覆われる。
・多くの人が死ぬことが明確であり、彼の涙はどんなに量があっても足りないほどである。
・避けられない裁きを知らせる自分の力不足についても、悔やむ思いがあったと思われる。
・そうした民の苦しさを知る人だからこそ、神はエレミヤを預言者としたと思われる。
・彼は捕囚後のイスラエルを看取る役割も担っている。
彼は『孤高なる悲しみの預言者』である。
『未来を知る者の務め』
・エレミヤは具体的にビジョンを見せられています。彼の嘆きから想像するに、まるで3Dのようなリアルなものだと思います。それ故、預言者としての言葉が響かない相手に苛立つも、最後は悲しみとなります。
・神は、エレミヤに祈るな!と命じられましたが、そんな切なさをご存じの神が示された愛情では、とも思います。預言者の仕事は、並大抵のことではありません。
・さて、あるキリスト教団体で、「救われた者は、地上に御国を造るんだ!」と言って活動するグループがありました。地上に幼稚園を造ったり、学校や病院も建てたいとも。果たしてこれは、神の御心でしょうか?聖書にそのような箇所を見つけることはできません。
・私たちは信じて救われました。未来を示され保証されていますが、未来の悲惨さも知っています。故に、私たちは既に救われた者として、必然的にまだ救われていない人に神を伝えることが求められています。
・伝える方法は様々ですが、それぞれの賜物に応じて神が用いてくださいますから、伝道と言う基本姿勢を持ちつつ、自らがクリスチャンになれた喜びを満喫する人生を常に生きることが優先されます。
「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」 エペソ5:8