エレミヤ書14章13節~22節

13節:私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」

・神に止められても執り成しを続けるエレミヤ。
・偽預言者→争いも飢饉もないと嘘で民を導いた。
※これまでとは別の視点で神に懇願する。
裁かれるべきはこの偽預言者たちではありませんか?!との思い

14節:主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。

・神は偽預言者との繋がりが無いことを明言。
彼らは、モーセの律法に違反する占いを実践する者たち。
 申18:10~11、エゼキエル13:6~9、Ⅱ列17:17~20
・彼らは、占い、偶像礼拝、心の欺瞞を預言としていた。 

15節:それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』

・偽の預言者がする預言は、争い、飢饉が起こらないということだが、実際には起こる。
・そして彼らは、起こらないと預言したその争いと飢饉で滅ぶことになる。

16節:彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。

・「死体は道端に放り出され、葬る者もなく、家の全部が滅ぶ・・」
※偽預言者に従った民も同様に争いと飢饉で滅ぶことを示す。
※これまでの彼らの行動が悪であったことを彼らに気付かせるために。
民には偽物と本物を区別する責任がある⇒事実、本物も存在していた
では、偽物と本物の預言者を区別する方法とは?
①モーセの律法に従っているかどうか⇒申13:1~5

②預言したことが実現するかどうか⇒申18:20~22
・言い訳の余地がなく、民を裁かない理由にならない。
・エレミヤの二回目の執り成しは却下された。

17節:あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。

・次のことばを語れとエレミヤに命じる神。民の裁きも決定であることを宣告。
・エレミヤの涙が日夜止まらないほどの悲劇が襲う。
・「乙女である娘」・・攻められたことのないエルサレム⇒大打撃を負うことになる。
・偶像礼拝による姦淫はエルサレムを汚し、その裁きは悲惨なものとなる。

18節:野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」

・争いと飢饉で大量の死者が、野(町の外)にも町の中にも散乱している。
※「行き巡って」・・(へ)sahar は人身売買とか取引、密売の意味も持つとのこと。
・偽預言者、祭司は偽の預言で人々を死なせ、自分たちは私腹を肥やしている様子。

私見:偽預言者、偽祭司たちは、そうなることも知らずに(何が起きているのかも知らずに)、偽の預言をしつつ、商売(金儲け)に明け暮れている。

19節:「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。

・神は完全にイスラエルを嫌われ、見捨てるのですか?と念を押すエレミヤ。
・打たれ、その後の癒しもない→ただただ、恐れしかない!⇒絶望

20節:主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。

・エレミヤは悔い改めをしている。

・だが、エレミヤを始めとする真の悔い改め者は少数。大多数は邪悪を悔い改めない。

21節:御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。

・エレミヤは、3項目を上げて神に執り成しを懇願する。
 ①御名のために・・神の性質、存在が傷つくことを避けるため。
 ②栄光の御座を恥としないため・・民が滅び、賛美者を失わせないため。
 ③契約を守り続けるため・・神が約束を守り、約束が実現するため。(アブラハム契約)
・エレミヤが懇願したこの3点 ①御名のため、②栄光の御座を恥としないため、③契約を守り続けるため、は、逆に民が裁かれる理由でもある。つまり・・、
①御名は偶像礼拝によって汚された。
②栄光の御座に偶像が入った。(Ⅱ歴33:3~5 マナセ王)
③契約は民によって破られた。(シナイ契約)
※私見:シナイ契約は破ったが、無条件契約のアブラハム契約に訴えるエレミヤ!


22節:国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」

・エレミヤは、14章の冒頭の日照り(干ばつ)に話を戻す。
・干ばつ(日照り)を解消する大雨は、神の御業以外ありえない。(偶像には無理!)
・「秋の大雨」→「はじめの雨」→「再スタート」を待ち望む・・とエレミヤは訴える。
 

『基準の必要性』

・偽物と本物の区別について16節で見ましたが、実社会でも裏切りや欺きは日常茶飯事であるように思われます。だからこそ本物を見る目が養われることが望ましいのですが・・
・人間は、不完全であるという事がこうしたことからも分かります。この不完全さを補う基準を、私たちは必要としています。人がこの基準を築こうとしても不可能です。

・大半の人は、いつの間にか人の基準を心の中に植え込まれて育っています。だからこそ意識して神の基準を学び、「人の基準」を「神の基準」と置き換えなければなりません。
・目の前の幸いや豊かさも、簡単に人の期待を裏切ったり欺いたりします。それらは本物に気付かせるための神の気付きの促しかもしれません。不完全さを補う神の基準に注目しましょう。
「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにしてくださる。」箴言3:5~6

2025年04月10日