ダニエル書9章25節~26節
25節:それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして、苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。
24節において、6つの目的のために、70週(490年)が定められていることが示された。
さてその具体的な時間軸とは?
ガブリエルはダニエルに、ここで示される内容は、終末に関することだと知っておきなさいと強調する。
終末(最終的に)はこうなる!という事。(歴史には終わりがある!)
このシナリオの皮切りは、エルサレム復興である。
ダニエルにとっては、自分が経験した捕囚からの解放が一番理解しやすい。
この命令は、キュロス王から翌年に発令される。
BC538年の帰還、再建命令。(現在はBC539年)
70週の起点については次のように数案ある。
①キュロスの命令(Dr.フルクテンバーム)
②ハガイ、ゼカリヤの命令
③エズラへの命令
④ネヘミヤへの命令(Mr.アミール)
等他にもあるようだがここには挙げない。
しかし、次の理由から①キュロスの命令を起点と考える。
・イザヤ書にて預言された内容であること。イザヤ44:28
・ダニエルが預言を受けた翌年に、その成就を見るということ。
・字義通りの解釈の視点
ただ、ここに2つの考え方(④と①)を挙げておきたい。
その前に、新共同訳が分かりやすいのでその訳を記す。
25節の新共同訳:『これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての 御言葉が出されてから油注がれた君の到来まで 7週あり、また、62週あって 危機のうちに広場と堀は再建される』
先ず、ネヘミヤを起点とした考えでは、
・アルタクセルクセスがネヘミヤに再建の許可:BC445.3.14
・69週は、日数に換算すると、太陰暦で173880日。360日/年×7×69(ユダヤ暦)
・これを加算すると、BC445.3.14→AD32.4.6=イエスのエルサレム入城の日。
キュロスの命令を起点にすると、年代に大きなズレが生ずるが、聖書に忠実に、字義通りに考えたい。
・キュロスの命令が、都市と神殿の再建を端的に示している。ハガイ書では住まいが出来ている(ネヘミヤの70年前)。
・イザヤ書ですでにキュロスの出現が明記され、神殿についても言及がある。イザヤ44:28、45:1~
・他の3命令は、神殿再建という直接的な表現ではない。ネヘミヤは、王から派遣の許可が出されもの。
・フルクテンバーム博士は、ペルシア帝国史の西暦表記に誤りがあるとし、キュロス王の命令を起点とすべきとする。
・ペルシアなどの西暦表記の基準はプトレマイオス年表。参考程度の信頼性。(プトレマイオスは2世紀の天動説の天文学者)
『油注がれた者、君主』とは、メシアなるイエス・キリスト。
ダニエルはどのように推測したであろうか。
絶対的支配者なる王を想像したのではないか。
<英語訳>『エルサレムが再建され、油注がれた君主が来るまで、7週と62週がある。』
エルサレム再建と7週、君主の来臨と62週、という関係。つまり・・
広場や堀の再建→要塞都市エルサレムを指している。神殿、城壁完成まで様々な妨害があった。(ハガイ書、ゼカリヤ書、エズラ記、ネヘミヤ記)
キュロスの再建命令からネヘミヤの城壁完成まで49年。字義通りの解釈を最優先する。
そして、イエス・キリストが出現するのが、その434年後、つまり再建命令から483年後ということ。
26節:その六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。
62週(434年)の後、メシアが断たれる事件が起こる。
「断たれ」というのは、へブル語では暴力的な死を意味する。メシアの処刑(十字架)。
何も残らない→彼は何もない。へブル語では自分のためではないとも訳せる。イスラエルと世のため処刑された。
『次に来る君主』は、8:23~25で示された反キリストを指す。(26節の君主はnagid:反キリスト、25節の君主はmasiah:メシアが使われている)
キリストが磔刑されて後、AD70年にエルサレムと神殿が崩壊する。その実行者はローマ軍。
ここで分かることは、反キリストはローマ起源の異邦人。反キリストは異邦人の時の最終的支配者。
エルサレムと神殿は、軍事侵略(洪水)される。これは、終末にかけて神殿が建っているという事。
最後の最後まで、イスラエルの民は土地も含め、長期間荒らされることが定められている。
9章26節は69週と70週の隙間時間
対話と歩み
神に喜ばれる信仰生活
優秀なダニエルでも、その示された預言の言葉にかなり動揺したのではないかと想像します。
捕囚されながらも、高いポジションに置かれたダニエル。まるで救い現実版のようです。
しかし、彼は神が喜ぶ信仰者として、日々、神が示す正義と公正を実践していました。
私たちも、こうした信仰生活を、日々の生活の中にどんどん取り入れることが大切です。
聖書を通して、未来の素晴らしい約束が与えられていることを私たちは知っています。
と同時に、この地上の人生をどう生きるかも、聖書を通して学びます。(愛神愛人・・正義と公正)
神は聖書と聖霊を通して、いかなる動機をもって人生を歩むかを教えています。(キリストの律法)
救いはレーベルやレッテルではない!聖書が示す道を歩むことが救いです。
神との対話を欠かさず、教会の繋がりを喜び、皆で神を見上げてスクラム組んで前進しましょう!
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」ヨハネ14:6