ゼカリヤ11章1節~17節

カリヤ11章の構成

 

1節:レバノンよ、おまえの門を開け。火がおまえの杉の木を焼き尽くす。

2節:もみの木よ、泣き叫べ。杉の木は倒れ、見事な木々が荒らされたから。バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。深い森が倒れたから。

預言の場面は、70年の第二神殿の崩壊を示す。
レバノンは、立派な杉、もみの木で有名。この杉材が神殿の内装に多用された。

「レバノン」・・神殿を指している。
「門を開け・・」とは、内部が攻められ杉材、もみの内装が火で焼き尽くされる光景。
「バシャンの樫の木・・深い森」・・民間の家々、つまりエルサレム全体を指す。神殿が破壊され、エルサレムが打たれてしまう光景が預言されている。

 

3節:牧者たちの嘆きの声がする。彼らの見事な木々が荒らされたから。若い獅子の吼える声がする。ヨルダンの茂みが荒らされたから。

「牧者」・・「イスラエルの指導者たち」が、神殿、エルサレムの滅びを見て嘆く。
「若い獅子」・・(中川先生は、「王子たち」と考えられている)「獅子」は時には神、そして時には敵を指す。いずれにしても、領地のヨルダン地域にまで敵の侵略が及んでしまう。

この描写は、70年のローマ軍による神殿崩壊を預言している。神殿再建した民に対して、信じがたい預言である。それほどに重要なメッセージということ。

4節:私の神、主はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。

5節:これを買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく、これを売る者も、『主がほめたたえられるように。私は豊かになった』と言う。その牧者たちは羊をあわれまない。

神はゼカリヤに、屠られる羊の群れ(ユダヤの民)の霊的指導を命じられる。(1回目)
屠られる羊・・これは滅びが予定されているという意味。ゼカリヤにより、神の御心を教えられる民は、屠られる時、自らの罪深さを知ることになる。
この羊を買い、ほふる者・・とはローマ人のことである。彼らに罪責感はない。
これを売る者・・自国の民を売り渡すユダヤの指導者たち。ローマと組む指導者。
彼らは民をあわれまず、自分の利得ばかりを考える。(ヨハネ19:15)

 

6節:それは、わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ ―主のことばー。見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」

神のあわれみがないゆえに、ユダヤの民はローマに渡され、民は世界に離散となる。


7節:私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。

「私」・・ゼカリヤである。
「羊の商人」・・ヘブル語では「貧しい羊」となり、中川先生は貧しい羊で解説。(新共同訳の欄外説明でも、同様に解説している)
更に、羊の商人は、貧しい羊・・つまり残れる者(レムナント)を指している。
羊を飼うための杖二本・・慈愛(神の守り)と、結合(民の一致)という二つの教え。


8節:私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。

反抗する三人の牧者の出現で、ゼカリヤは指導を止める。これはパリサイ人、サドカイ人、律法学者を指している。(イエス様に反抗する存在)
神と民との関係がギクシャクする。
ゼカリヤは、イエス様の予表と見ることができる。


9節:私は言った。「私はもう、おまえたちを飼わない。死ぬ者は死ね。滅びゆく者は滅びよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」

ゼカリヤの教えが終わったことを意味すると共に、切実な悲劇の暗示である。「残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい」は、悲惨な戦争が見える。


10節:私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。

一本の慈愛(神の守り)の杖を折り、ゼカリヤは異邦人からの攻撃の防壁を取り去る。神に願っていた諸国に対しての防御の約束を取り払ってもらうということ。

 

