エステル記とペルシア戦争

ペルシャ戦争
・BC500年~BC449年の約50年間に4回に渡って争われたペルシアとアテネの戦争。
・ヘロドトスの『歴史』というペルシア戦争を主題とした歴史書が参考。(史上最古)
・著者がギリシア側の目線であることに注意。

 

 

BC500年・・徴兵を強要するペルシアに対し、イオニア地方のミレトスを中心とするポリスが反乱を起こし、これをきっかけにダレイオス1世がギリシア制圧を考え始める。
BC492年・・ダレイオス1世が、アテネに侵攻するも暴風のため撤退。1回目
BC490年・・ダレイオス1世が、本格侵略するもマラトンの戦いで敗れる。2回目

マラトンの戦いの時のギリシア兵の一人が、勝利を知らせようと重装備のままアテネに向かって走り、到着して力尽きたとのこと。その距離約40キロ。そこからマラトンの名をとって、長距離競技マラソンがうまれたとのこと。しかし、後の創作ではとも言われている。
BC486年・・ダレイオス1世没。続いてクセルクセス王が戴冠。
BC483年・・半年間に渡る全首長との打ち合わせと、王妃ワシュティの失脚
BC480年・・9月にギリシア侵攻。クセルクセス王は、陸上戦で制圧するも、サラミスの海で敗北。クセルクセスはペルシアに引き上げる。3回目

当時のペルシア軍の兵力は170万人とも言われ、ギリシア軍の数万人の兵力とは桁違いの差があったが、ギリシアが勝利。ギリシアの一般市民が兵力として参加し、市民の発言力が高まり、民主化が進むこととなる。
BC479年・・7月、ギリシアに残ったペルシア軍は陸ではプラタイヤの戦い、海ではミュカレスの戦いに大敗し、遠征は失敗。4回目

BC479~478年・・12~1月(クセルクセス王第7年の第10のテベテの月)~エステル王妃誕生
BC477~475年以降・・モルデカイによる王の暗殺計画の未然防止
BC476年・・バビロンの反乱を鎮圧。(BC480年~BC476年:3度の反乱)
BC474年・・3~4月(クセルクセス王第12年の第1のニサンの月)ユダヤの民殲滅のくじ引き。
BC474年・・5~6月(同年の第3のシワンの月)ユダヤ人が敵に報いることができる法令発布。
BC473年・・2~3月(同年の第12のアダルの月)ユダヤ人の勝利。プリムの祭りの開始。
BC465年・・クセルクセス王の暗殺。アルタクセルクセス王の就任。
BC449年・・アルタクセルクセス王は「カリアス和約」をアテネと締結、ペルシア戦争は収束。

 

クセルクセス王について

ペルシア戦争の参考文献、ヘロドトスの『歴史』は、ギリシア側の目線の書。クセルクセス王としては、ギリシア遠征は、数ある遠征の一つであったと言われている。ちなみに クセルクセス王の懸念事項はバビロンの反乱であったとのこと。(帝国の管理は多忙!)
バビロンはダレイオス王の時から商業都市として最も繁栄したが、ペルシアの支配に不満を持ち、BC484~BC476の間に3度の反乱を起こしていた。
クセルクセス王は、この都市を打ち、神殿と黄金神像を撤去し、神官団を虐殺し、民を移住させ、バビロンの繁栄を終わらせた。
今わかる歴史と聖書をラップさせることで、更なる神の微細なまでの働きが見えてくる。こうした見えない神の存在に気付き、聖書が示そうとしていることを学び取りましょう!


2024年02月01日