エレミヤ書3章6節~25節

神は、南ユダの偶像礼拝を指摘し、離婚訴訟(2:9)を起こしている。すでに北イスラエルは離婚されてしまっている。

 

6節:ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。

・ヨシヤ王の時代の状況・・BC628年に改革を開始。改革は進めど、民の心は変わらない状態。
・北イスラエルは徹底的に偶像を礼拝した。
・北イスラエルが滅んで、およそ95年経過している。北イスラエルを見て、南ユダは学ぶべきであった。
・「背信の」(ヘ)meshuvah は、背教と悔い改めの相反する意味を持つので注意。(shuv)

7節:わたしは思った。彼女がこれらすべてを行った後で、わたしに帰って来るだろうと。しかし、帰っては来なかった。そして裏切る女、妹のユダもこれを見た。

(北イスラエルを姉とし、南ユダを妹として表現)

・神は、そんな北イスラエルも遂には、神に回帰すると待っていた。しかし、そうはならなかった。
・神は離縁状を北イスラエルに渡した。裏切りの妹南ユダは、その状況を見ていた。

8節:背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も行って淫行を行ったのをわたしは見た。

・神は北イスラエルに離縁状を渡す。北イスラエルとの離婚が成立。
・裏切る南ユダはその離縁を見たにもかかわらず姦淫に走った。
BC722年、北イスラエルの事実上の離婚が成立。南ユダはBC586年のバビロン捕囚で離婚が決定となる。BC605年の第一次捕囚時は、国が残されていたため、離婚は未成立。

9節:彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した。

10節:このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった──主のことば。」

・南ユダは、淫行の罪を軽く考えて、淫行を行った。その軽率な行動が重大な結果となる。
・地を汚す罪をもたらしていた。
・そして、ヨシヤ王の時代になって王が改革するも、外見上を整えるだけで、真の悔い改めは無い。
北イスラエルも南ユダも結局のところ背教に走り神を裏切ることとなり、両者ともに同じ道に入り込んでしまった。

11節:主は私に言われた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。

・神は、南ユダよりも北イスラエルの方が正しかったと采配する。
・北イスラエルは重大な悲劇を提示した。その悲劇を見た者は悲劇回避の責任を負う。
・その責任を拒否するなら、さらに大きな罪過となる。(人の振り見て、我が振り直さねば、痛手は大きい!)
・北イスラエルの教訓を踏まえず南ユダは姦淫に走ったので、南ユダよりは北イスラエルの方が正しい。
・南ユダに対する回復のチャンスを示しているようだ。

12節:行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。──主のことば──わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。──主のことば──わたしは、いつまでも恨みはしない。
13節:ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。あなたはあなたの神、主に背いて、青々と茂るあらゆる木の下で、他国の男と勝手なまねをし、わたしの声に聞き従わなかった。──主のことば。

・捕囚された方向に向かい、「北イスラエルよ、神に回帰せよ。神は恵み深く、いつまでも恨まない。」と言え。
・北イスラエルに対するあわれみであり、南ユダに示す神の愛の深さである。
・必要なことは真の悔い改め。特に次の3点について反省を促す。これは南ユダをさとす言葉でもあろう。
①神への不義
②偶像に従がう姿勢
③律法への不従順
捕囚され、散らばっている北イスラエルの民と、南ユダの民に示しているのは明らか!

目線が遠未来に移行している!

14節:背信の子らよ、立ち返れ──主のことば──。わたしが、あなたがたの夫であるからだ。わたしはあなたがたを、町から一人、氏族から二人選び取り、シオンに連れて来る。

前半
・背教する民に立ち返りを求める神。立ち返ることは、真の悔い改めを求めているということ。
・「夫」‥これは「言葉遊び」、「掛けことば」になっている。
(へ)baal バアル・・夫、または主人になるの意味。異邦の偶像神バアルに掛けている。
偽物の神(偶像)ではなく、本物の神(主人)の下に帰れ!と招く神。

 

後半
・終末のイスラエルの「残れる者」の救済に触れている。(関連箇所 イザヤ10:20~23)
・14節以降、7つの終末後の祝福が示される。神は民に将来の希望を提示する。
①シオンにイスラエルの「残れる者」を連れ戻し、国家を回復する。
残れる者はとても少ない印象を受ける。特にこの時代は救われる者が少ないからか?