11節:その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。

その日、約束は破棄され、ゼカリヤから指導を受けていた残れる者は、私(ゼカリヤ)のことばが神からのことばであったと知った。

イエス様の時代においては、マタイ12:22で起こるベルゼブル論争を指している。
70年のローマ軍の包囲開始の時、全メシアニック・ジューはペラに非難し助かる。

12節:私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。

13節:主は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

14節:そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。

ゼカリヤは、「自分の働きが価値あると思うなら賃金を払えという。しかし、価値がないと思うなら払うな!」と民の指導者たちに言った。
払った代価は銀30シェケル・・殺された奴隷の値段と同じ(出エジプト21:32)。侮辱! ゼカリヤは預言者であり、この侮辱は神に対する侮辱である。
神はその銀30シェケルを「陶器師に投げ与えよ」と言われ、ゼカリヤは渡した。
神殿の近くに陶器師の地区がある。陶器師と創造主。将来の預言的行為。
イエスは銀30シェケルで売られた。そのお金で、陶器師の畑が買われた。(マタイ26:14~16、27:3~10) ゼカリヤはイエス様の予表。
結合(民の一致)の杖が折られる。ユダ(南ユダ王国)とイスラエル(北王国)の兄弟関係が崩れる。(70年頃は熱心党がローマのみならず、ユダヤ人とも争ったとのこと)

 

寄り道

マタイ27:7~10について
ユダが返した銀貨30シェケルで買い取った土地。
この9節でエレミヤが語ったとされる内容は、

エレミヤが語ったヒノムの谷にあるトフェテ(虐殺の谷)に関する内容(7:31、19:11)と、ゼカリヤ(11:12、13)の両方を含めたもの。
そのヒノムの谷の土地を、イエスを買い取った代価で購入したということである。(血の地所)➡アケルダマ

15節:主は私に言われた。「もう一度、愚かな牧者の道具を取れ。

16節:見よ。それは、わたしが一人の牧者をこの地に起こすからだ。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものを癒やさず、衰え果てたものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。

ゼカリヤは、神に命じられます。(2回目)
「もう一度。愚かな牧者の道具を取れ。」の意味は、慈愛と結合の杖を折ってしまったから、もう一度指導せよとの事と思われる。
神は愚かな牧者をこの地に起こされる、といわれている。(真の牧者に反する者)
正しい教えをすれば、人は反対を行ってしまうがゆえに、愚かな牧者の道具となる。
愚かな牧者・・迷い、散ったものを探さず、傷ついたものを癒さず、衰え果てたものに食べ物を与えない。獣(羊)を食べ、ひずめを裂く。まるで野獣のように、自分の欲のために貪る。➡慈愛も結合もない最悪の状態となる。

中川先生は、この預言(15、16節)は132年のバルコクバの乱を預言していると解説。
132年、ラビ・アキバがバル・コクバをメシアと宣言し、ローマ軍に反乱を起こした。

 

バル・コクバの乱 【第二次ユダヤ戦争】
エルサレムを占領するまでに至ったが、大軍と装備にまさるローマ軍は、135年にはエルサレムを陥落。反乱軍は殺され、残りは奴隷。その大量の奴隷は安値で取引。本格的な離散の開始である。バル・コクバは戦死。ラビ・アキバは処刑。58万人以上が戦死。ローマ軍も大損害を受けたため、弾圧は熾烈であった。
メシアニック・ジューはこの時、バル・コクバをメシアと認めず全員助かったため、両者の間の分裂が更に進んだ!
ユダヤ人のエルサレム立ち入りは厳禁となり、破れば死罪であった。これが4世紀まで続いたが、その後、年に一度、有料によりアブの9日に立ち入り可能となる。こうして嘆きの壁で泣くようになる。

17節:わざわいだ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕と右の目を打ち、その腕はすっかり萎えて、右の目の視力は衰える。」

15~16節の愚かな牧者の末路が示されている。
救世主を語る者(反キリストも含め)の最後は哀れな滅びが示されている。
バル・コクバの乱を経て、ユダヤの民は救世主を受け入れることが難しくなってしまった。バル・コクバを『ほら吹き』と罵り、『バル・コゼバ』(欺瞞の子)と揶揄したとのこと。
慈愛と結合を失くしたユダヤの民は、今も多くの者がキリストを受け入れず、無視している。そして、史上最も愚かな牧者、反キリストが地上を荒らしまわる日がやって来る。
勿論、主が来臨して悪を裁き民を導かれるが、その苦難の歴史を思わずにはいられない

 

2023年03月15日