詩篇52篇は、エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときのものです。これは、サウル王とダビデの確執から生まれた事件で、サムエル第一21:1~10、22:6~21に記されています。
アヒメレクと祭司エリの関係
*アヒメレクは祭司エリの子孫で、アヒメレクの息子のエブヤタルを最後にエリの家系、つまり主の祭司の職は終る。
「使徒的」という言葉を聞くようになって随分立つ。私も以前、そのような教会にいたことがあるので、その中にいる信徒の方々がその間違いに気付かないのは理解できる。
だからこそ、この疑問を投げかけたい。
聖書の中の使徒たちはイエス様に任命されて使徒になっていることが分かるが、今の新使徒たちは誰に任命されたのか?ということだ。彼らは一体誰に任命されたのだろうか?そう尋ねたら、もしかしたら、「自分たちは神から預言された」とかって言うのかな?
でも、次の聖句を読むと・・・
エペソ2:19~22
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
聖書の中にさえ、使徒は12人しかいなかったし、黙示録21:14には、「都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。」とある。十二という数が重要だから、イスカリオテのユダが死んだ後、もう一人の使徒を選んだ。そして、その時の条件が、使徒1:21~22「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」である。つまり、イエスと生活を共にし、他の使徒たちと行動を共にしていた人でなければならなかったのである。それを言うと、パウロは違うと反論が来そうだが、パウロはイエスから直接任命されているので問題はない。
エペソでいう土台に当たる使徒はこの十二使徒のことである。土台は変わってはいけない。新使徒と自称する人たちは、決して土台ではないし、イエスと生活を共にもしていない。自分を使徒だと自称できるとは、それはいったいどういう人たちなのだろうか?聖書を字義通りに読まない人たちだと推測する。
テトス1章9節
教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。
この聖句をディボーションされた方の意見をリポートします。
この聖句は、文脈から言うと、教会の長老や監督に対してのものであるが、自分は家族の長として、このみ言葉を受け入れた。自分の行動は家族に見られていることを覚え、しっかりとみことばを実行していく者にならなければならないと思った。家族を救いに導くためにもそれは大切なこと。自分を見て、家族が神に近づいてくれるように、これからもみことばを正しく理解し実行して行きたい。
「教えにかなった信頼すべきみことば」「健全な教え」を、私たちは学ぶ必要があります。聖書のみことばを学ぶ時に、字義通りに解釈し、正しく理解されたみことばに従うようにし、決して自分勝手に解釈してはいけません。特に、長老や監督が間違った解釈のもとで信徒たちを縛るようなことがあってはいけません。私たちはみことばを字義通りに解釈し、お互いに励まし合えるように熱心に学んでいきたいと思います。
新しい賛美曲が出来ました。
曲名は「見上げれば」です。
歌詞:人の世の思いがみことばをさえぎる
思い煩う歩みの日々がただ過ぎてゆく
字義通りの読み解きが 私の心を震わせる
見上げれば主の光が 私を導いてる
主よ あなたの愛を 永遠に信じて歩みます
千年の御国の約束を心に刻み
神の栄光をたたえる その日を待ち望む
主よ 神よ あなたをあがめます
アーメン アーメン ハレルヤ アーメン
この世の流れが心をまどわせる
本当の正しさが見失われてゆく
字義通りの読み解きが 私の心の目を開く
見上げれば主の光が 私を導いてる
主よ あなたの愛に 永遠に応えて歩みます
新天新地の約束を心に刻み
神の栄光をたたえる その日を待ち望む
主よ 神よ あなたをあがめます
アーメン アーメン ハレルヤ アーメン
マタイ13:41~42
人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまづきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
「不法を行う者たちを御国から取り集め」って、御国に不法を行う者たちがいるの??
この御国は、奥義としての御国だけど、キリスト教会というよりキリスト教界を示していて、普遍的教会が携挙された後にも、地上にはキリスト教会が存在しているということを学びました。
地上の教会には、本物のクリスチャンとそうでない人が存在してますよね。携挙されるのは、本物のクリスチャンだけ。確かにクリスチャンでない人たちが教会に残りますね。