15節:また、あなたがたに、わたしの心にかなう牧者たちを与える。彼らは知識と判断力をもってあなたがたを育てるだろう。

②神のみこころにかなう牧者を与える。神のみこころに従う良き指導者(リーダー)たちが与えられる。
人々が真に求めるのは、そんな指導者であろう。

16節:あなたがたが地に増えて多くの子を生むとき、その日には──主のことば──人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。彼らがそれを思い出すことも、調べることもなく、それが再び作られることもない。

③イスラエルは、約束の地で子孫を増やすことになる。
④契約の箱が不要になる。→契約の箱ではなく、神が自ら住まわれることになる。
千年王国においては、契約の箱は不要で、実際に神が住まわれることになる。
神の直接的統治を示すもの。当時のイスラエルの民にとっては画期的なこと。
・シャカイナ・グローリーがエルサレム全体を照らし、覆う状態と想像する。 

17節:そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。

冒頭部(~と呼ばれ)
⑤神が目に見える状態でエルサレムに存在し、君臨する。(エレ23:5~6にて詳述)
・神がエルサレムのダビデの王座を支配するということ。メシア的王国の完成。
後半部
⑥異邦人国家に対して、エルサレムが注目される存在となる。本物の神の存在が示される。
・この時、異邦人の中で偶像礼拝の道を歩む者はいない。

18節:その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。

⑦北イスラエルと南ユダの再統一。→13節の真の悔い改めが条件となる。不義を告白すること。
・「北の国から」・・捕囚(追放)された地からの解放・・「不義」から解放。
・両国がライバル関係にあり、その関係回復は、預言者たちの夢、希望であった。神も同様かそれ以上。
は、いずれ来るメシア的王国における7つの祝福を示された。→希望の提示!

19節:わたしは思っていた。どのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに慕わしい地を与えようかと。国々のうちで最も麗しいゆずりの地を。また、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れないと思っていた。

・神は思っていた。・・まさに契約の時であろうか。
・「息子たちの中に入れ」・・祝福された神の子として受け入れ・・イスラエルの子として相応しい祝福。
慕わしい国、世界で最も麗しい国を与える→それはあなたがわたし(神)を父と呼び、従うと信じていたからである。※従って悔い改めがない限り、神との再会は不可能な状態。

20節:ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ──主のことば──。

・神はイスラエルに最善を提供したいと考えられている。→これは私たちにも同様の思いである!
・そんな神の思いを、姦淫によって裏切った。
・姦淫の罪を犯した北イスラエル、南ユダともに、悔い改め無くして祝福はあり得ない。
神は結婚した時、つまりシナイ契約を結んだとき、これほどまでにイスラエルを愛し、期待していたという事である。
この神の愛と期待は、同様に私たちにも注がれていることを忘れてはならない!

21節:一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らが自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。

・かつて偶像礼拝していた丘で泣くイスラエルの民。偶像のむなしさ、そして自らの罪に気付く民。
・「泣く」・・罪のために悲しむというニュアンス。「哀願」・・好意、罪の赦しを求めるというニュアンス。
・気付きの促しに応答した姿。

22節:背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。』」「今、私たちはあなたのもとに参ります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。

・「立ち返れ」・・(ヘ)shuv(shoob)・・エレミヤ書におけるキーワード。
・「立ち返る」、「悔い改める」、「背教する」といった、相反する意味を持つ言葉。 (6節:meshuvah)
・虚しいものではない本物の神だから、失意の民を癒すことが出来る。
・民は「あなたこそ、私たちの神、主です。」、「本物の神、主です。」と応答する。

信じていたものに裏切られることの辛さ、虚しさは何とも言い難い状態で、まさに失意したと言える。そんな時でも私たちは神に返ることが出来る。神の絶対的存在の証明である。

23節:まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。

・ 「偽り」・・(へ)欺瞞、失望、虚偽を指す。
・偶像礼拝の虚しさに気付く民。本物の神に気付いた民。救いは神にのみ可能な御業と知った民。

24節:しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。

・偶像は、労苦の実、犠牲の羊や牛、更に人の命(人身御供)までも貪った。とんでもないことをしたと反省。
・「恥ずべきもの」→「恥」・・(へ)bosheth はバアルを軽蔑的に表現する言葉。バアル礼拝の恥を反省。
・ホセア9:10に似たような表現がある。

25節:私たちは恥の中に伏し、恥辱が私たちの覆いとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖も、若いころから今日まで罪の中にいて、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」

・イスラエルは、その偶像礼拝の恥に伏し、その恥に覆われている。
・若き頃から今まで神の声に従わなかったことの罪深さを大反省する時がくる。

最終的にイスラエルの民は、大反省して神に立ち返ることが示されている。
しかし、その時は先のことであり、神の忍耐の時が続くことを、神はご承知である。

 

貪る偶像と与える神
・イスラエルは将来、真の悔い改めをするのですが、その時、偶像の虚しさを知ります。
・偶像は姿を変えて貪ります。今でこそ人身御供は無いにしろ、偶像は人々の人生を貪り、時によってはその人の人生を台無しにしてしまいます。
・また、世の中は様々な報道によって人々を洗脳し、いつの間にか、誰かの指し金の通り物事を考え行動し、いつの間にか人は何かの操り人形のようです。
・そんな人間の心の弱さや脆さを神はご存じで、新約時代の私たちには、聖霊という強い味方を、私たち一人一人に与えてくださいました。
・偶像は貪ります。しかし、真の神は道、真理、いのちを示し、聖霊を与えてくださいます。虚しさではなく、希望を与えてくださいます。いつもどんな時も与えてくださる神に感謝です。
「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちに良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」 ルカ11章13節

2024年11月07日