ホセア12章1節~14節

1節:エフライムは風を飼い、一日中、東風の後を追う。重ねるのは虚偽と暴行。アッシリアと契約を結び、エジプトに油を送る。

「風を飼い」・・とは、掴みどころのないものを追いかけている姿。
「東風」とは、東から来る熱風であり、神の怒りの象徴。神の怒りを買う行動に余念がない状態。追いかけるべきは神なのに、アッシリア(大国)を追い、暴虐となり、神への背信となる。
そんな彼らのすることは、アッシリアと契約を結び、エジプトに貢物(オリーブ油)をすること。

北イスラエルは、滅ぶまでに、アッシリアやエジプトの様子を見つつ、盛んに朝貢はしていたが、アッシリアと契約関係を結んだという歴史的事実はない

2節:には、ユダに対して言い分がある。主は、生き方に応じてヤコブを罰し、行いに応じて彼に報いる。

ユダに対して言いたいことがある。新共同訳:主はユダを告発する。
今は良いが後には北イスラエルと同じようになるから聞いておけ!というニュアンス。

神のイスラエルの民全体に対する基本的姿勢は、その生き方・行動に対する罰と報いの応答。

良い生き方とは、神の期待に応答して生きること⇒報酬
悪い生き方とは、神の期待を無視して生きること⇒罰

3節:ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。

4節:御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った。ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた。

ヤコブは「かかと」の意味。兄のかかとをつかむ。神の祝福を奪うほどに熱望する姿勢。
創世記32章22~30節:兄エサウを恐れていたので、とにかく神の祝福が絶対欲しい!という思いで、御使いと格闘。御使いは、腿の関節を打ち、ヤコブの傷は大きかったが、それでも祝福を掴もうとするヤコブの思いに根負けしたということ。ホセア書には、泣いて願ったとまで書かれている。(狡猾なヤコブではなく、神の祝福を熱望するヤコブという側面が重要!)
このようなヤコブは神に出会い、神の声を聴く機会が与えられる。ヤコブの神への立ち返りとなった。その地がベテルなのに、今は偶像礼拝の中心地になっているではないか!


5節:は万軍の神。その呼び名は

すべての敵、すべての偽の神を凌駕するのが、万軍というすべてをしのぐ力を持つ神!その偉大な名は主である!そのことになぜ気付かないのか!イスラエルの目線が、世の中にどっぷり落ちている!


6節:あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。

為すべきことは神に立ち返ること。常に神を見上げる姿勢が必要だった。
それは、誠実(正義)と公正という神の教えをしっかりと理解し守ること。
今となっては、裁かれることが前提であり、これは、残れる者へのことば!
「神を待ち望め」とは、アッシリア捕囚から大患難時代に亘るイスラエルの民全体への励まし。

7節:商人は手に欺きの秤を持ち、虐げることを好む。

「商人」・・へブル語では「ケナアン」、つまり「カナン人」と同じ言葉。
彼らは、人を欺き利益を得ることを優先する商人。まさにこの世的な人々。
カナン人と同化するということは、商売(ビジネス)優先の考え方になり、偶像がもてはやされることになる。


8節:エフライムは言った。「確かに私は富んでいる。私には力がある。私のすべての勤労の実があれば、私のうちに、罪となる不義は見つからない。」

北イスラエルはこうしたカナン人のビジネス優先主義に感化されていた。
「富があるから力があり、勤労によって富があれば、罪、不義は見つかることはない!」
新共同訳:「この財産がすべての罪と悪とで積み上げられたとはだれも気づくまい。」


9節:「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、である。例祭の日のように、再びあなたを天幕に住まわせる。

出エジプトの奇蹟を実施した神。
「例祭の日」とは「仮庵の祭り」のこと。これは荒野の生活を思い起こし、神とのかかわりを喜ぶもの。
アッシリアに捕囚され、土地を失い、財産を失い、まさに天幕での生活(流浪の民)となるという裁きを示している。


10節:わたしは預言者たちに語ってきた。わたしが多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示したのだ。」

もう取り返しはつかない。すでに正しい預言者を通して語り、伝えてきたことだ。
気付きを散々与えたのに、あなたはすべて無視してきたではないか。

決して見限っているのではない。覚悟を迫る勢いである。

11節:ギルアデは不法そのもの。いや、彼らはむなしいものとなった。ギルガルで雄牛が献げられたが、その祭壇も、畑の畝の石くれの山になる。

ギルアデ・・6章に登場。偶像礼拝の地。ヤコブと関連ある地域。

創31:25~55:ラバン&偶像環境からの決別を神がなさった場所。
ギルガル・・4章、9章に登場。偶像礼拝の中心地のひとつ。
不法を通り越して、むなしい、価値の無いものであり、その地の偶像の祭壇も、単なる石の山、無価値なものである。

12節:ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした。

ヤコブがエサウから逃げた時、また妻を迎えるため働き、羊の番をした時も、どんな時も神が彼と共にいて、彼を導き祝福した。彼も神に信頼した。


13節:は一人の預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、一人の預言者によって、これを守られた。

エジプトで奴隷となっていた時も、百数十万人というイスラエルの民を、モーセを用いてエジプトから導き出し、モーセを通して守られた。

百数十万人の奴隷であった人民を解放し、一国の民として、何もない荒野で敵から守り、育成させることは、人間業では無理な御業ではないか!この預言は、北イスラエルだけではなく、南ユダをも含めた内容であることは明白!

14節:エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。彼の主は、その血の責任を彼の上に下し、彼のそしりに報いを返される。

そんなよき関係を築いていたにもかかわらず、北イスラエルは神の期待にはずれ、偶像礼拝(人身御供)へと罪に走った。主はその罪の責任を裁きの形で、北イスラエルに負わせる。神を侮る者は、相応の裁きを報いとして受けることを心に記さねばならない。
12章2節にあった南ユダへの言い分とは、まさにこの警告である。神の目には南ユダの行く末も、明確に見えているのである。もちろん、恵みの時代も、そして大患難時代も。

2022年05月13日