ホセア4章15節~5章15節

15節:イスラエルよ。あなたが淫行をしても、ユダを咎ある者にさせてはならない。ギルガルに行ってはならない。べテ・アベンに上ってはならない。『は生きておられる』と誓ってはならない。

「淫行しても、」・・新共同訳「遊女であっても」

北イスラエルはその淫行をもって南ユダを誘惑してはならない!と言われている。
ギルガル、ベテ・アベン(悪の家)は、偶像礼拝の地。かつて、ここベテル(神の家)には預言者の学校(預言者集団)があったが、それが偶像礼拝の地に変わってしまった。
彼らはその場所で「主は生きておられる」と言って、安易に誓いを立てていた。(安易に誓ってはならない!)
神は、「こんな偶像礼拝を南ユダにさせてはならない!導いてはならない!」と戒めている。しかし、これはそうなるということの暗示。北イスラエルがアッシリヤに捕囚後、この預言が南ユダの戒めとなれば良いのだが、残念なことになる。(南ではイザヤが働いている)


16節:まことに、頑なな雌牛のようにイスラエルは頑迷だ。今、は彼らを広いところにいる子羊のように養うだろうか。

北イスラエルは頑なな雌牛・・頑固者で不従順な態度。
主は、そんな者たちを、広い野原で従順な子羊のように養うことはなされない。


17節:エフライムは偶像にくみしている。そのなすに任せるがよい。

エフライム、すなわち北イスラエルは、わたし(主)の言うことは聞かず偶像の言うことに魅了されて従っている。もう、神の愛を注ぐことはしない。


18節:彼らは酒を飲んでは、淫行にふけり、淫らなふるまいで恥を愛してやまない。

神の目から見る偶像礼拝は、まさに酒池肉林の恥の世界。しかし北イスラエルの民はこの恥ずべき振る舞いを好んでいる。


19節:風はその翼で彼らを巻き込む。彼らは自分たちのいけにえのゆえに恥を見る。」

「風」・・新共同訳「欲望の霊」

これは神ではなく、神に反する悪霊を意味すると考えられる。その悪霊の翼が巻き起こす風に巻き込まれる北イスラエル。その風とは、アッシリヤによる捕囚であり、将来の大患難時代と考えられる。
彼らが捧げるいけにえはすべて悪霊に捧げられているのであり、それはすべて罪となって自分たちの上に降りかかってくる。
恥を見るということは、これまでにない厳しい狼狽と痛みを伴うものである。


5章

1節:「祭司たちよ、これを聞け。イスラエルの家よ、心せよ。王の家よ、耳を傾けよ。あなたがたにさばきが下る。あなたがたはミツパで罠となり、タボルの上に張られた網となったからだ。

先ず、裁きは、祭司、上層部、そして王家に下される。
ミツパは2か所存在。この場合は、ヨルダン川東にあるミツパ。

 

2節:曲がった者たちは殺戮を極めた。しかし、わたしは彼らすべてを懲らしめる。
新共同訳では、「曲がった者たちは殺戮を極めた」を「シッテムでは深く掘った穴となった」と訳している。
シッテムは地名で、偶像礼拝の地域。民を偶像礼拝に引き込む罠、網、落とし穴である。
祭司たちは、そのためには殺戮(人身御供?)まで極めたと考えられる。そんな導きをした祭司をはじめとする、姦淫の罪を犯した彼らを神は裁かれる。


3節:わたしはエフライムをよく知っている。イスラエルはわたしに隠されていない。今や、エフライムよ、あなたは姦淫をし、イスラエルは汚れてしまった。

「良く知っている」・・とは、夫婦関係のごとく相手を知っているということ。かつて結婚の契約を結んだのに、イスラエルは偶像を向いている。


4節:彼らは、自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあり、彼らがを知らないからだ。

5節:イスラエルの高慢はその顔に表れている。イスラエルとエフライムは、自分の不義につまずき、ユダも彼らとともにつまずく。

偶像礼拝を止めないのは、姦淫の霊(悪霊)に支配されているからであり、それは神を無視する態度。知らないとは、かつての婚姻関係を忘れてということ。
偶像礼拝は高慢な態度を意味する。神を無視すると傲慢になり、自分の都合の良いようにすることで自らが神になってしまう。偶像を拝みつつ、大罪を犯している。
北イスラエルは裁かれるが、警告したユダも傲慢になり、同様に偶像礼拝の罪を犯し、イスラエルの民全体が裁かれることとなる。


