エレミヤ書7章1節~15節
1節:主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。
2節:「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。
・「主を礼拝するために神殿にやって来た人々に対して叫べ!」と命じる神。
どの門か?・・門は、北3か所、南3か所、東の1か所が正門とされていた。そのうちの一つか、又は、中庭の内門の一つのどれかであろう。
語るタイミングは?・・指示されていない。人が多く集まるのは3大祭り(過越、七週、仮庵)の時であるから、これらの時であろうと想像される。
3節:イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
・「生き方と行いを改めよ」→悔い改めよ・・厳しく方向転換を勧める神。
そうすれば、神は民をこの地に住まわせる。・・祝福される。
・外見的な律法への応答は無意味と指摘している。私たちも十分注意しなければならない。
4節:あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。
・「主の宮、主の宮、主の宮だ!」という偽りのことばを信頼するな。これは迷信だ!
・迷信とは、神殿の存在が、この土地、都市の安全を保障するという考え。信仰生活とは無関係になる。
時はBC701年、アッシリヤのセンナケリブ王が、ユダに攻め入り町々を攻め、とうとうその軍隊がエルサレムを取り囲んだ。ユダの王はヒゼキヤ。
ヒゼキヤはBC722年の北イスラエル捕囚の原因が神の律法の不従順であるとを悟り、神に回帰した善王。国民も偶像を破壊し、一体となって神に回帰した。ヨシヤ王はこれに倣ったのかもしれない。
周囲を囲まれたヒゼキヤ王は、イザヤの励ましを受け、神に祈ると敵が一晩で18万5千人が神の天使によって死んだ。敵は引き上げエルサレムは守られた。(Ⅱ列18:13~19:37参照)
この言い伝えがいつしか迷信に変わっていった。「主の宮」と3回唱えれば、主の住まいがそこにあるからエルサレムは守られる、という迷信になっていた。神殿の存在ではなく、神の存在が重要だという事!
5節:もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6節:寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7節:わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。
・悔い改め→方向転換し→「正義と公正」を行う・・「神を愛し、隣人を愛する」→モーセの律法の主要テーマ
・「唯一の神を愛し、忠実に従う人生を歩む」
・「弱き者、苦しむ者を虐げず、無実の者の血を流さない」
・これらを実践するなら、神は彼らをこの地に住まわせ、守られると約束される。
8節:見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。
・人々は何に信頼しているのか。
・役に立たない、無意味な嘘に信頼している現実。
9節:あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
・人々は、盗み、人殺し、姦淫、嘘の誓いを行い、更にバアルに礼拝を捧げ、偽の神々に従っている。
・これらは皆、モーセの律法に違反する行為。
・彼らはモーセの律法が示す祭りを行っていたとしても、それは楽しむためであり、神に対する心の服従心や忠誠心は皆無であった。
・律法(神を愛し、隣人を愛する)に反する限り、彼らに安全は無い。
10節:そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。
・神の神殿の神の御前で、これらの忌まわしいことをしておきながら、「私は救われている」と言うのか。
・律法を無視する者たちが、神殿に来ただけで「救われた」とは、神を愛していないという事の表明。
11節:わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。
・神殿は、盗みなどの律法違反者が集う所と思って集まっているのだろう。それは強盗の巣窟と同じ。
・神の目にも、神殿は神殿に非ず、強盗の巣窟としか思えない。
・人の目にはお守りのように見えている神殿。しかしその実態は、律法を無視する強盗の巣窟である。
新約聖書で、イエス様が興味深い言葉を語っている。
「そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを、『強盗の巣』にしている。」 マタイ21:13(マルコ11:17、ルカ19:46)
12節:だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。
・シロの教訓に学べ。神はシロに何をしたのかを。
シロ(聖書地図4のE・5)
・現在はセイルンの遺跡となっている。
・エフライムの地の都市で、エルサレム建設前の宗教的、政治的中心地であった。
・約束の地に入って、初めて「会見の天幕」が設けら、その後神殿が建てられた。(エリ、サムエル)
・ペリシテが侵略し、陣営に契約の箱を持って行ったが奪われ、町も神殿も破壊された。(Ⅰサム4:3~22)
・その後、人は住んだものの老朽化した。(エレ41:5)
・契約の箱を持ち出すことは神への不従順であるが、勝利を呼び込むお守りと思って持ち出した。
・エレミヤの時代も、民は神に不従順であり、神殿を幸運のお守りと思っている。
・シロで起こった悲劇は、この時代のエルサレムにも起こるという事を神は諭しておられる。
13節:今、あなたがたは、これらのことをみな行い──主のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、
14節:わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。
・神は、絶えず方向転換を期待して預言者を送り、気付きを促し、導いた。
・しかし彼らは偶像に走り、神の声を聞こうともしなかった。
・故に神は、神殿とこの地に、シロと同じような裁きを与えることを決めた。
15節:わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』
・エフライム・・ヤコブが右手を置いたヨセフの子。ヨシュア、サムエルもエフライム族出身。
・北イスラエル初代王ヤロブアム1世もエフライム族。北イスラエル王国をエフライムと呼ぶようになった。
・この史実から、シロにしたように、そして北イスラエルにしたように、ユダに同じことが起こると神は宣告する。
『神に甘える人』
・自分は神の民と言いながら、偶像を拝み偶像に従って生きるイスラエルの民の実態。神は怒りにも似た忠告を、エレミヤを通して与えます。
・新約聖書でも、神に信頼して生きることを勧めていますが、実際の所信頼しているのか、それとも甘えているのか、と思えることがあります。
・神は私たちの天の父なる神。従って私たちが父に甘えることを、神は決して怒りはしません。しかし一方で、良い地に育つ種の話をしたり、主の道を示されたりして、神は人々の成長を望んでおられます。
・成長は決して学力、知識力の向上だけではありません。むしろ、愛の実践こそが神の期待と言っても過言ではありません。まだそこに至っていないうちは、神に甘える未熟な状態ではないでしょうか。
・私たちは神に甘える人ではなく、神の期待に応答する人となることが目的のはずです。目的を忘れず、甘える人から期待に応答する人を目指して共に歩みましょう!
「ですから私たちは、キリストについての初歩のおしえを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。・・・」 ヘブル6:1より
バビロン捕囚