マラキ1章1節~5節
マラキと時代背景
*マラキ・・『わたしの天使』、『わたしの使者』 という意味
*活動時期・・捕囚期以降に活動。手掛かりとして、1:8で使われる「総督」(ペハー)がヘブル語ではなくペルシャ語であるので、ペルシャ時代下にあることが分かる。また第2神殿が既に完成しているので、紀元前515年以降に活動したと考えられる。
1節:宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。
『宣告』・・ゼカリヤ書にも表記あり。重みのある預言。生死を決める重大事項。書置き。マラキ書自体が、そのような重みを持っているという事。事実、書としての預言は終わる。
2節:「わたしはあなたがたを愛している。 ―主は言われる― しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。―主のことば― しかし、わたしはヤコブを愛した。
愛している・・アハブ:偏愛的、寵愛的な愛。神の主権的な選び。無条件の愛。
ヘセド:合意に基づく契約の愛。条件が伴う愛。
ここでは、アハブが使われている。本来、長男のエサウが優先だが(長子の権利)、神はヤコブを選ばれた。神はヤコブを愛した。
私たちに対する神の愛は、まさに『アハブ』!この愛に応答しましょう!
世の中は、そんな私たちの目を神から引き離す要素が散りばめられているから、要注意!
3節:わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした。
『エサウを憎み、』・・冷遇する、選ばない、という意味合いが含まれる。
彼の山・・エドムの地を指す。ジャッカルの住処となり下がる。
エドムはバビロンにより滅ぼされ、再興を図ったが、立ち直れなかった。
既に、そういう兆候が見えていたと思われる。明らかに神殿再建のイスラエルとは異なる結果。→→神の決定事項であり、そこには神の愛による選別があるということ。
4節:たとえエドムが、『私たちは打ち砕かれたが、廃墟を建て直そう』と言っても、 ―万軍の主はこう言われる― 彼らが建てても、わたしが壊す。彼らは悪の領地と呼ばれ、主がとこしえに憤りを向ける民と呼ばれる。
神が「憎む」とは、再起の道がないことである
たとえどんなにあがいても、主は再起を許さない。
エドムは悪の領地と呼ばれる。神が永遠に憤りを向ける民となる。
神の絶対的主権の認識
5節:あなたがたの目はこれを見る。そして、あなたがたは言う。『主は、イスラエルの地境を越えて、なお大いなる方だ』と。」
既に当時、エドムの再起不能の兆候は見えていたと思われるが、私たちが見る歴史を見ても、エドムの再起はない。民は、エドムの衰退を見て、主は国境を超えてすべてを支配される絶大なる神と言うだろう。いずれ来るメシア的王国においては、エサウの子孫エドムの裁きを明確に見ることになる。それは、自分たちが神に愛されていたということに気付くことである。
神は、神殿再建後の民の心をご覧になり、その心が萎えていることを指摘している。
『主は、イスラエルの地境を越えて、なお大いなる方だ』と、果たしていつ言うのであろうか? 神の愛に信頼して待ち望む忍耐を神は求めておられる!
⁂口伝律法について
ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラーとは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法(口伝のトーラー)である。
ミシュナ 口伝律法 |
ソフリーム(BC6世紀~AD1世紀)と、タナイーム(1世紀~3世紀) のラビたちの、トーラーに関する注解や議論したもの。 本来は口伝だが、2世紀の末ごろに書物となった。 |
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ゲマラ | アモライーム(3~6世紀)のラビたちが ミシュナについて注解、議論したもの |
タルムード | 4世紀、5世紀にミシュナとゲマラが編纂されたもの |
この歴史は、ユダヤの民が神からどんどん離れて行く歴史である