6節:彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、を尋ね求めるが、見つけることはない。主が彼らから離れ去ったのだ。

羊や牛の大量の捧げもの、つまり律法に基づき神に帰っても、主に求めても見つかりはしない。なぜなら、救いの原則は進展し、結果、神が離れ去ったように思われるからだ。

漸進的啓示(メシアの初臨)が暗示されている。

7節:彼らはを裏切り、他国人の子を生んだ。今や、新月の祭りが彼らとその地所を食い尽くす。

イスラエルは主から離れ、まるで他国人のようになって歴史を刻む。その結果、新月の祭りが、裏切った他国人のようなイスラエルの民と約束の地を食い尽くすことになる。

新月の祭りは、バアル礼拝を指す。70人訳では新月が「いなご」と訳され、
それはアッシリヤを意味する。それ故「食い尽くす」となっている。


8節:ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。べテ・アベンでときの声をあげよ。ベニヤミンよ、うしろを警戒せよ。

これは、かつて士師記の時代に起こったベニヤミン族の聖絶の歴史に関係している。

(士師記19章~20章)

イスラエル民族の悲劇、同族内の裁き、殺戮があり、ベニヤミン族は本当に少ない民族

(600人)となってしまった。そのかつての事件を思い起こせ!と知らせている。

9節:エフライムは懲らしめの日に、恐怖のもととなる。わたしはイスラエルの諸部族に、確かに起こることを知らせる。

10節:ユダの首長たちは、地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。

11節:エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。彼が自ら進んで人の決め事に従って歩んだからだ。

エフライム、すなわち北イスラエルに、事前に教えていた通りの裁きが下る。
ユダは、地境を移すという律法違反を犯し、自分勝手な方向へと進む。それ故、ユダをも神は裁かれる。(バビロン捕囚を指す)
エフライムが虐げられるのは、ユダと同じように、神に従うのではなく人の決め事に従ったためである。

シリヤ・エフライム戦争 紀元前735年~紀元前731年

北イスラエルはシリアと組んで、アッシリヤと組むユダを攻めようとしたが失敗し、むしろアッシリヤに壊滅的に攻められ、最終的には捕囚の身となる(BC722年)。
しかしながら、ユダ王国もこのアッシリヤの強さの前に、属国のようになってしまう。
兄弟(同族で)喧嘩し、どちらも大けがをするようなもの。

12節:わたしはエフライムにはシミのようになり、ユダの家には腐れのようになる。

「エフライムのシミ、ユダの腐れ」・・どちらに対しても、神の民として相応しくない状態。
将来イスラエルが歩む、心の偶像礼拝を経て、契約(大患難時代のきっかけとなる反キリストとの契約)に頼る民を指している。


13節:エフライムは自分の病を見た。ユダは自分の腫れものを。エフライムはアッシリアに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたを癒すことができず、あなたがたの腫れものも治せない。

14節:わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。

イスラエルの民は、人の決め事に従って歩み、反キリストに信頼しようとするが、それは解決には結びつかず、むしろ最悪の状態となる。
なぜなら、それは神がなされる獅子のような裁きであり、誰も救い出すことはできないこのあたりの神のことばは、直前に迫るアッシリヤ捕囚、バビロン捕囚という裁きよりは、むしろ最終的な大患難時代の裁きを示していることが伺える

15節:わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを探し求める。」

自分のところ・・今、神がおられる所であり、キリストが昇天しておられる状態を示す。
大患難時代において、厳しい裁きを経て、残れる者が主を呼び求めるときを待とう!
新共同訳では、「彼らが罪を認めて、」となっている。

2022年03月23日