ダニエル書3章1節~30節
1節:ネブカドネツァル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に建てた。
2節:そして、ネブカドネツァル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に出席させることにした。
3節:そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に集まり、ネブカドネツァルが建てた像の前に立った。
4節:伝令官は力強く叫んだ。「諸民族、諸国民、諸言語の者たちよ。あなたがたはこう命じられている。
5節:あなたがたが角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたときは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝め。
6節:ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる。」
7節:それで、すべての民が角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民族、諸国民、諸言語の者たちは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝んだ。
ネブカドネツァル王は金の像を建立。
建立の年は、70人訳聖書からBC586年(イスラエルの完全征服、神殿崩壊の年)と言われている。(ダニエルと仲間は30代後半か)
H60キュビト×W6キュビト→約27m×約2.7m。10:1の比率。
どのように支えたかは不明だが、何とも不安定な像。純金ではなさそう。
ドラの位置は不明。砦の外?
すべての高官を招集。(高官名はアラム語やペルシア語が混在→多国籍を象徴している)
奉献式の日に示された王の命令。
奏楽が聞こえたら、ひれ伏し、ネブカドネツァル王建立の像を拝め!
拝まぬ者は、即刻その脇にある火の炉に投げ入れられる。(像の建立と共に備えられていた)
建立の目的とは:
かつてのイスラエルの神の神殿を崩壊し、自分の神の優位性が示されたことを表すため。
様々な捕囚民の多国籍状態にあって、バビロンへの忠誠を示させる狙い。
8節:このため、この機会に、あるカルデア人たちが進み出て、ユダヤ人たちを中傷して言った。
9節:彼らはネブカドネツァル王に告げた。「王よ、永遠に生きられますように。
10節:王よ。王は『角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞く者は、すべてひれ伏して金の像を拝め。
11節:ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め』と命令されました。
12節:あなたがバビロン州の行政をつかさどらせた何人かのユダヤ人がおります。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴです。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもいたしません。」
13節:ネブカドネツァルは怒り狂い、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来るように命じた。それでこの三人は王の前に連れて来られた。
カルデヤ人→知者(占星術師)王の夢の件でダニエルに命を助けられた者たちかどうかは不明。605年~586年=19年が経過している。
『中傷』→言語では「食いちぎる」のような意味。相当のマイナス思考が働いているのは明白。
3人の仲間はバビロン州の行政担当で高い地位にいる。ここぞとばかりに、彼らを告発。日頃の鬱憤か。
エステル記のモルデカイも、この3人と同じ態度をとった。
王は激怒し、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人を呼び出した。
捕囚地に生きること:
文化の違いから食物規定などの問題が生じる
神が忌み嫌われる偶像礼拝が、深刻な問題である。
優秀な人への言われのない嫉妬、やっかみ。反ユダヤ主義につながる。
14節:ネブカドネツァルは彼らに対して言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴよ。おまえたちは私の神々に仕えず、また私が建てた金の像を拝みもしないというが、本当か。
15節:今、もしおまえたちが、角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」
16節:シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。
17節:もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。
18節:しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
ネブカドネツァル王は、事の真意を確かめるかのように、一応、確認する。王の威厳でもある。
拝むなら赦す。しかし、もし報告の通りこの像を拝まないなら、像の脇の火の炉行きだ!
お前の神は、この王からお前たちを助け出すことができるというのか!できはしないだろう!
王は、自分の神がというより、無意識に自分は神よりも上であると豪語している。
しかし3人はひるむことなく、「自分たちの神は、私たちを炉からも、あなたの手からも救い出す」と言う。
しかし、たとえそうでなくても、私たちはほかの神々には仕えず、金の像も拝むことはありません!
