マラキ1章6節~14節

6節:「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。 ―万軍のは言われる― あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。

イスラエルの民は、神の民(主従関係)であり、神の子(親子関係)である。
神の子→ 出エジプト4:22、イザヤ1:2、63:16、エレミヤ31:9、ホセア11:1、参照

こうした関係は、神に尊敬の念、恐れの念があることが基本である。
神との関係を、律法を通して教え導くのは『祭司』の仕事の一つである

まさしく、その祭司を「わたしの名を蔑む祭司」と言って、叱責と共に、気付きを促しておられる神。お前たちは、外見上の祭司となり下がっている、名ばかりの祭司だ!

しかし、当の祭司たちは尋ねる。

どのようにして、あなたを蔑みましたか?私たちはきちんとやってますよ!
神はいつもその動機を見ておられるが、この祭司たちの動機は?

7節:あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。

神への日ごとの捧げものは、最上のものでなければならない。しかし、祭司たちはパンに限らず、ぶどう酒などすべてが最上でないものを捧げている。
それでも、祭司たちは汚したとは認めない!それどころか、主の食卓は蔑まれてもよいと、心の中で思っている!
 レビ21:6「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。」

 レビ6:12~18(祭司の仕事の一部)  

*祭司の主な仕事
①聖所の務め→捧げもの(神への捧げものが律法にかなっているかを注意深く審査し、 
すべてが規定通りであるように取り図る)、火を消さない
②民を祝福すること、きよめに関すること、ラッパの吹き鳴らし、律法やおきてを教えること

8節:あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。 ―万軍のは言われる― 

7節で「パン」と言ったが、それ以外でも汚れたものを平気で捧げている祭司。
職務怠慢!本来の仕事はホッタラカシである。どこにも『聖』は見られない。
『総督』に、そんな捧げものをするか?してみよ!彼はどういう態度を示すだろうか?
好意どころか、毛嫌いして近づけることさえしないだろう!

目に見える権威者には、真剣に、徹底的に捧げものを吟味して、ささげる。
しかし、神に捧げるときは、誠実さも忠実さもなく、無頓着にささげている!
人間の愚かさが露見している。目に見えるものに心が向いてしまう現実!
本当に大事なものを見失っている。特に祭司はそのストッパーなのに!
新約の時代にあって、私たちが祭司であることを認識しよう!

 (Ⅰペテ2:5、9 ロマ12:1 黙1:6 ) 

9節:さあ、今度は神に嘆願したらどうか。『われわれをあわれんでください』と。このことはあなたがたの手によることだ。神があなたがたのうち、だれかを受け入れるだろうか。 ―万軍のは言われる―

「今、『われわれをあわれんでください』と嘆願したらどうだ!」・・悔い改めたらどうだ・・ということ。
新共同では『今、神が恵みを与えられるよう ひたすら神に赦しを願うがよい。』
「あなたがたの手」・・つまり自分が蒔いた種、自分たちの行いの結果・・という意味。

悔い改めるという意味とやり方を知っているのか?知らないだろう!

10節:あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。 ―万軍のは言われる― わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。

心から反省して、汚れた捧げものを止めるべく、神殿の扉を閉めて、祭壇に近づけなくするほどのような者が一人でもいるか?

神はこのようなイスラエルの民を喜ばない。よって神はその者たちのささげ物がいくら捧げられても受け入れることはない
当時、実際の王は存在していなかった。(ペルシャの支配下)

よって民のリーダーは、大祭司、祭司という図式だった。本来とは異なる特異な環境。

11節:日の昇るところから日の沈むところまで、わたしの名は国々の間で偉大であり、すべての場所で、わたしの名のためにきよいささげ物が献げられ、香がたかれる。まことに、国々の間で偉大なのは、わたしの名。 ―万軍のは言われる―

神の存在感・・必ず神は全世界を治め、全人類(異邦人)が神を称える日が来る!
その時、率先してきよい捧げものをする神の民は素晴らしい祝福を受けるのではないか?

 

12節:しかし、あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。

13節:また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。 ―万軍のは言われる― あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。 ―は言われる―

それなのに「主の食卓は汚れ、その果実も食物も蔑まれている」と言って、不平を言うだけで何もせず、結果、神を汚し、更にそれに加えて、「ああ、面倒くさい!」と、軽視している。そして、かすめ取ったもの、病気のものを神に平然とささげている祭司たち。

そんなささげ物を、神は受け入れることはない。

本来の祭司の職務をどう思っているのか?!
大祭司や祭司は、外見は神に仕える姿勢を見せても、中身は世的。
大祭司エルヤシブ(大祭司ヨシュアの3代目)は、城壁再建の敵と融和(ネヘ13:4~7)

司の支配意識が職務怠慢を招き、民への悪影響となる。
導くリーダーの責任は大きい。神が上層部を叱る理由である

14節:自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。わたしは大いなる王であり、 ―万軍のは言われる― わたしの名は諸国の民の間で恐れられているからだ。」

祭司の劣化は、一般の民の信仰の劣化につながる。ここは、一般市民への影響を指摘。
口では、「最上のものをささげます」と言い、実際に良いものがあるにも拘らず、ささげる物は汚れた傷物を捧げる一般の民。偶像礼拝はしていないが、完全に神の存在を軽視。
『ずるい者』→狡猾、偽り者。かつて神は、そのような不信仰を裁かれ、バビロン捕囚があったのに、そのことを忘れているかのようである。(従って、のろいの対象となる)
神は、かつて恐れられ、そして未来においても全人類に対して恐れられる存在となる。

ここに心の偶像礼拝へと転げ落ちて行くイスラエルの民の行く末が、既に指摘されている。こうした、目に見えない神を蔑ろにするという事は、それだけ自己中心的な考え方になっている証拠ではないか。人々の心に、果たして正義と公正(愛神愛人)の思いは育つだろうか?

2023年05月04日