マラキ3章1節~12節

1節:「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。 ―万軍の主は言われる。」

『わたしの使い』&『契約の使者』を、神は遣わすと明言しておられる。
マラキの名前の意味は『わたしの天使』、『わたしの使者』である。
マラキはイエス様について預言を語る使命が与えられた。3章以降は結論的位置づけ。
2種類の使者について語られていることに注目。
『わたしの使い』→4:5から預言者エリヤ→バプテスマのヨハネがその型
『契約の使者』→『あなたがたが尋ね求めている主』→初臨のイエス様【原文では、定冠詞付きの『主』ハ・アドン
契約:新しい契約の締結者、成就者であり、アブラハム契約の成就者と言える。
『その神殿』→近未来的には第2神殿。(遠未来的には第3神殿とも考えられる)
「突然」の意味⇒このマラキ書以降、預言が無くなるので。

さらに、2:17の言葉のように、結局、初臨のイエス様を無視することから、この節は近未来と遠未来の意味の含みを持つ預言的表現ではないか。
初臨のイエス様を指すと共に、遠未来の地上再臨のイエス様の予表と見る。


2節:だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

3節:この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。

この方(イエス様)は、裁き主として来られる、再臨の獅子なるイエス様。
1節は、子羊なるイエス様であり、さらには獅子なるイエス様の予表である。
『だれが』とは、大患難時代の人々。
大患難時代の状況を預言。未曽有の天変地異、疫病、戦争・・神の裁きは壮絶!
メシア的王国が成就するとき、王である主は、レビの子孫の祭司たちを立て上げ、義によるささげものがささげられるようになる。神の栄光をたたえる真の礼拝者たち。

 

4節:ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。

かつてのモーセの時代のように、ダビデの時代のように、ささげ物、そして賛美を神は喜ばれる。
それはイスラエルの民の栄化が、大患難時代を経てメシア的王国の時に成就するから。

私たちは、この賛美に参加できる者として、その特権に与っている。
今は、それを先取りして、神に感謝し、賛美を捧げていることを忘れてはならない。

5節:「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。 ―万軍の主は言われる―

さばきの対象は、イスラエルの民。新共同:「・・・あなたたちに近づき、直ちに告発する」
神に不遜な言葉を吐き続ける民(2:17のことば)を、この世にかつて存在しない患難で 裁かれる神。すべて、神のみこころ(ご計画)の結果である。(DKNJ)
神は、世的な民の全てをご存知である。社会的弱者の抑圧。言い訳はできない。


6節:主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。

しかし、主の愛は変わらず、イスラエルの民は最終的には神に立ち返り、絶滅することはない。
つまり、このDKNJという裁きは、イスラエルの民の気付きの促しである。
彼らの救いの最後の道を、神は愛を持って導かれている。

私たちの神は愛の神 ⇒ 越えられない試練は与えられない ⇒ 試練もプラス材料!
気付きの促しと捉えて、心の向きを変えよう! ⇒私たちはどんな時も悲劇の主人公にはならない!

7節:あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。 ―万軍の主は言われる― しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。

民の不遜の原因を指摘する神。それは、神の掟、言いつけを守らず歩んできたこと。
申32:46~47
神の愛が示される箇所:わたしに帰れ!そうすれば、わたしもあなたがたに帰る!
「近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4:8
しかし「どのようにして帰ろうか」→方法さえ思いつかない体たらく。神の民の本質は失せている。

私たちも、自分勝手な神像を心に造り上げてはならない!神に近づくのである。
神像を造るとはどういうことか? ⇒ 神はこうあるべき!と自分の神像を神に投影すること。
自分の神像を神とし、自分がその神に命じている ⇒ 心の偶像礼拝となるから要注意!
聖書を学ぶことは、神を知り、神を愛すること。

神のご人格に触れ、絶対的主権を受け入れよう!

8節:人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。

9節:あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。

神のものを人が盗んではいけない。まして、神の民が盗むなどありえない事。
そんなことをしているのに、当のイスラエルの民は言う。
『どのようにして、あなたのものを盗んだというのですか?』そんなことしてませーん!
それは、十分の一と奉納物を規定通りにしていないという事である。
本来、神に返さなければならないものなのに、それを規定通りにしないなら盗みである。
イスラエルの民全員が盗人であると神は指摘する。
レビ人、祭司を蔑ろにし、神への働きが失せ、結局、民がのろわれることになる。

・十分の一とは、全ての収穫の十分の一。レビ人たちの生活の糧。民数記18:20~21参照
・奉納物とは、いけにえの動物、ささげ物の中の祭司とその家族の取り分
・奉献物とは、ささげものの一部で、祭壇に向かって揺り動かす。神にお返しし、その後、祭司に与えられる。出エジプト29:27~28参照

10節:十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。 ―万軍の主は言われる― わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

『宝物倉』→貯蔵庫。
『わたしの家の食物』→祭司たちの食物。
神は最大限の譲歩(『試してみよ』)をして、民に規定通りの誠実な行動を促す。
その結果は、あふれんばかりの祝福。→当時の経済基盤である収穫物の豊作。


11節:わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。 ―万軍の主は言われる―

具体的には、いなごなどの害虫を打ち、麦やぶどうなどの収穫物を豊かにする、と言われる。

様々な気付きを促し(自然災害)をしたが、結局、民が気付くことはなかった。

ならば、「試してみよ!」とまで言われたが、その行動がないことは宣告ご承知。

民は神に信頼なし!
でも、神は6節で示したように、最終的な祝福を備えておられる。原則、神を試してはいけない!

   豆知識

        旧約聖書(モーセの律法)の十分の一献金について

 


12節:すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。 ―万軍の主は言われる。

もし、民が規定通りに誠実に行動するなら、国は豊かになり、周辺諸国はそれを幸せ者というようになる。
約束の地に住まう民が、喜びに満ちあふれる地となるからである。
常に「万軍の主は言われる」とあり、神の確信を持ったことばと考える。
この状況が実現するのは、まさにメシア的王国であり、まさに未来の姿を示されている。
しかし、残念ながら今の民にこの預言は響かない。

神殿再建時に、神が預言者を通して築き上げた民へのアイデンテイテイや目的意識は、既に回帰不可能なほどに異邦人化してしまい、神の民は形骸化してしまった!
世の流れに惑わされ、本当の正しさが見失われてしまった状態。
私たちは神に全幅の信頼を置くクリスチャンとして、素直に、誠実に、神の子として歩むことが求められる!

2023年05月19日