たとえそうでなくても!:
ダニエルも含めた彼らの共通認識がここにある。
神の絶対的主権を認め、神に完全に従うという、ブレることのない信仰。
2章のダニエルの冷静な対処や、また今回の3人の冷静さもこの土台がポイント。
19節:すると、ネブカドネツァルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くするように命じた。
20節:また彼の軍隊の中の特に力の強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込むように命じた。
21節:三人は、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られ、火の燃える炉の中に投げ込まれた。
22節:王の命令が急であり、炉が非常に熱かったので、その炎はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを持ち上げた者たちを焼き殺した。
23節:この三人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ちて行った。
ネブカドネツァル王は、彼らの働きに免じて、恩寵を与えたが、彼らは丁寧に、しかし明確にNO!と言った。
王は、炉の温度を7倍にせよと命じ、3人を炉に投げ込ませた。縛られたまま彼らは落ちていった。
その炉の温度は、3人を持ち上げた兵士を焼き殺すほどだった。
3人は、衣服もそのままで、縛られたままで、炉の中に落ちていった。
24節:そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えた。「王様、そのとおりでございます。」
25節:すると王は言った。「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
26節:それから、ネブカドネツァルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、いと高き神のしもべたちよ、出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出た。
27節:太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、三人を見たが、火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていなかった。
ネブカドネツァル王は、不思議な体験をする。
燃える炉の中に4人の人影と、手足を縛られているはずの3人が、もう一人と共に歩き回っている。
そのもう一人は、まるで神々の子のようだ。←御使いのようだと言っている
王は、彼らにいと高き神のしもべたちよ!と呼びかけたのは、敬意の表明。相当の驚きだった。
彼らは出てきた。太守や総督などの王の顧問が確認すると、髪も上着も、火の匂いもなく、無傷であった。
そこに集った全員が、驚愕したことは間違いない
28節:ネブカドネツァルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された。王の命令に背いて、自分たちのからだを差し出しても神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこの者たちを。
29節:それゆえ、私は命令する。諸民族、諸国民、諸言語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神に対して不敬なことを口にする者はだれでも、八つ裂きにされ、その家はごみの山とされる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」
30節:それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。
ネブカドネツァル王は、確かに彼らの神が、彼らを助け出したことを認めた。負けを認めた。
命を奪うとまで言う王の命令に聞き従わず、神に信頼するこの3人を神は救われた。
王は、彼らは自分たちの神以外には仕えず、拝まない、真の信仰者だ。彼らの信仰は正しい!と評価した。
王は、この神が本物と認め、全国に、彼らの神を不敬に扱うことを禁じ、反すれば処刑することとした。
王は、この3人を更に栄えさせた。
神の存在を認めた王:
神という別次元の存在を目撃し、認めずにはいられなかった体験をした。
王にとって、この3人とダニエルの存在感は、神によって更に増し加わった。
3人を告発した者たち:
告発した者たちは、返って3人のユダヤ人を高めた。
加えて、真の神の存在を示すこととなった。
そして、3人に従うことになった。
神の絶対的主権
『絶対的主権』と『信仰』は、切り離せない関係にある。
絶対とはどういうこと?
『絶対的』とは、比較対象となるものがなく、疑いの余地がないということ。⇔相対的
人は常に相対的な考え方を持つ。自分にとってどうなのか?と考えるからではないか。
絶対的主権とは、個人的な思いが入る余地がない権威ということ。
絶対的主権を受け入れるというより、絶対的主権のもとにあるということを認めること。
3人のユダヤ人は、絶対的主権下にあり、それに従うという信仰を一言で公に示した。
たとえそうでなくても! 神の御心ならば・・
絶対的主権の元に居る幸い
絶対的主権(神)のもとに生きる者は、特に『死』について、一般とは異なる考えを持つ。
永遠のいのちを約束された私たちは、肉体的な死を通過するだけだと知っている。
死は絶対的だが、神によれば私たちは新たないのちを得て、新たな人生を神のもとで生きるのである。
30代であろう3人のユダヤ人も、絶対的主権の下に人生を歩んでいた。
神の主権を認め信頼して歩む道は、日々、神の新たな思い、奥深さを味わい、益々神を知り、愛し、信仰を増し加えて行くものである。
捕囚地にあって信仰を貫く3人のイスラエルの民を手本とし、私たちも「たとえそうでなくても、・・」と
顔色一つ変えず言える信仰を一つの目標にして、共に聖化のプロセスを歩んで行きましょう。