ネヘミヤ記8章2節~18節
2節:そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、
3節:水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。
・7月1日は『ラッパの祭り(レビ23:24)』の日。『新年の祭り』とも言われる。第7の月は安息月
・この祭りは「新しい」・「喜び」・「祝い」という性質。(更に『ラッパの祭り』は携挙を予表する祭り)
・民(成人の老若男女)は、夜明けから真昼までエズラが朗読する律法の書を傾聴した。
・民は城壁再建を通して、自らが神に立ち返る必要性を感じたからではないか。(神の霊的導き)
4節:学者エズラは、このために作られた木の壇の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。
(壇上の状況)
・エズラが立ち、彼を中心に右側に6人、左側に7人。彼らは祭司と考えられる。
5節:エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
6節:エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。
(民の状況)
・その時の民衆の数は、3~5万人と予想される(中川先生)
・エズラが書を開くと全員が立ち上がり、全員が「アーメン」と言い、全員が地に顔を伏せて礼拝する。
・圧巻である。こうして、朗読が始まり、民の姿勢は神のみことばに集中する。
・神は城壁再建と共に、民の心の再建をも導いておられた!
7節:ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。
8節:彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。
(朗読と解説の状況)
・多くのレビ人が民の間に配置され、律法の意味についてその場で解説した。(民は全員起立!)
・翻訳(ヘブル語→アラム語)があったと思われる。
・民はみおしえの書について理解した。従うべき項目を民は全員理解したという事。
それはこれまでの自分たちが、どれほど神の律法に背いて歩んできたかを知るという事。
9節:総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
10節:さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
・総督ネヘミヤ、学者・祭司エズラ、レビ人たち。→神にとって、聖なる日→神が民を受け入れたということ。それ故、悲しんだり泣いたりしてはいけない!(受け入れられたことを喜びなさい!)
・民は泣いていた。まるで一人の人のように皆が一致して悔い改めた。指導者たちはそれを知った。
・このことばは、神の赦しを意味する素晴らしい劇的なことばである。
・ネヘミヤは言う。十分に反省したのだから、共に食べ、飲みなさい。(公正の精神→隣人愛)
・ともに主を喜ぶことが、あなたがたの力になるのだから!
私たちもこの原理を忘れてはならない!
11節:レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」
12節:こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。
・民は悲しむのを止め、家に帰り、大いに喜んだ。
・この時、教えられたこととは、神に受け入れられたことであり、それを素直に喜んだ。
一致して、自主的に神のもとに立ち返り、悔い改めた民を見て、ネヘミヤ、エズラらも大いに喜んだ。そして神が本当に喜ばれたと思われる。
13節:二日目に、民全体の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。
・二日目になると、更に深く学ぼうとする民全体の一族のかしらたちがエズラのところに来た。
・律法のことばをよく調べるために。・・・・これが学ぶ姿勢である!
※14節に入る前に・・・・秋の祭りについて。
14節:そして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に次のように書かれているのを見出した。すなわち、「イスラエルの子らは第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない。
15節:また、『山へ出て行き、オリーブの葉、野生のオリーブの木の葉、ミルトスの葉、なつめ椰子の葉、また茂った枝木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作るように』と、自分たちのすべての町とエルサレムに通達を出して、知らせなければならない」とあった。
16節:そこで民は出て行き、枝を取って来て、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また神の宮の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に、自分たちのために仮庵を作った。
・第7の月には、仮庵の祭りの指示があることに気付いた。祭司からの命令ではなく、彼らが実際にその命令を聞いて実行に移す。この自主性が神の喜ばれるところである。
・全イスラエルの民へ、『仮庵の祭り』の開催を通達。材料の確保も含めて。
・2日~14日の間が準備期間。オリーブ、ナツメヤシ、ミルトスなどの葉や枝木の準備。
・自分の家の屋根や庭、神の宮の庭、水の門の広場、エフライム門の広場などに仮庵を製作。
17節:捕囚から帰って来た全会衆は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエルの子らはこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。
18節:神のみおしえの書は、最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めにしたがって、きよめの集会が行われた。
・ヨシュアの時代以降初めて、律法に則った仮庵の祭りを行った。祭壇完成時にも行われたが・・・(エズラ3:4) 規模も内容も稚拙だったことに注意!
・全会衆が仮庵に住み7日間、神のみおしえの書を聴き、8日目はきよめの集会をした。(申命記31:10~13参照)
彼らは仮庵に住みながらも、神の守り、導きに感謝し、やがて来るメシア的王国(千年王国)を心に描き、益々希望に燃えて、神をたたえたに違いない!
神の導きによる、神の民としての心の再建が成就した!ハレルヤ!
民の心の変化と『仮庵の祭り』
悔い改め→喜び→従順
・学びを通して、自らの罪を受け止め、心の底から現れる素直な『真の悔い改め』の姿となる。
・神に罪赦され、受け入れられたことで、民は己の立場を知り、それを素直に受け入れる姿となる。
・神の恵みと民の信仰が繋がり、本来の関係が回復。民は素直に喜んで神に従う姿となる。
真の信仰は、その人の心の中が一変することである。
いつの時代も、信仰こそが恵みへの応答である。
仮庵の祭りについて
・仮庵に住むことで、荒野の放浪時代を思い出す。
①エジプト脱出の際の神の働き。 ②荒野においても、神は民を養い、導き、守られたこと。
③千年王国を予表する祭り。
常に神に守られ導かれているという事を再認識し、感謝し、神に従う決意を呼び起こすこと。
今の時代にこの祭りはないが、日々のディボーションを通して、この決意を呼び起こそうではないか!
私たちの信仰に不可欠な学び
城壁再建を終えて、民は自らが神の働きを成し遂げていたことに気付いた。客観的に見ればそれは驚異的な事実。
神の民として全員が、神のみことばを正確に理解することを求め、神に対する愚かな態度を嘆き、悔い改めへと導かれ、涙した。(覚醒)
神は、ネヘミヤ、エズラ、レビ人を介して、赦しを与え、喜びへと民を導いた。神はこれほどに、愛する者を導こうとされるお方。
・神を信じれば、自然に神を知りたいという思いに導かれるものです。聖書を正しく学ぶことは、信仰する者にとって必要不可欠な行為です。
・学びは礼拝であることが、今回のネヘミヤ記からも十分に理解できます。神が与えてくださった聖書を正しく学び、みおしえに応答して素直に実践して行くかが私達の道です。
・「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」マタイ11:29