ゼカリヤ10章1節~12節
1節:主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。
9章17節の流れから見ると、この個所は、メシア的王国時代のことと想像できる。
だから、メシア的王国となったときには、「マター」と言って普通の雨を求めるように願えば、神はそれ以上に多くの恵みをもたらす大雨を降り注ぐ。それがメシア的王国である。大雨は野の草を育み、地は豊かになる。→経済の豊かさを暗示している。
雨は聖霊に例えられる。
恵みの時代にあって、この雨を考える時、先の雨がペンテコステと考えられる。
後の雨の時とは、メシア的王国(千年王国)の時代である。
ヨエル書2:23
「主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。」
イエス様によって義が示され聖霊が与えられる時代。大雨とは、イエス様が開いてくださった聖霊傾注という恵みの時代の救い。主は義の教師。
後の雨とは大患難時代の終わりにイエス様が再臨してイスラエルの人々に与えられる恵みの時代の最後の聖霊傾注。
ゼカリヤ書の後の雨と重なる!
2節:テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。
話題はメシア的王国から、大患難時代の最終段階へと変化する。
テラフィム・・家の守り神(占いや霊媒などに使用)。大きさは様々。
その当時、占いや、無意味な幻を見て語る偽預言者があり、嘘を語る。
そんな世になり、正しいリーダーがおらず、民は混乱する。
3節:「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」
万軍の主は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。
そんな状態のリーダーを、神は、怒られている。(雄やぎ→リーダー)
神は、ユダの家の人々を戦場の馬の如く奮い立たせる。
ユダの血筋はイエス様に繋がっている。メシアの予告か。馬は「赤い馬」を連想させる。
4節:この群れからかしら石が、この群れから杭が、この群れから戦いの弓が、この群れからすべての指揮する者が、ともどもに出て来る。
このユダの一族の群れから、次の四つが出て来る。混乱した状態に必要。
①かしら石 →救い主
②杭(テント張り) →国を安定させるリーダー
③戦いの弓 →主の戦いの武器
④指揮する者 →指揮者
5節:彼らは勇士のようになり、戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。主が彼らとともにおられるからだ。彼らは馬に乗る者どもを辱める。
主が共にいる時、彼らは本来の勇気を持ち、戦い挑んだ敵の軍勢を辱める。
神の存在が明確になり、結局、異邦人は自分の愚かな選択と行動を恥じることになる。
6節:「わたしはユダの家を力づけ、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。」
ユダ族を励まし、ヨセフ族を救う。
神に祝福される者となる。民が神の期待に応答し、神がその結果を示す。
ユダヤの民がメシアを受け入れ、民の応答(立ち返り)に神が対応したということ。
7節:エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。
エフライムを含む全イスラエルの民がメシア的王国を目撃し、歓喜する。(聖霊に酔う)
イスラエルの民は、以降、完全なる神の礼拝者として立つことになる。
DKNJは、ユダヤの民に与えられた最後の救いの機会であり、その患難を乗り越えて、神の約束(アブラハム契約)が成就する!ハレルヤ!!
8節:「わたしは合図をして彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数を増す。
9節:わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、彼らは遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る。
「合図して」‥羊飼いの口笛。羊を集めるがごとく、神は離散していた人々を集める。
それは、イスラエルの民がイエス様を求めて、神に立ち返ったからだ。
世界に離散しているイスラエルの民も、神に立ち返り、約束の地に帰還してくる。
彼らはその子孫となる子らとともに帰還してくる。
10節:わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリアから集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。
エジプト・・奴隷の象徴、アッシリヤ・・捕囚の象徴。これらの苦難からの解放。
ギルアデ・・ヨルダン川の東北部で、放牧に適する地。レバノン・・約束の地の北限。
この約束の地にイスラエルの民は住むが、土地が狭くなってしまう。
11節:彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、ナイル川のすべての淵を涸らす。アッシリアの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れ去る。
苦難の海を渡る・・とは、まさにイスラエルの苦難の歴史が終わることを意味する。
海を打ち破り・・とは、彼らを迫害する異邦人との戦いに勝利することを意味する。
その時代のアッシリヤ、エジプトという異邦人の迫害の力は全て主によって打たれる。
大患難時代の天変地異まで起こる事態に、紅海は打たれ、ナイル川は枯れる。物理的にもイスラエルの帰還を妨害するものはなくなる。
12節:わたしは主にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。―主のことば。」
わたし・・これは第二位格の神イエス様。再臨されることは民を励ますこと。
これから以降、民は、真の神の民として歩み続けることになる。ハレルヤ!
メシア的王国の始まりである。
選ばれし民の苦しみの歴史が終わり、新たな時代が始まる。